■いままでのレビュー
続きを読む夏のエンタメ2作 『ラスト・サバイバー』&『オークストリートの異変』
🔹ラスト・サバイバー
| ストーリー:メカニックのヒッグ(ジェイコブ・エロルディ)は元軍人のバングリー(ジョシュ・ブローリン)と共同生活で日々を生き延びていた。世界は謎のパンデミックで人類の大半が死滅、生存者たちの一部はギャング化していた。 ヒッグを支えるのは、愛犬ジャスパーの存在と亡き妻の記憶。 ある日、小型機の無線に交信の声が入る。生き残った文明の可能性に向けてヒッグは飛び立つ。 |
多作巨匠、リドリー・スコットの新作。いわゆるポストアポカリプスもの、感染症で世界滅亡系の作品だ。生き残った人々はこれまでの文明の名残をかき集めて大都市から離れて暮らしている。あるグループはメノナイト教団で、これはアーミッシュに近い、近代物質文明から距離を置いて暮らすコミュニティだ。主人公たちはもう少し物質文明的で、銃器や軍装備や軽飛行機を駆使して自分たちの暮らしを守っている。
登場人物たちはそれぞれ孤立した拠点で自給自足に近い感じで生きていて、主人公ヒッグだけは軽飛行機で廃墟化した街に飛び物資を補給したり、他のコミュニティを訪ねたりする。でも生き残っているのはかれらだけじゃない。暴力で物資を奪いにくる色々なグループがいる。誰もが自警団となって野蛮な襲撃者たちに対抗しなければいけないのだ。
・・・という構造、ほぼ西部劇だ。主人公ヒッグは「シェーン」みたいな旅する青年だ。馬の代わりがセスナ。旅の途中で山中の一軒家に暮らす父娘に出会い、ちょっと滞在して交流したりする。娘がすぐになびくのも含めて、この感じお馴染みだ。ジョシュ・ブローリンがいつものタフさで演じる相棒のバングリーは村を守る武闘派の保安官。そして襲ってくるのは西部劇での〈インディアン〉的な、独特の習俗を感じさせるトライブだ。
ただ風景が西部劇じゃない。というのも本作、ほぼ全編イタリア撮影で、スタジオシーンは有名なチネチッタにセットを設営、ロケはイタリア北部や中部の山岳地帯。どことなく山容がアルプスっぽいし、心なしか植生も単調な針葉樹林とは違う何かがある。
そして本作、思った以上に飛行機映画なのだった。アメリカ映画で旅といえば自動車か鉄道だし、『シラート』みたいにオフローダーを頼りに荒野を行く感じはおなじみだ。本作そこが古びた軽飛行機なのだ。物語設定で(主人公がメカニックだったり、周囲に部品取りのセスナが大量にあったり)、かなり無理矢理に文明崩壊後もセスナが飛び続けられるようにしていて、移動シーンはすべて空中で撮影している。
ここは新鮮だし、地べたを這う圧迫感がなくて物語的にも映像的にも抜けがいい。『星の王子様』の作者でありプロのパイロット、サン・テグジュペリの『夜間飛行』というロマンチックな小説がある。1930年代のまだまだ危険な時代の飛行機乗りの物語だ。そこから100年後、本作のセスナも原始的なガソリンエンジンと電子制御皆無のメカニカルなシステムだけ、不整地でも離陸できる、危うさはあるけれど主人公が手の内に収められる、実にいい相棒だ。
軽飛行機が全面フィーチャーされる映画といえばトム・クルーズ主演の『バリー・シール』くらいしか思いつかない。戦争映画は別としてね。スコットもそこに面白さを感じて引き受けたのかもしれない。
(c)20thCentury Studio via ReelCinemas
本作、スコットの代表作ラインナップには正直入ってこない気がする。原作付きということもあってか物語の強度もそれほどでもないし、特に序盤と主人公の旅の合間の逗留パートあたりはややペースが落ちる感じもある。終盤になってテンションが上がり、エルサルバドルのギャングMS13そのもののスキンヘッドに全身タトゥーの暴力集団や、ネイチャー派のマッドマックスみたいな乗馬暴力集団が出てくる。
そしてスコットの悪意をここに集約した、みたいなじつにいい感じの集団も現れるのだ。視覚的にも設定もカタルシスがある。あの集団の描写は原作にもあったのか、監督オリジナルなのか・・・
🔹オークストリートの異変
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ストーリー:郊外住宅地オークストリートに住むグレッグ(ユアン・マグレガー)デニース(アン・ハサウェイ)と姉弟の4人家族。夫婦仲が軋みはじめていた家族はある朝異変に気づく。町全体が周囲から断絶し、しかも恐竜たちが街に侵入しはじめたのだ。サバイバル状態に陥った家族は.... |
監督、D.R.ミッチェル。当ブログだと高校生の一夜を描く『アメリカンスリープオーバー』、奇妙なゲーム的世界を描く『アンダーザシルバーレイク』どちらも独特の王道エンタメじゃないオーラが濃厚に漂っている。王道エンタメの作り手JJエイブラムズがプロデュースでなぜかミッチェル監督での夏休み恐竜ホラーが仕上がったのだ。
ホラーと書いたけれど、本作、恐竜の獰猛かつ貪欲さが全面に出ていて、大量に現れる恐竜たちの中に温和な草食獣はほとんどいなくて、翼竜も2足歩行の大型恐竜も、最近発見されたというヘビ型恐竜も人間たちが好物なので、主人公たちは心休まる間もない。
物語冒頭が、「パニックが起こる前の平和なオークストリート」シーンで、コミュニティのお祭りらしいのだが、ここから映画的過剰さに溢れていて楽しくなってしまった。『ベルファスト』の街角シーンと同じで、いくらお祭りといっても人口密度が高すぎるのだ。この生息密度の過剰さは、そのまま恐竜たちの過剰さにつながっている。
物語を推進させる主体はお母さんアン・ハサウェイに託されて、お父さんユアン・マグレガーの使えない父ぶりが際立ち、その延長として「あっ」というインパクトが生じて、最終的になんともいえない収まりを見せる。子供たちはティーンにもかかわらず問題解決にはほとんど寄与しない。
また本筋の恐竜パニックを楽しむお客さんには関係ないところで、〈スプリット・ディオプター〉によるアップの手前人物と後ろの人物両方に気持ち悪い感じでピントが合う独特の画面、それにオリジナルエンディングが評判悪すぎて急遽追加撮影で差し替えた結果が今僕たちが見ている独特のオチになっている、という2点は心に残る夏の思い出になった。
『ヌーヴェルヴァーグ』&『5時から7時のクレオ』 あの頃のパリって(知らないけど)やっぱり素敵
🔹ヌーヴェルヴァーグ
| ストーリー:1959年、パリ。映画批評誌「カイエ・デュ・シネマ」のライター、ジャン=リュック・ゴダールは映画撮影のチャンスを掴む。アメリカ人女優ジーン・セバーグ主演、フランソワ・トリュフォー脚本のロマンチックな犯罪映画だ。でもゴダールはストレートに映画を撮るつもりはなかった。脚本は解体され、街中のゲリラ撮影で行き当たりばったりに撮っていく。ストレスを溜め切った女優やスタッフは.... |
アメリカの多少文学性がある監督は、やっぱりパリが、フランス映画が好きだ。ウディ・アレンにしてもウェス・アンダーソンにしても好き好きオーラが漏れ出るような作品を撮ってしまう。でも俳優はハリウッドスターを連れていく。本作の監督リンクレイターは『ビフォア・サンセット』ではハリウッド俳優とフランス人女優のパリでの1日を描き、どう考えても好きなのだ。
その愛はこれ以上ないくらい直球に作品化され、タイトルもまったく捻ることなく『ヌーヴェルヴァーグ』そのままで来た。正直フランス映画界は複雑なんじゃないか。フランスだっていうまでもなく映画大国だ。自国の大事な文化的ムーブメントを外国人監督に決定打的なかたちで作られてしまったのだ。
好意的に受け止められるとすれば、1つは役者・スタッフ含めてフランス映画として作られてるということ、画面や登場人物、ビジュアルまでその時代のフランスに十分にリスペクトを払って完全再現に徹したところだろう。日本だって本国では描かれにくいテーマを外国の作り手が映画化することはある。それが真摯だったら観客も敬意を持って受け止める。『沈黙』とか『Minamata』とかね(どっちも日本でロケはできなかったけど・・・)
(c)2025 ARP-Detour Development LLC/AMC Entertainment via NYtimes
もう1つ、監督も敬愛されているかもしれない。リンクレイターはじつに作家作家した監督だ。その作家性はテーマと語り口もさることながら、企画性にあるとも言える。初期の不思議すぎるアニメ『ウェイキング・ライフ』、『ビフォア』3部作、それに何といっても超長期撮影映画『6才のボクが大人になるまで』。本作も究極の企画モノといって間違いない。共通する作風といえば、フィクションの中に「実際に撮影していること」にともなうドキュメンタリー性が滲むところだろう。
フィクションである映画の撮影にドキュメンタリー性を正面から取り込む。ゴダールたちがやっていたことだ。街中にカメラを持ち出して、一般の風景も通行人もお構いなしにフィルムに収める。役者だってかっちりした脚本で入念にリハーサルしたものを再現することなんてできない。演技の一回性から滲み出る生身の人間の姿。撮影監督は戦場カメラマン、ドキュメンタリー撮影家だったラウール・クタールだ。
本作はとても見やすい、気持ちいい映画だ。青春讃歌、映画讃歌に徹しているのだ。映画撮影の素人(理屈先行系)が脚本すら解体して即興でしかも完全ロケで撮ったら、ここに描かれないトラブルは無数にあるだろう。対立だって言い合いだってもっとあってもおかしくない。本作のゴダールは友達にも関係者にも先輩にも全面的に暖かく見守られているし、本当に深刻な事態は発生しない。不満はあっても撮影現場は楽しげだ。
映像もこれ以上ないくらいに、オリジナルのシーン、映像のフィルムっぽい質感、当時のパリの景色、映画業界の人物像を再現して見せている。モノクロ画像はデジタルで濃淡の階調を調整したみたいじゃなく、いかにも当時のそんな高品質でもないフィルムの少し浅い諧調に見える。音楽も映像も人物も、ひたすら快い。
映画作家が映画について描くとびっくりするくらい直球の映画愛の告白になることってある。それはそうだよね。恋愛はモチーフとして描けても映画への愛は他人事としては描けない。本作もそんな愛に溢れた映画なのは確かだ。
🔹5時から7時のクレオ
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ストーリー:クレオは売り出し中のポップシンガー。病院でがんの疑いを告げられて、タロットに行くと不吉な予言を聞かされる。7時に病院の検査結果を聞く予定のクレオは重苦しい気持ちのまま予定をこなし、友達に会い、街をさまよう。ちょうど夏至の日のパリは明るくさんざめいていた.... |
『ヌーヴェルヴァーグ』にもゴダールの友人、映画作家として出ていたアニエス・ヴェルダ。彼女の1962年監督作だ。パリ市内でのロケで当時のパリのドキュメンタリーにもなっているところは、『勝手にしやがれ』と同じ。でも彼女はゴダールの手法のフォロワーなんかじゃなく、写真家でありドキュメンタリー作家でもあったヴェルダは7年前にそういう手法の作品をすでに撮っていた。
本作のもう1つの特徴は上映時間が物語の時間経過とほぼ同じリアルタイム進行だということ。当ブログでは『おとなのけんか』リンクレイターの『ビフォア・サンセット』なんかがそうだ。クレオはマネージャーや友達や出会った人とタクシーや車やバスでパリの中を移動する、その移動も省略せずに車内に積んだカメラで写し続ける。
がん宣告という、ほとんどの若い女性には日常性がない、その分死の恐怖としてイメージが増幅しやすい心の重荷を負ったヒロインと、キラキラしたパリの午後の風景の対比。その緊張感にリアルタイムはよくあう。
市内や雑踏のシーンはドキュメンタリックでありつつ、写真家らしいねりに練った構図もところどころにあって、当時のパリの風景と相まってじつに格好いい。あと特に序盤、彼女の不安感が前面に出ているところで、鏡のモチーフがあらゆるシーンで出てくる。鏡はまるでキュビズムの絵画みたいに、カメラからの1視点では映らない人物の表情を同時に見せたり、風景を見ている主観映像っぽいなかに別の視線としてあったり、主人公を覆い隠すみたいにウインドウの外光に映る街の雑踏だったり、自分の内面を写すというより他者を同居させる機能がある。すごく情報量の多い映像だ。
物語終盤のロケ地は、セーヌ川左岸のモンパルナスに近いモンスリ公園や、国立図書館に近い、サンペトリエール病院。1962年のパリ。まだ19世紀風のクラシックな街並みに、シムカとかシトロエンとかの小ぶりでころっとした車がいきかう。絵になるんだよね、なんといっても。
Sony Pictures エンタメ2作 『ひつじ探偵団』&『プロジェクト・ヘイル・メアリー』
🔹ひつじ探偵団
| ストーリー:ジョージ(ヒュー・ジャックマン)はイングランドの田舎でくらす羊飼い。羊たちにはそれぞれ名前をつけて、夕方になると探偵小説を読んで聞かせる。じつは羊たちは人間の言葉が理解できて小説の中身にも興味津々だった。ところがある朝探偵小説そのままにジョージが死亡する。しばらくして相続人たちが集まり..... |
じつにほどよくまとまった一作。タイトル通り探偵もので、ジョージの命を奪った犯人は誰だ!という興味で物語を引っ張り、途中のミスリードも、そこそこに意外な真相もちゃんと用意している。レーティングはPGで、つまり夏休みアニメミステリーなみに残虐シーンやぞっとする展開はないし、エロ要素はJアニメより控えめかもしれない。
舞台になっている美しい酪農地帯はロンドンから2時間もかからない村で撮影している。ジョージや羊たちがくらす草原はこの辺りでのロケ。
登場人物たちが集まり、警察署がある村の中心部はハンブルデーンという村で撮影。
外国人が想像するイギリスの田園風景やトラディショナルな村の景色に景色にぴったりあっていて、まったくノイズがない。登場人物は、子供にも見分けがつきやすいように分かりやすく描き分けられていて、いっさい混乱なく物語に入っていける。事件が起こる前の人間関係、ジョージ死亡後の捜査者、被疑者、調停者のわかりやすい仕分け。そんな単純化されて見える登場人物の中でちゃんとツイストを入れているのだ。
(c)SONY PICTURES via amazon
もちろん物語のキモは事件解決に活躍するのが羊たちで、かつ羊たちがお互いに普通に会話して、知能も普通の成人並みにあるというところ。羊は人間に対して人間語を話せないだけで、文字も読めるし社会のこともそこそこ分かっているのだ。
ただし一つだけ違うのは、羊たちは少し前の記憶をぽかっと忘れる能力がある。一頭の例外を除いて、だいたい数日前以前の出来事の記憶はなくて、だからその日その日だけを生きている。過去の記憶がないということは将来への観念も多分ない。毎日草を食べ、眠り、まさに「今を生きる」生活だ。
じつはジョージの羊たちがそんな幸福な生活ができるのは、彼らが羊毛用だからだ。隣の牧場の羊は....そろそろ物語のコアに近づきそうなのでこの辺でやめておこう。そんなふうに彼らを「残酷で容赦がないこの世界を直視せずにすんでいるハッピーな集団」として俯瞰で描いているところが、この一見ほんわかとした物語の意外な陰影だ。人間の上質なメタファー描写がそこここにある。
羊は基本的に全部CGで、実物を高精細スキャンしてモデリングしているらしく、不自然さはないもののやっぱりCGには見える。動きが少し単純すぎたかなあ。設定自体、羊が人間なみのキャラクターだというとこが一番のギミックなので、その絵姿がわかりやすくCGで実写の人間たちと分離してしまっているところは、かすかに残念な部分ではある。
最初は間抜けだった田舎の警官が物語の中で成長していく感じは『スリービルボード』を、ロンドン近郊の田園地帯が舞台の意外なサスペンスとしては『ホットファズ』を思い出した。
🔹プロジェクト・ヘイル・メアリー
| ストーリー:不意に目が覚めたグレース(ライアン・ゴズリング)は自分の記憶がない。だんだんとそこは宇宙船で、自分が地球から10光年以上離れた宇宙に1人で残された存在であることを思い出す。金星で発生し、地球の冷却化をもたらすアストロファージという微生物への解決策を求めて彼は派遣されていたのだ.... |
今どき貴重な、「シリーズものやコミック原作でない本格SF大作」ということで、かつリドリー・スコット監督『オデッセイ』と同じ原作者の大ヒットSFということで、各方面から大注目作だ。当ブログの常としてこういうのは無意識に若干距離を置いてしまい、結局配信で見て数ヶ月遅れでレビューを書くようになる。
原作はKindleで英語版を買っていた。ものすごく平易な文章でほとんどジュブナイルじゃないかと思うくらいだけれど、だいぶ前に買ったにも関わらずなんだか読み進まず、グレースがあれやこれやと1人で記憶を掘り下げているところで映画公開になってしまった。
『ひつじ探偵団』に続いて本作もウェルメイドなSFファンタジー巨編であり、原作からさらにぐっと間口を広げたエンタメで、基本的に文句はない。正直いってそれほど入り込めなくて、劇場に行かなかったことを後悔しなかったわけだけれど、それは純粋に僕の好みの問題だ。
映画全体としては『オデッセイ』に近くて、主人公(と地球)は相当に危機的な状態に追い込まれていつつ、本作のグレースは(『オデッセイ』のマークも)危機を解決する科学的な知識と筋道を立てて問題を解決する脳の体力があって、その源泉としてナチュラルに楽天的な人物だ。作者には、いまの人間の手持ちの知識と能力でSF的な危機も乗り越えていけるんじゃないか、というヒューマニティーへの強固な信頼がある。
映像もその楽天性を映し出している感じで、宇宙船や孤独な宇宙の描写でありつつ、冷たく無機質な雰囲気ではなくて色調もどこか温かみがあったりカラフルで、さらにここでは直接は書かない本作のキモ部分の描写も『メッセージ』よりは『E,T』にちかい親しみ感であり、その辺も含めた全体が、僕としてはもっとひんやりして冷徹なトーンが好きということなのかなと思った。
まあ「実は冷徹な物語を楽天的で親しみやすいトーンで描く」のが原作者の作風だとも思うし、それがメジャーってことなんだろう。
『急に具合が悪くなる』&『トントンの夏休み』
🔹急に具合が悪くなる
| ストーリー:パリ郊外の介護施設「⾃由の庭」の施設長マリー=ルー・フォンテーヌ(ヴィルジニー・エフィラ)は⼈間らしいケア技法導入を急ぐが、人手不足のなか賛同者は少ない。ふとしたことから癌闘病中の演出家、森崎真理(岡本多緒)と出会う。真理が演出する俳優・清宮(長塚京三)の舞台観劇をきっかけに二人の交流が始まる。真理の病が無情に進行する中で二人は互いの魂を通わせ合うようになる……。 |
なんと言っても原作そのままの日本語タイトルがいい。耳ざわりのいい75調リズムに内容通りのリスクを込めながら、深刻で不吉なトーンになることを回避している。なんならコメディを想起してもいいくらいだ。仏語・英語では「急に」の部分だけ(”All of Sudden",”Soudain”)をタイトルにしている。
原作の書簡集は未読。映画より刺さるのかもしれない。映画みたいなファンタジックな出会いは想像できないけれど、自分も年齢を重ねて「急に具合が悪くなる」確率だけは確実に上昇する。著者の1人は同年代の健康な人よりははるかにその確率が高いなかでどう折り合いをつけていくか、向き合っていくんだろう。
映画では「急に具合が悪くなる」部分は、メインテーマというよりはドラマを駆動させるモチーフとして機能している、主人公の真里の属性、その精神性を規定する要素としてあるし、2人の関係は真理が急に具合が悪くなったところから急展開していく。
© 2026 Cinéfrance Studios – Arte France Cinéma – Office Shirous – Bitters End – Heimatfilm – Tarantula – Gapbusters – Same Player – Soudain JPN Partners
本作がフォーカスを当てたいのは真里の病気じゃない。ひとびとが持っている属性(本作では病理的に区分される)でうまれる境界が溶けていくユートピア的世界を、ドキュメンタリックに観客に体験させること。癌患者ー医療者・介護者、痴呆症の高齢者ー介護者、自閉症当事者ー保護者、という個別の関係、介護施設や医療施設ー地域、演劇の演者ー観客、国籍の違う他者、みたいな制度的な区分で境界の両側にいた人たちが、その役割からはみ出して渾然一体となる姿を見せるのだ。
原作にない自閉症スペクトラムの青年もそのためのツールだ。『シラート』で手足が欠損したレイバーたちが主要登場人物にいたみたいな多様性キャスティングとの違いは、俳優がそれを演じていることだ。
身近に当事者がいない僕は、その姿がどのくらいリアルで、どのくらい物語に都合のいい振る舞いかはわからない。自閉症でもサヴァン症候群の主人公が特有の能力を発揮する『レインマン』とは違って、イノセントな妖精的存在が世界に風穴を開ける、どっちかというと知的障害者がドラマで担ってきたみたいな役割にも見える。ただ黒崎煌代が役者として求められる役割をこれ以上ないくらい果たしているのは確かだ。
境界の越境は、おたがいの身体がある種の媒介になる。人間としての身体を持っているという共通性があるから、役割を越えてお互いにその身体をケアしたり、混じり合って身体の境界が曖昧になったり、というのを何度も見せる。でももちろん、癌患者の真理にとっては身体が苦しみを与えるし自分を制約するものでもある。
映像や音楽はとても流麗で、物語の葛藤や対立や出会いや解決みたいな流れが明快なので、とても見やすい。監督が受け取った原作のテーマと、それにプラスした様々な価値観のプレゼンテーションという部分がかなり前面に出ている感じはあって、あと日本(京都)のシーン選びなど世界公開する映画としてのルックに合わせてる感じなど含めて、自分にとってはもう少しソリッドな濱口作品の方が好みに合うかな。ただ重苦しいテーマから想像するよりずっと明るくて豊穣な映画なのは確かだ。
🔹冬冬の夏休み
| ストーリー:台北の小学6年生、冬冬(トントン)と幼い妹の婷婷。卒業式あとの夏休み、母の入院もあって、2人は祖父母の田舎の家ですごすことになる。冬冬は、地元の男の子たちとすぐに仲良くなり、みそっかすの婷婷はふとしたきっかけで寒子という若い女性と出会う。ちょっとしたさざなみやぎょっとする出来事もありながら、冬冬の夏はすぎる.... |
1984年公開。監督は侯孝賢。989年公開の代表作『非情城市』が日本でもヒットして、ぼくも舞台になった九份に聖地巡礼に行った。本作の舞台は台北から120kmくらい離れた銅鑼という田舎町。東京都心からだと水戸とか銚子くらいの距離感だ。
1980年代の台湾は、駅も木造駅舎だし、鉄道も古めかしい戦前から続くような作り。でも真新しい高速の高架があったり、フォードのセダンが走っていたり、ほんとに昭和後期の日本の風景みたいだ。物語の枠組みはちょっと『トトロ』を思わせる。
昭和後期感を感じるのは、主人公トントンのデニムの短パンスタイル。今の男子小学生はゆったりとした丈長めの短パンだろう。当時の小学生は女の子と同じようなホットパンツ的フォルムの短パンをみんなはいていて、しかもデニムだった。台北の少年と同じ東アジアの同時代性をこんなとこでも再現していたのだ。
物語的には、お父さんお母さん、おじいちゃんおばあちゃん、地元の子供やいろんな大人たち、特別な人も出てこない、まさに夏休みの日記帳だ。でも少年の心の機微だけを繊細に描くというタイプじゃない。物語はささやかだけど映画的なダイナミズムに満ち満ちている。
母の病気、列車に遅れる、見知らぬ土地での不安感、川で遊ぶ子供の水難、踏切もない線路の怖さ、知らない大人との出会い、小さい子供が一人で出掛けてしまい...的な子供ならではの危うさを途切れなく出してきて、子供というものの、元気なようでもろくはかない感じが伝わってくる。それに加えて意外な暴力や田舎コミュニティのアウトサイダー的存在が入り込んできたり。
危機が定番な上に、ていねいに省略せずにシーンを繋げていくので、「あっこれはこんなヤバさが起きそうだ」と観客も予感して勝手にスリルを感じるようになっていてサスペンスが持続する。
物語の舞台になる田舎の家は、日本統治時代の様式だそう。おじいさんは医師だから古いけれど立派な建物だ。いまでも姿を変えずに残っている。
『SIRAT シラート』&『サンキュー、チャック』 〜味付け正反対の2つの寓話
🔹Sirat シラート
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ストーリー: モロッコの砂漠、屋外レイブ会場で音響に浸る欧米人たち。そこに場違いな親子がいた。レイブにハマり行方不明になった娘を探しているのだ。もちろん誰も知らない。突然軍隊が現れ、危険が迫っているから解散し帰るように命じる。あるチームだけはその列から外れて南にあるモーリタニアを目指す。親子もそこに娘がいると信じて同行する。道なき道をいく3台は.... |
モロッコという国は、ヨーロッパ、特に南欧の人々にとっては、日本にとってのタイや香港より近い、手軽な観光地だ。迷路みたいなスーク(市場)や砂漠、オアシスめいた庭園など十分にエキゾチックでありつつ、ツアー客がどこに行ってもいる。彼らの顔には異国に来た緊張感なんてない。自分たち向けに作り上げられた観光地に来ているのだ。作家ウィリアム・バロウズはタンジールに滞在して『裸のランチ』を書いていた。たぶん昔から現地人化したボヘミアン系ヨーロッパ人のコミュニティがあっただろう。
本作もそんな感じの人々がまず映される。レイブ会場はヒッピーカルチャーの末裔的なヨーロッパ人たちで満たされ、現地人はもちろんいない。ベテランのレイバーは現地の悪路に耐える4WDのトラックやバスに住んで移動する。ずっとこの国にいる土地の主みたいな雰囲気だ。でも実際は現地とはつながっていない浮遊した存在なのだ。
そこに現れる親子は明らかにその土地の初心者だ。格好は普通のおじさんの日常着だし車は舗装道路用の貧弱なミニバンだ。そんな彼らがレイブ会場を離れて人の気配もない砂漠へ岩山へ入っていく。前半はそんな旅の風景が映される。
© 2025 LOS DESERTORES FILMS, A.I.E.,et.al
前半は大変そうでありつつ、レイバーたちとおじさん+子供の交流もあって、風景には緑もあって多少のどかだ。食べ物や水や燃料のことは他人事ながら心配になるけれど(そのあたり宮崎駿とかはちゃんと補給をシーンにしたりする)。前半のレイブ会場や比較的優しい旅路はじつはスペインロケだ。
旅の後半に入るとにわかに緊張感が高まる。別に軍隊に追われたり山賊が現れるわけじゃない。ただ車で悪路を走る、それだけが異常なまでの緊張感なのだ。日本で酷道とか険道とかいわれる道にいく人ならわかる。あの緊張感、それの数倍のきびしさが、じっさいにそこで車を走らせている分、ドキュメンタリックに迫ってくる。この動画みたいな感じだ。
ロケ地はこの辺りの山道らしい。この緊張感は1970年代、アマゾン山地の密林をためらいもなく伐採し、急斜面を物語通りに実物大の巨大な船を引きづりあげて撮影した『フィッツカラルド』を思い出す。物語はそこを越えて別の緊張感へとつづくのだが、リアルな緊張とストーリー上の緊張、はっきり言って途中のシーンの方がひやひやする。
作り手は、体験型としか言いようのない重低音の音楽にイスラム神秘主義のエッセンスをまぶし、周囲の世界がほとんど見えない純粋な、寓話的な旅を映画にした。レイバーたちは役者じゃなく実際にそういう生活をしている人々から選んだ。あえて手や足が欠損した人々を選び、そこもどことなく中世の寓話めいた雰囲気を強めている。
🔹サンキュー・チャック
| ストーリー:第1幕。世界に週末が迫っていた。カリフォルニアの高校教師マーティーの周りではネットがダウンして都市は麻痺し、大災害のニュースが来る。別れた妻と再会して世界の最後を共に過ごそうとするマーティーの前に、なぜか「チャック、39年ありがとう」という広告がそこらじゅうに現れる。 |
壮大なような、ささやかなような、どこか藤子不二雄の気の利いた短編みたいでもある一作。3幕構成で、1幕から時間がさかのぼっていく語り口の映画だ。とはいえ大きく3幕だから、そんなにトリッキーな感じでもなくて、チャックことチャールズ(トム・ヒドルストン)の人生を振り返る物語といっていい。
原作はスティーブン・キング。キング作品の中では、超現実的な何かを入れ込んでくる、というより、人生観を映像として説きつつ、キングの原風景というのか、小さな街の小綺麗な家での暮らしやハイスクールライフへのノスタルジーが物語の真ん中にある。
本作は話法としては「世界の終わり?チャックの広告?で、2幕以降のチャックの人生とどう・・・?」的な混乱をあたえる一種の謎かけといえなくもない。でもその意味づけは最初から十分にわかりやすくほのめかされるし、第一幕で「ああ、そういうことね」とわかる。そこからは彼の人生にある美しい煌めきの切片をみんなで拾い集めていこうよ的な流れだ。
チャックは、なんていうか「人生の有限性」みたいなものを若い時に叩きつけられる。そうでありつつ生きることの喜びを出会った女性たちに教えられる。美しいおばあちゃん、いきのいい女教師、ダンスの上手い上級生、ストリートドラマーとふと出会った失恋直後の女性・・・。チャックでなくても人生の有限性はどこかで僕たちに叩きつけられる。それでも美しい切片はそこにもここにもあるんだよ、と言っているみたいだ。




