戦場でワルツを


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これは特殊な映画だ。ドキュメンタリー+アニメーション+シュールな映像詩で、作家の戦争体験の告白・告発でもある。イスラエル人の監督アリ・フォルマンは、レバノン内戦中の1982年におこったサブラ・シャティーラの虐殺のとき、兵士としてそこにいた。監督は自分の体験を掘り起こし、それを「自分の記憶を取り戻す」かたちの映画にした。映画の中の彼は、虐殺の現場にいた(イスラエル軍自体が虐殺をしたわけではない)罪の意識から、従軍の記憶をほとんど失っている。それをかつての戦友たちと対話しながらだんだんと取り戻していくのだ。だから映画は真相をさぐるサスペンス的な構造になっている。日本で言えば・・・『ゆきゆきて、神軍』が当事者によって撮られているようなものかな。これを製作・公開するのはそれなりのリスクがあったんじゃないだろうか。商業映画だしね。イスラエルユダヤについては、やはり「被害者」として自らを描き出している(もちろんそういう歴史を背負ってきているからだけれど)ものが多い、という印象がぼくにはある。それに抵触して廃刊になった日本の商業雑誌だってあった。「加害者」として描いているものは相対的に少ない。スピルバーグの『ミュンヘン』のように、最近になってやっと目立ち始めたんじゃないだろうか。
中東の問題、どうしても言葉少なになる。あまりにも複雑な歴史のために、うまく関係性が把握できないところもある。「政治的に正しい」立ち位置が見えづらく、観客も不安定な立場で見ざるをえない。それにこの映画では作家自身が罪と悲劇の歴史を振り返る。シリアスに、なんとなく倫理的に見なければならないような気もしてくる。とはいっても映画のトーンは深刻でもないし責め立てるような雰囲気でもない。あらゆるバリエーションのおっさんがアニメで表現されるのどかさ、『キャッチ22』(ジョゼフ・ヘラーの戦争文学の古典)みたいな、戦場にどこかリアリティを持てない若者のすがた。

それより最初におっとなるのは、独特なアニメーションの格好よさだろう。イスラエルの少数のスタッフで作ったそうで、手法は『アルザック・ラプソディー』と似ている。つまり人なら人をいくつものパーツにわけて、それをFLASHなどで動かしている。パーツを増やしていけばそれだけ自然に見えるけれど、作業量に限界があるから筋肉の細かい伸縮みたいなところまでは表現できない。『アルザック』に比べればぜんぜん出来はいいけれど表現としてはシンプルだ。けれどその割り切りが、陰影の濃い大人のコミック的表現になっていて、ひとことで言って格好いい。人の動きは誇張がない、ロトスコープ(実写映像をトレースするアニメ)風の雰囲気だけれど、そうではないらしい。『ウェイキング・ライフ』(2001)的でもある。しかも困ったことに、イスラエルから国境を越えてレバノンに進軍する戦車の描写など格好よすぎるのだ(もちろんほめてる)。当時の最新鋭戦車メルガバ。『アヴァロン』の実写+CG戦車よりずっといい。市街地に進入して、路上に止めてある車を踏みつぶして進む。市民生活のじゅうりんそのものの描写だ。そうなんだけど、車のひしゃげる描写とかな・・・。銃弾が飛んでくる描写もちがう。タイミングというのか、音がしてからあたるリズムというのか、あれが現場にいた人間だけがわかるリアリティなのか。

商業映画である以上、大勢の観客にみられることがとうぜんの目的だ。「まじめにこの問題を考えてる奴限定」とは作り手も考えてはいないだろう。格好いい映像に引かれて見に来る観客も必要だ。しかしこの映画は、見終わってまで能天気に帰ってもらおうとはしていない。アニメーション表現でさまざまな映像的魅力を追求しながら(シーンごとに画風を色々と変えながら)、ラストになんの加工もしない映像をもってくる。その衝撃がいままでのスタイリッシュな映像を吹き飛ばしてしまうように映画はできている。これって自分たちの表現の否定ともいえるつくりじゃないだろうか? しかし作家自身の贖罪がテーマそのものだとしたら。その自己否定も当然だといえる。