悪は存在しない

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ストーリー:長野県水挽町。移住者たちが開拓してできた集落だ。巧は娘の花と二人暮らし。便利屋稼業で薪を割ったり湧水を汲んだり日々を過ごす。東京の芸能事務所が補助金目当てで村にグランピング場建設計画を持ち込んできた。計画が甘く湧水が汚染させる恐れがあることに地元住民は反感をつのらせる.....

濱口竜介監督の新作。ミュージシャン石橋英子に依頼されたライブ用映像をきっかけにした劇映画だ。表面にある物語は、高原の静かな町の環境破壊、補助金にすがる企業の拙速な開発、自然のルールを理解しない都会の民たちの表層的な計画、無言で人間たちに懲罰をあたえる自然....みたいな枠組みだ。

風景は八ヶ岳南麓、原村や富士見町だ。冬でも晴れが多くて雪が少ない。気温は零下10度近くまで下がり池は凍る。森を真上に見上げる移動ショットや凍った池や段々で下っていく水路がとても美しい。カメラを真上に向けて動きながら森を撮るの、前にやってみたことがある。樹木の枝は太陽光をできるだけ受けるためにお互いに隙間を埋めながらいっぱいに広がる。でも枝が干渉しないようにお互いある距離で止まる。結果的になんとなくなパターンが浮かび上がるのだ。石橋英子のどことなく哀感と不穏さがある音楽がそこにかぶさると一気に意味ありげなシーンに変わる。

映画の成り立ちはインタビューで語られているけれどなんだか謎めいている。ライブの背景で流す映像を制作する監督は、背景映像といえどもいつもの流儀で撮らなければ、とリサーチを重ねて物語を発見し役者を配して撮ることにする。実際のグランピング場建設の説明会に出会って、物語のインスピレーションを得る。そしてキャストにセリフを与えて説明会のシーンも撮り、独立した劇映画でないと語りきれないなとなって本作に発展する.....素人の疑問だけど、ドラマ仕立てとはいえ、音もない背景映像のためにキャストを集めて「開発事業者の住民説明会」なんて込み入ったシーンを撮るの? 正直そのあたりの関係はよくわからない。

グランピングの開発、説明会、住民たちのスタンス、こだわりのうどん屋、森に落ちている鹿の亡骸、夜の森林の深い闇....そんな、リサーチで出会ったものたちから物語の形が出来上がっていったんだという。場所が最初にあって(石橋と縁がある地域で、たぶんフィルムコミッションの活動もあって撮影が現実的だったんだろう)場所が監督にイメージと物語をあたえる、そんな作られ方だったんだろうか。

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(c)2023 Neopa/Fictive via imdb

一見テーマに見える自然と人間の活動のバランス的な要素は、監督のモチベーションなのか....前半は半信半疑だった。時々見かける、自然とか森とかを妙にロマンチックに捉えてリアリティが後ろに下がってしまうパターンになったら嫌だなと思っていたのだ。僕は緑・環境・自然再生系の仕事をしてるというのもあって、緑とか森とか、ふわっとイノセントなものみたいに描かれるのがあんまり好きじゃない。人間が居心地いい森林はたいてい人間が何か関与して撹乱してるし、逆に、整備された登山道からちょっと離れるとわかるけれど、自然度が高い森林も低木の林も人間にとってものすごく行動しにくい場所は多い。無条件にやさしく包み込んでくれるわけじゃない。

住民説明会のシーンはある意味リアルだし、ある意味類型的でもあった。奇妙に攻撃的だったり上から目線な口調になる(普段は攻撃性がなさそうなタイプの)人々、たしかにああいう感じはある。でもそれもこの手の場所での振る舞いの類型を模倣しているみたいに見える。

そしてカメラが事業者の側に移り、事業会社の社長や計画しているコンサルが出てくると、さらにその類型性は高まる。「こんな単純に白黒つける?」.....でもそこまではフリだった。シーンが転換するとタイトルのとおり、単純な善玉・悪玉の印象は融解しはじめて、物語が動き出し、そして一気に奇妙な世界になだれ込んでいく。

しまいにはすべてが融解したみたいに、物語も映像も見分けがつかなくなっていき目を凝らしてもはっきりとらえられない、そんな感じになっていく印象だった。この場所でイメージと物語のピースをたぐいまれな鋭敏さで発見していった監督は、つむぎ出された物語が着地する先が「ないな」ということに気がついたのかもしれない。あるところで突然予期しない暴力があらわれる。そしてふっと切れるみたいな終わり方、レイモンド・カーヴァーの小説みたいでもある。

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