愛しのアイリーン

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<公式>

ストーリー:田園地帯で老父母とくらす岩男(安田顕)はパチンコ屋店員。42歳になるまで女性とまったく縁がない。父の葬儀の日、行方をくらましていた岩男が帰ってきた。フィリピン人の若い妻アイリーンをつれて。彼はお見合いツアーで相手を見つけてきたのだ。息子を溺愛する母ツルは許せない。夫の形見の猟銃を持って飛び出した。家族をやしなうお金のために結婚したアイリーンと不器用そのものの岩男のぎくしゃくした生活が始まる....

新井英樹原作。漫画は1995〜96年だ。当時は、たしかにこのお話みたいな東南アジアの女性と日本人男性の見合い結婚の話、よく聞いた。今はどうなんだろう。昔にくらべると、停滞しきった日本との経済格差は縮まって、わざわざ不自由な思いをして渡る人なんているんだろうか。

と思ったら、いまでもお見合いツアーはあるのだった。あえて紹介しないけど、専門の会社もある。じつは、経済成長こそしているけれど、日本とおなじようにフィリピン人の所得もあまり伸びていない。経済格差もはげしくて、平均年収が日本円で50万円ていどだというから、いまでも日本でかせげればインパクトがあるのはたしかだ。

そうはいっても、主人公岩男は田舎のパチンコ屋のホール担当。正社員で月給20万円そこそこの職種だし、たぶんパートやバイトのほうが多いだろう。いまの観客の実感だと「豊な日本へ来るフィリピン人」じゃなくなってきて「オレらも貧しいけど、もっときつい国から嫁いできた」話にちかづいてるんじゃないか。

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本作ではそこまで救いのない話にはしてない。パチンコ屋の同僚たちもそんなぎすぎすしていない。というよりここで語りたい救いのなさはもっと別のところにあるのだ。

本作は愛をめぐる物語だ。ここでいう愛はものすごくセックスと一体になった、もっというなら暴力とも一体になった、一方的な思いとしての愛だ。新井英樹の漫画の主人公は(じつをいうとちゃんと読み通していないのがほとんどなんだけど)、「チャンスがあると性欲と暴力衝動を爆発させられるタイプ」、という気がする。力で押さえつけられたり、相手にされなかったりでそれができずに悶々とするのだ。だけどその2つは「ちゃんと」自分の中に備わっている。

本作の主人公岩男は漫画だとレスラーなみの大男。暴れたり性欲が爆発するシーンを実写でやると、さすがに怪物的になりすぎる。普通の身体をもつ安田顕になったことで、すこしこっけいさが生まれたし、物悲しさも生まれただろう。それでも「愛に不器用」という設定のかれのやるせない心のぶつけかたは、どこか無理やりなセックスだし、衝動的な暴力だ。発散はできる。でも受け入れられてはいない。

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本作は、原作のマインドをがっちり受け継いでいるところがあって、とにかく岩男にしろツルにしろすっと共感できるようにはまったく描いていない。観客は目の前で見せられる行動への嫌悪感を超えて、その奥底の届けられない「愛」に思いをはせなければいけないのだ。そしてそれが日本語すらよくわからないアイリーンにも課せられたきつすぎる試練なのだ。

アイリーン役のナッツ・シトイは試練をちゃんと受け止め切れる陽性のエナジー感がある。イノセントな雰囲気もあるし、意外と賢いところもちゃんと見せる。彼女じゃなかったら…映画は成立したかもしれないけど、だいぶ雰囲気は変わってしまっただろう。

監督の過去作、『さんかく』はなかなかギリギリと切込む1作、『純喫茶磯辺』はふしぎなリアル感がある会話が面白かった。本作は観客を居心地よくさせないテンションが最後まで持続する。それがのどかなようで、出口なし感もある山あいの田園地帯で展開する。そして後半は豪雪のなかで日本映画の古典にあるみたいな哀切感にふりきれていく。

 ■写真は予告編からの引用

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レ・ミゼラブル

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<公式>

ストーリー:パリ郊外、モンフェルメイユ。小説『レ・ミゼラブル』の舞台になった街だ。警官ステファンはこの街の犯罪防止部隊に配属された。各国の移民が住む団地がある犯罪多発地域。パトロールの初日からトラブルが発生する。サーカス団の仔ライオンが地元の黒人少年に盗まれたのだ。激怒して刃物を振り回すサーカス団。ステファンとチームを組むクリスとグワダの3人は、犯人が盗み癖のある少年イッサだと知る....

レ・ミゼラブル』。紛らわしいよね。でもテーマに関わるし、とうぜん、あえて付けたタイトルだ。この前の『ボーダー』じゃないけど。本作でもちらっと小説のことは出てくる。1800年代のパリを舞台にした古典小説といまでもつながるテーマではあるのだ。

物語はぜんぜん別物。描いている世界はパリ郊外の移民たちの子供を描いた『パリ20区、ぼくたちのクラス』と共通。あと公式サイトで町山氏が言っているとおり、スラムの少年ギャングとそれを撮る少年を描いた『シティ・オブ・ゴッド』、LA郊外の超危険地帯の警官を描いた『エンド・オブ・ウォッチ』をすぐ思い出す。それからスパイク・リーの代表作の1つ『ドゥ・ザ・ライトシング』。物語的にはこの4つの要素で出来ているといってもいい。

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あとにあげた3作、それぞれ舞台に特色がある。『シティ』はリオデジャネイロ近くの丘陵地帯にあるファヴェーラという立体迷路みたいなスラム。『エンド』は一戸建ての住宅が密集するサウス・セントラル地区。『ドゥ』は古いアパートメントが並ぶブルックリンの一角だ。本作はそのどれとも違う、じゃあなにかというと、郊外の団地だ。

そう、本作は団地映画の系列でもあったのだ。犯罪の巣窟となった団地....『ゴモラ』があった。廃墟化した団地が不法滞在者と犯罪組織の魔窟と化した街だ。おなじイタリアの『ドッグマン』も開発に失敗して廃墟化したリゾート団地が舞台。傑作北欧ホラー『ぼくのエリ、200歳の少女』はストックホルム郊外の団地。きれいだけれど寒々としていた。それから韓国映画吠える犬は噛まない』も、監督ポン・ジュノ団地の空間を上手に使って、最新作でも描いていた、登場人物の関係と空間の上下関係の呼応を見せた。

 

本作の団地はここだ。1970年代築くらいだろうか、一見ちょっとしゃれた建物だ。でもためしに団地の名前+αで検索するとなかなかハードな画像がならぶ。数年前にも暴動があった。アフリカ系の移民、イスラム教徒のグループがいる。それに本作ではロマのサーカス団が加わる。サーカス団といっても愛嬌のある人たちじゃない。暴力的な香りをぷんぷんさせたガタイの良すぎる男たちの集団だ。

本作はそんな中にとびこんだ警官の2日間を描いたドキュメンタリックな雰囲気の作品。マリがルーツの監督自身がここの出身で、自伝的な内容だそうだ(もちろん住民側)。大量のアフリカ系の少年たちが出てくる。学校に行っているのか分からない。街の顔役(もちろんアンダーワールドの)「市長」のこともちゃんと知っている。1人のメガネ少年は少し暮らしがいいのか、ドローンを飛ばして近所の風景を空撮するのが趣味だ。

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犯罪組織化した地縁とそのままつながる少年たちの姿は『シティ・オブ・ゴッド』風だし、危険地帯で奮闘する警官たちの描き方は『エンド・オブ・ウォッチ』風(車内から危険地帯を見る視線も似ている)、それに....『ドゥ・ザ・ライトシング』との類似点はあえて書かないけれど、スパイク・リー自身が本作を激賞し、アメリカでのプロモーションに協力しているそうだ。

あと、あるシーンで主人公ステファンが『正しいことをしろよ』と同僚に言うシーンがる。フランス語だから、英語の〈do the right thing〉になるのか分からなかったけれど、いっしゅのオマージュなんじゃないかという気はした。

ぜんたいに緊張感があって、警官たちが狂言回しになって観客に紹介する街の実力者たちもそれぞれにキャラクターがあるし、抗争するギャングもの的な面白さがある。警官自体も正義漢とはいえず、暴力的だし高圧的だしなにか裏取引をしている風の、悪徳警官ものでよく見るアレだ。お国柄をかんじるのは、犯罪者たちも銃は使わない。警官もけっして実銃は抜かないで、暴徒鎮圧用のゴム弾の銃を使う。

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本作を際立たせているのが、舞台になっている「団地」、それにさっき書いた「ドローン」だ。団地はときどきその迷路性を発揮して、住人たちを追う警官を迷わせ、行く手を阻む。特に後半はけっこう恐ろしい。それから「ドローン」。映画の中のもうひとつの視線となるドローンは、舞台になる団地を上から見下ろす、一種超然とした視線を観客に提供する。

少年が撮っている(ことになっている)映像と物語を離れた作り手側の視線が混じりあいながら、空撮映像が入ってくるのだ。ドローンの、高度が低めで速度が遅くて動きが滑らかな空撮映像は一種独特な雰囲気をかもしだしている。そして映像はドラマにも直接関わってくるのだ。

物語はフッと終わる。いやむしろ「えっ」という感じでもある。「ここで終わるの?」....物語的なカタルシスを与えようとしていないのだ。緊張感のピークで観客を置きざりにして、問題をつきつけて画面は暗くなる。

 ■画像は予告編からの引用

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激動の昭和史 沖縄決戦

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<予告編>

東宝の夏の大作『東宝8・15シリーズ』の第5作、1971年公開。毎年夏に公開する、第二次大戦モノだ。『日本のいちばん長い日』が第1作。このシリーズ、会社あげての大作だから、毎年の興行収入も邦画の中では1〜2位にランクインする。そんな中で本作は寅さんに1位をゆずり年間4位(参考)、とはいえ数字的にはシリーズ6作中トップだ。

沖縄戦をほとんど美化せずに描き、それどころかかなり凄惨な描写をぶつけてくる本作は、メジャーが堂々と製作し、結構な観客が見に行ったヒット作だったのだ。日本で、今このトーンでの大作ありえないでしょう? ぼくは近年の戦記ものはまったく見ていないから、どんな傾向が主流か具体的に言いづらいけれど、でもないだろうということくらいは分かる。

ちなみにさっきの参考サイトで見ると、3位はやっぱり戦記ものの『戦争と人間 愛と哀しみの山河』、この作品は見てない。巨匠山本薩夫監督の大河ドラマ3部作の2作目だ。軍閥満州での日本軍の行動を描きつつ、メロドラマでもあるようだ。本作はナレーションやテロップを多用し、沖縄戦にくわしくない観客にも事実関係を理解させるつくりで、じつに分かりやすかった。部隊の移動も地図を見せられるから無理なく位置関係も分かる。

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画面は大作だけにチープさはあまり感じない。まず人を潤沢に使っている。シーンによっては結構な大人数を動かして撮っている。戦闘シーンでは米軍のM41戦車をそこそこの台数走らせて(いくつかはハリボテ)、もっと大規模なシーンは記録映像を挟む。空襲シーンとかは一部円谷特撮チームの映像もある。洞窟陣地では実地ロケも多そうだ。

あと、キャストの顔力と厚み。『日本のいちばん…』でも好演した小林桂樹が沖縄の駐留部隊司令官。強硬派の参謀長が丹波哲郎、知性派の高級参謀、事実上沖縄戦の戦略を立てた大佐が仲代達矢。それ以外、池部良加山雄三田中邦衛、それに岡本喜八作品の常連俳優たち。軍医役の岸田森が格好いい。

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本作はカラー撮影だ。『日本の一番長い日』はまだ白黒だった。このあたり、クラシックムービーの微妙なところで、カラーだとかえって古臭く見えてしまうところもある。シーンによってはいかにも70年代邦画を感じる。出演者たちの顔が全員テラテラに光って見えるところとか、爆薬の炸裂シーンの煙とサウンドとか(これは当時の名物特技監督中野昭慶の特徴)、爆薬でやられる兵士たちのすっとび具合とか、『新幹線大爆破』にも通じる、日本映画ならではのアレだ。

だけど本作は他の戦記映画とだいぶ違う。それは画面に写る死者の数だ。まず、冒頭でサイパン陥落から戦線が南西諸島に迫ってくるところを記録映像とナレーションで説明する、ここから戦死者の映像をたたみかけてくる。「覚悟はいいね?」と言ってるみたいに。第一次大戦の記録映画彼らは生きていた』では最終盤に見せてきた映像だ。中東戦の惨劇を題材にしたアニメ『戦場でワルツを』でも最終盤に実写記録映像を見せた。それなりに衝撃があるイメージだ。本作はそれをいきなり見せる。

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序盤はおだやかだ。記録に忠実に、時系列で起こったことを見せるから、軍上層部が兵員を増強して、司令官が交代し、参謀が作戦を立て、防衛の陣地をつくり....と進む。すこしタレないでもないけれど上層部の方針や錯誤で、敵が来る前にだんだんと条件が悪くなっていくのが理解できる。

米軍が上陸し戦闘がはじまり、休憩時間をはさんで後半は負傷者と死者で画面が埋め尽くされる。必要以上のスプラッター描写はないけれど、まったく美化してもいないしぼかしてもいない。アメリカ軍は徹底して抽象的な「敵」で、個人としては描かれず、表情もわからない。だいたい、使っているエキストラのせいか、混戦状態だと日米の兵士の区別がつきにくい。戦闘シーンではアメリカ兵も戦死しているけれど、血を流し、手足を失いうめいているのは日本人たちだ。

本格的な地上戦は1945年の4月から6月までの約90日くらいのできごと。日本側は約20万人、アメリカ側は約2万人が死亡した。正面から描けばこうなる。でもね....つくづくこれを夏の大作でやり切っていたのが凄いよ。監督の資質だけじゃないだろう。1971年、沖縄返還の1年前だ。

ちなみに最初に軍の地下司令部があったのが2019年に火災にあった首里城。そこから撤退した最後の陣地、摩文仁の丘まで、今のルートだと約17km、道がよくて健康な人だったら大した距離じゃない。でも劇中で描かれるけれど、その距離が移動できなかった人たちは、少なからずいた。

 

 ■画像は予告編からの引用

 

 

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US アス

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<公式>

ストーリー:アデレードルピタ・ニョンゴ)は夫のゲイブ、娘ゾーラ、息子ジェイソンの4人で両親が持っていたサマーハウスに来た。友人一家のいるサンタクルーズのビーチへ行くのだがアデレードは嫌な記憶が甦る。何か嫌なことが起こる.....それは起きた。赤い服を着た4人が強引に家に侵入してきたのだ。かれらはハサミで武装している。それより恐ろしいのは彼ら4人はアデレードとその家族にそっくりだった.....

Get Out』につづくジョーダン・ピール監督作品。作品のトーンはよく似ている。シンメトリカルで端正な画面、ホラー風ではあるんだけど面白怖い雰囲気、あとなんだろう、特有の奇妙さがあるような気がする。特に本作序盤の、「ことが起きる前」の不吉さをかもしだすシーンで「なんか奇妙だなあ」と思った。いろんなホラーや変わった映画のパッチワークみたいに感じたのかもしれない。

本作は「地下世界」がだいじなモチーフだ。物語の前に、字幕でアメリカ国内に延々とある見捨てられた地下空間のことが語られる。この物語の中では地上の世界の付け足しじゃない、地下の世界とその住人たちが存在するのだ。こういう想像って昔からある。民話や説話にもあるだろうし、SFの古典でいえばジュール・ヴェルヌ『地底世界』が有名だし、SF映画創世記の古典『メトロポリス』は資産階級が地上の高層ビルで暮らし、貧しい労働者が地下ですごす、というちょっと本作に近い世界観だ。

じっさいの地下空間と地下の住人が話題になったこともある。NYでは地下鉄廃墟やさらにその下に掘り下げられた地下空間に大人数のホームレスが暮らしていた...というドキュメンタリー『モグラびと』はぼくも買った。9.11以降急速に減ったそうだけど、今でもいるみたいだ(地下冒険家もいるらしい!)。『Mole People(モグラ人)』という古い映画もある。

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黒人のカルチャーと地下世界の想像でいうと、小説『地下鉄道』を思い出した。奴隷制時代のアメリカに延長何千キロの地下鉄道があって、南部の脱走奴隷たちを北部に運んでいるというストーリーだ。

日本でも、たとえば第二次世界大戦中の空襲対策で各地に作られた地下施設、三浦半島にも最近までけっこう大規模で入れるところがあった(もう入口が塞がれたらしいけれど...)。昔に行ったチェコの小さい町は、近世に少しずつ掘り進めて、町全体が地下道でつながっていて、外敵の襲撃を受けると地下ネットワークで避難できるようになっていた。

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本作、ここまでは書いてOKだと思うけれど、主人公一家のドッペルゲンガーたちが家にあらわれる。だけど髪型や雰囲気はちがっているから「鏡像」という感じじゃない。生き別れた双生児みたいなものだろうか (双子も出てくるしね)。このドッペルゲンガーは何の象徴....? という映画だ。ぼくたちは主人公側かもしれないけれど、ちょっとした何かでドッペルゲンガー側になっていたかも、いやなってるのかもしれない。

そのあたりの境界のあいまいさが本作のキモだろう。本作は構造としてはゾンビ物を借りている。人間に似たモンスターが現れる。でも無敵というわけじゃなく、アッパーミドルの主人公一家も反撃する。良識派で銃も武器も家にない。でもその反撃シーンが「え、モンスターってどっち?」とぎょっとするように見えてくるのだ。

一家の子役たちもじつにくせがあっていい。2人とも妙に老成した表情をときどき見せてくる。息子ジェイソン役の子なんてサミー・ソーサにそっくりだ。この子は序盤からいつも仮面をつけているなど、すごく意味ありげに出てきて、ドッペルゲンガーと対面したときも、1人だけ他の家族とちがう振舞をする。なんでかれだけが.....そこのオチはなかった気がする。謎だ。

■写真は予告編からの引用

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サーミの血

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<公式>

ストーリー:1930年代のスウェーデン北部、先住民族サーミの少女、エレ・マリャは妹と2人で家族と離れ、サーミ人学校に通っていた。頭がいい彼女は上の学校に通い、先生になりたい。けれどスウェーデン人の教師は「無理よ」「サーミ人は文明に適応できない」と答える。民族の伝統的な衣装を着て、虐められ、見せ物にされる暮らしにうんざりしたエレ・マリャはある日、都会から遊びにきていたスウェーデン人の青年と出会う.....

サーミ。この言葉知らなかった。ラップ人とかラップランドなら聞いたことがある。でもこういう聞き慣れた言葉にありがちだけど、「ラップランド」は差別的な意味をおびていて、サーミ人自身の言葉じゃないのだ。

サーミ人ははるか昔からスカンジナビアの北部中心に住んでいて、狩猟や採取生活をしていた。時代が下って、あるものは農業、あるものは漁業に、でも彼らのイメージはトナカイを飼う遊牧生活だ。本作のサーミ人たちもトナカイ飼育で暮らしている。

本作はそんな彼らがまだ制度的にも差別されていた1930年代のスウェーデンが舞台。差別の歴史を正面から描くんだから、とうぜん強烈な社会的・政治的なメッセージを帯びた作品だ。そこは間違いない(少し前の『ボーダー』は寓話的に描いていた)。でも1人の女の子の成長の物語でもあるし冒険譚でもあるし、それに社会の暗い一面を描いているのに風景も画面も思わずほっとしてしまうくらい美しい。

監督自身がサーミスウェーデン人の混血で、サーミ人役の出演者はオーディションで集まったサーミのひとびとだ。主演エレ・マリャ役のレーネ=セシリア・スパルロクはノルウェー生まれ。妹役は実妹だ。すでに絶賛されているけれど、主役の彼女の説得力がすごい。なんだろうあれは。実在感というんだろうか、役者としての重みもびっくりするくらいある。1997年生まれだから20歳ちょっと、役では14〜16歳くらいなんだけどね。

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お話は、姉妹がサーミの集落を離れてすごす寄宿学校での日常から始まる。湖をカヌーで渡り、シラカバの林を抜けて、明るい落葉樹の森に囲まれた学校に行くのだ。生徒の少女たちは鮮やかな色の民族衣装を着る。はたから見ればかわいいし風景にも映える。でも一目でサーミ人だとわかるその服は彼女たちをしばるものでもある。

だからエレ・マリャはある日、罰せられるのを覚悟でスウェーデン人たちが着る服を着て、偽名を使って、都会から着たスウェーデン人の集まるパーティーにいくのだ。そして少し仲良くなった青年を頼って1人で都会へ出て行く。このあたりからお話はどんどんきつくなり、いたたまれないものになっていく。

見ていてずっと疑問だったことがある。都会のスウェーデン人たちからみて彼女は一目でサーミ人だと分かってしまうんだろうか?っていうことだ。お話の中ではばれている。でも最初の出会いではどうやらそうでもない。かれらの中でその違いはどのくらいはっきりしたものなんだろう?

サーミ人は北方ゲルマン系に属するけれどモンゴロイドの系統も入っているらしく、エレ・マリャもどこかスラブっぽい雰囲気もある。なにより背が高い北欧の人々のなかで彼女はずんぐりとして背が低い。

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身体のちがいがすごく残酷にあらわれるのが都会の高校での体育の授業のシーンだ。体操着を着たすらりとした生徒たちが体操をしている中で、小さな彼女は動き方が分からない。背景に肋木が写っている。あったでしょう肋木。体育館の壁に。でもろくに使われなくて、ジャージを掛ける場所になったりしていた。肋木、じつはスウェーデン体操というこの国特有の体操でオリジナルの器具だったのだ(このチェコの体操動画もそれっぽい)。

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体操といえばドイツのトゥルネンが有名だ。これはすごく民族の優越意識や国民意識の昂揚とむすびついたものだった。体操って、フィジカルな美が表現できるものだけど、それは統一性の美で、異物はなじまない。それにフィジカルな差異が残酷にあらわれるところがある。そんなゲルマン系の体操と彼女の身体のなじまなさが描かれるのだ。

「民族と身体」をもっと残酷にあらわしているのが、サーミ人学校にやってきた研究者たちのシーンだ。人類学者なんだろうか、骨相学めいた、「民族特有の頭蓋骨や顔のサイズがある」的テーマで彼女たちを研究素材として「記録」するのだ。彼女たちは女性としての尊厳も羞恥心も関係なく、研究素材にされる。

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…そんな彼女、エレ・マリャの行く末は、じつは最初に観客につたえられる。お話は回想形式なのだ。彼女は都会で教師になり、スウェーデン人に溶け込んで暮らしてきた。少女の願いはかなっていたのだ。サーミアイデンティティーを否定しつづけてきた彼女が、最愛の、でもずっと縁が切れていた妹の葬式に出るために北方に帰ってきたところから物語ははじまる。

いまでも1930年代に少女が嘆いていた「見せ物としての自分たちの伝統」は、形や精神は変わったかもしれないけれど、しっかり残っている

■写真は予告編からの引用

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