1960-62年のブラックミュージック 『叛逆のサウンドトラック』『グリーンブック』

🔹叛逆のサウンドトラック

予告編を見るとジャズのビッグネームたちのライブがコンゴ独立のニュース映像とミックスされて、”ジャズ・アンバサダーズ”のドキュメンタリーなのか?と思った。公式サイトの内容紹介にものっているしね。アメリカ国務省がジャズミュージシャンたちを親善大使として、文化的輸出品として各国に派遣した事業のことだ。公式ではこんなふうに書いている。

「アフリカ各地で活動していたブラック・ジャズ・アンバサダーたち——アームストロング、ニーナ・シモン、デューク・エリントン、ディジー・ガレスピー、メルバ・リストンら——は、祖国アメリカで依然として差別が合法である現実に直面しながら、“誰のために演奏するのか”という苦しいジレンマを抱えていた」

どうだったかな。ジレンマを抱えているミュージシャンたちの横顔も多少捉えられていたかもしれない。でも本作のテーマは音楽史じゃない。そこははっきりしている。

描かれるのはコンゴ独立をめぐって国連を舞台に繰り広げられる欧米各国とソビエトの外交闘争、希望に満ちて独立を宣言した若いリーダーやその支援者と、その周囲にうごめく旧宗主国や傭兵、資源企業、欧米のかいらいになった現地のリーダー、それにアフリカ各国の独立を見ながら本国での差別に怒りをつのらせるアメリカの黒人活動家....そんな人間模様だ。

でも音楽は溢れるほどにある。1950年代のジャズのスターたちのライブ映像が次々にかかる。インタビュー映像もあったかもしれない。政治の映像と同じくらいのボリューム感でライブ映像もかかるから、本作が音楽映画なのは嘘じゃない。ただし本筋とは直接関係はないのだ。いわばジャズは独立をめぐって騒然とする国際社会の時代のBGM=サウンドトラックとして流れつづける。

本作はベルギー人のドキュメンタリー監督がほとんど既存の映像アーカイブを編集して作り上げた。新規の撮影はほとんどない。「編集」の作品だ。映像のチョイスと見せるタイミング、それに観客をうまくリードする気の利いたタイトルやキャプションの置き方で勝負する。

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見る前のイメージとはだいぶ違ったけれど、複雑なパワーゲームはぬるいポリティカルサスペンスよりはるかにスリリングかつダークだし、それに現れるリーダーたちが、ことばを選ばずに言えば魅力的なので、十分惹きつけられた。ンクルマ、ネール、ナセル、カストロといった当時の第三世界のリーダーたちのカリスマといったらどうだろう。お馴染みのマルコムX、国連で圧倒的なパフォーマンスを見せるフルシチョフ、それに対抗する西側のリーダーたち、陰で暗躍する傭兵のリーダー、諜報組織の幹部。

コンゴの独立をたからかに宣言した36歳のパトリス・ルムンバはわずか3ヶ月でクーデターによって権力を失い、その3ヶ月後には旧宗主国ベルギーの関与で暗殺される。その後の独裁政権や内戦、ルワンダとの騒乱、コンゴはいまでもアフリカ最貧国の一つだ。

ジャズミュージシャンたちのライブは時にははっきりとプロテストの意味を持つものもあるし、なんとなく文脈に位置付けられたエンターティメントのライブもある。国連安保理に妻アビーと乱入したマックス・ローチのライブがこちら。

 

ジャズと世界史の複雑すぎる関係を解説したこちらの本は参考書としてすごく分かりやすい。

 


🔹グリーンブック

ストーリー:1962年。ニューヨークの一流ナイトクラブ、コパカバーナの用心棒だったトニー・リップ(ヴィゴ・モーテンセン)は、黒人ピアニスト、ドクター・シャーリー(マハーシャラ・アリ)の運転手としてスカウトされる。NYでは名声があるかれは差別の色濃い南部での演奏ツアーに出るのだ。二人は、〈黒人用旅行ガイド=グリーンブック〉を頼りに出発する....

コンゴ独立の2年後が舞台。まだ公民権法制定前で合法的に差別があった時代だ。本作の主人公もピアニストも実在の人物。トニーの息子が脚本を書いている。ドン(ドクター)シャーリーはクラシック教育を受けていて、このベストを聞くとスタンダードやR&Bも入っていて、わりと原曲を崩さずに弾くポップス寄りのプレイヤーみたいだ。

映画では、シャーリーの方が品のいい教養人で、イタリア移民のトニーは無骨で直情的で家族思い、的なキャラだ。ハリウッドステレオタイプから見ると逆転している関係だ。でありつつ南部に行けば教養人でポップスターのシャーリーは”カラード”として当たり前に一段下の扱いを受け、警察に見つかれば簡単に牢に放り込まれ、トニーはだんだんとその構造のおかしさに気がつきつつ友情が生まれ...的な流れだ。

ストーリーは非常に収まりが良くて、主演の2人も魅力的だ。ヴィゴ・モーテンセンがイタリア系としてありなのかはよく分からないけれど、長い南部ツアーが彼らにとって、そしてトニーを待つ家族にとって国外出張なみの距離感として描かれ、2人が帰還する雪のクリスマスをいい感じに纏めに持ってきている。誰でもいやおうなしにほっとしてしまう。

本作、オスカー作品賞を受賞しているけれど、ブラックの映画人や、何よりシャーリーの遺族からもまあまあ批判を浴びていて、つまり白人観客側から見て「良心的なオレたちがあんな時代でも黒人といい関係を築いている」居心地のいい映画でしかない、ということだろう。『最強の二人』にもちょっと似ている。

上の作品に出てくるようなジャズのビッグネームたちも、「アメリカでは俺たちは犬みたいに扱われる。ヨーロッパや日本に行くと全然違うんだ」みたいな言葉をよく聞く。その時代にもリッチで白人を運転手として雇うような黒人ミュージシャンはいたわけで、世界はそんなに単純なものじゃないんだろう。

時代劇大作からしかえられないなにか 『オデュッセイア』『乱』

🔹オデュッセイア

ストーリー:古代ギリシャのイタケの王オデュッセウス(マット・デイモン)は「トロイの木馬作戦」でトロイを殲滅した後10年帰還しなかった。王が不在の宮殿には求婚者が王位を狙い、宴を繰り返し居座り続ける。オデュッセウスの船団は神々の怒りを買い、単眼の巨人キュクロプス、魔女キルケ(サマンサ・モートン)、鎧の巨人たちやセイレーンの歌など数々の試練に翻弄されながら地中海を彷徨う.....

ノーランはなんだかんだ毀誉褒貶が多い映画作家だ。映画マニアを自認する人ほど距離を取りがちだ。ひとむかし前のスピルバーグ的ポジションにすでにいるということなのかもしれない。つまり娯楽映画の王道を支えているということだ。

『テネット』の時がまさにそうだった。コロナ禍で映画産業が完全にストップしている2020年秋に唯一の洋画娯楽大作として日本でも公開されていた。けっこうな入りの劇場でなんだか救われた気持ちになったのを覚えている。まあ劇場を救ったのはその少し後に公開された『鬼滅の刃』だけどね。

マニア系が冷淡になりがちなのは、やっぱりそこはかとなく漂う中2感というか、複雑な語り口のわりに根底にある世界観がシンプルというところなんだろう。もはや爵位まで持っているけれど貴族的な退廃とは無縁だし、インテリ的な斜に構えたスタンスも、ストリート的な荒涼とした世界観もない。

ある意味、テーマはあくまで作品のモチーフにすぎなくて、撮影・美術・編集とかの「どうつくるか」の追求が監督の最大の興味なんだろうなと思う。本作だってまず聞こえてくるのは「フルIMAXフィルム」「最小のCG、実写で再現」「大男と小柄な役者を使って巨人族を再現」「実在の城まで毎日2時間かけて全員出勤」的な制作の話だ。

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(c)Universal Pictures via rotten tomato

結果、その映像には十分すぎるくらいに満腹し、重量感のある時代劇大作を見た!という手応えは確かにあった。お腹に溜まる伝統的フレンチのコースの感じだ。古典が原作だからコース料理さながらに期待どおりの展開となり、倫理観を持たせた現代性のあるテーマへの書き換えでオーガニックな食材を食べてるみたいな収まりの良さもある。

そう、全般的に収まりがよくて破綻はなく、豪快でありつつノーランらしくどこか品がいい。先史時代の兵士たちがどんなに残忍で欲望に忠実だったかなんて想像もつかないけれど、本作の兵士たちは規律もあるしきちんと倫理観も持っている。主人公オデュッセウスも原作ではギリシア神話らしく愛欲にもためらいがないところ、本作では限りなくストイックだ。

そんな中でキルケーの魔女のシーンでは兵士たちが豚に変えられるところをシリコンの特殊メイクを使って妙にねちっこく描写していたのが不思議でありつつおかしかった。ほんらい別に豚に変身するところはあっさり流してもよさそうなものなのに。

あと、クライマックス、オデュッセウスと敵たちが宮殿で戦うシーンの「ほら槍が落ちてきた!」のコント的な繰り返し(見た人ならわかりますね)も狙いは不明ながらおかしかった。

 


🔹乱

ストーリー:過酷な戦国時代を生き抜いた猛将一文字秀虎(仲代達也)は七十歳を迎え、家督と三つの城を三人の息子に譲ることにしたが、それを諌めた三男の三郎は隣国に放逐された。領主となった長男太郎、次郎とも秀虎の排除に乗り出す。そこにはかつて家族を秀虎に殺され太郎の正室となった楓の方(原田美枝子)の影があった....

『オデュッセイア』でノーランが参考にしたという黒澤明の『乱』。1985年公開、黒澤にとっては最後の大作だ。改めて見ると、娯楽時代劇として十分面白かった。

物語のベースは『リア王』の悲劇で、三兄弟(リア王では三姉妹だが)のポジションもそのままだ。そこに主人公に恨みを持つ長男の妻がヴィランとして存在感を発揮する。主人公はリア王さながらの豪傑だったが老いて無力化していき、悲劇をへて狂気に落ちる。悪魔性のある妻が主人公たちを破滅させる感じは、同じシェイクスピア悲劇ベースの『蜘蛛巣城』によく似ている。城のオープンセットの場所(富士山麓)も同じなのだ。

本作、制作費は26億円とわれる。今の貨幣価値だと約40億円、日本映画の歴代制作費ランキングがあればベスト10に入るスケールだ。その分、プロダクションの豪華さと合戦シーンのエキストラの数、それに今だと多分難しい大量の馬の疾走は圧倒的だ。

ワダエミの衣装は『The Fall』と同じで、わかりやすいテーマカラーでいがみ合う勢力を区別しているし、当時はあまりなかったはずの真紅や黄色、明るいブルーなどの衣装や旗が土っぽい風景と黒で統一した甲冑に恐ろしく映える。霧や砂埃の中で逆光のシルエットで描かれる武士たちの映像は実に格好いい。クライマックスの城の炎上シーンはいうまでもない。

ただ演技は少し微妙なものを感じる。黒澤が舞台劇的な演出で撮ったせいで、映像で見ると縁起が大袈裟な時があるし、特に主人公秀虎のメイクはどう見ても舞台メイクでリアル方向からは浮いてしまう。黒澤は昔の作品でも追い詰められた主人公を白塗りにしたり、という象徴主義的なやり方をときどきしていたから、ある種のケレン味表現なのかもしれない。それにしても...と思ってしまうところはある。次男役根津甚八の剃った頭のカツラが若干大きすぎて火星人的シルエットになっているのも緊張感をやや削いでいる。

主人公仲代達也と比べて3人の息子役が若干見劣りするきらいがある(偉大な父と凡庸な子の対比を見せたかったのかもしれない)のに比べて、本作のある意味最重要人物である原田美枝子はなかなかに見応えがある。『蜘蛛巣城』の山田五十鈴の異様な存在感と比べると線が細いけれど、その分、弱い立場で復讐を貫徹するギリギリのテンションが伝わってくる。次男を刃物で脅すアクションシーンの切れは最高だ。

ずいぶん経ってからヤンと出会う 『エドワード・ヤンの恋愛時代』『海辺の一日』

ホウ・シャオシェンと同世代の「台湾ニューシネマ」の代表、エドワード・ヤンが死去して20年近く経つ。公開時は不思議とほとんど気にしてなかった。はじめて出会うヤンの作品(代表作はまだだけど)、当時の日本映画を見るときに近い独特の切なさがあった。

🔹エドワード・ヤンの恋愛時代

ストーリー:1990年代、台北。財閥の娘、モーリーが経営するメディア企業は不調で婚約者アキンとも恋愛感情はゼロだ。従業員の1人チチはモーリーの親友だが振り回されるばかり。恋人の官僚ミンには転職を勧められている。かれらをとりまく男女10人の2日半の昼と夜を描く....

1994年公開。90年代後半の台北はなんとなく感触だけわかる気がする。街は十分に洗練されて、アジアの街にイメージするエネルギッシュさがさらっと抜け落ちた感じのソフトな若者たちが印象的だった。それでも裏街に行けば怪しげな男に尾行され、妙な老婆に声をかけられ、ちょっと裏社会めいた飲み屋に迷い込む、そんな思い出がある。

本作、「バブル期のトレンディ・ドラマ風」とよく言われる。表面に見えてくるものは近い。女性たちの立体的な髪型やちゃんとしたファッション、男性たちのオーバーサイズ気味のスーツスタイル、小洒落たオフィス、そして気軽に誘い合う男女、いま日本の90年代のトレンディドラマを見るときの、少し微笑ましく照れくさくなる当時の「トレンディ感」への感慨と同質なものが得られる。目まぐるしくプレイヤーが入れ替わるゲーム的な関係性は、『ラブ・アクチュアリー』にも似ている。

ただしそんなハッピーなラブゲームの話じゃない。水面の上で着飾って楽しげに踊る若者たちの下にはかれらを飛び立たせない暗い重力みたいなものが感じられる。それは個人をしばるミクロなものでもあるし、社会にのしかかるマクロなものでもあるだろう。

だいたい「恋愛時代」といってみたところで、基本は男が声をかけ、なれなれしくアプローチするだけだし、そこには愛の成就なんて1つもなく、失われて損なわれていく関係ばかりなのだ。ちなみに原題は『獨立時代』英題は『A Confucian Confusion(儒者の混乱)』で全然違う。

本作の中で、上流よりの人々がモーリィとかハリーとかバーディとか呼び合っている。台湾では英名のニックネームで呼び合う文化があって、英語教育の中で付けたものをずっと使っている、台湾と付き合いが深い人ならお馴染みだろう風習もはじめて知った。

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(c)Kailidscop Pictures via Google play

創作の暗闇にどっぷりと浸かった作家のアパートをヒロインが訪ねるシーンがある。このシーンは奇妙なほどに物理的にも暗い。昼間のシーンはまだしも日が暮れると「暗い部屋を見せる照明」的なものもなく、フィルムがノイズだらけになって解像感が落ちるくらいに暗い。闇とは違う暗さ。

ラスト近く、夜が明けかかった青みがかかった光の中でヒロイン2人が語り合うシーンがある。一夜を描いた映画で、明け方はエンディングによく使われる。物語からも映画という夢からも醒めるようなシーンだ。本作は一夜の物語じゃないし昼も夜も物語は動き続ける。でもその時間は静かですごく特別なものに映る。

 


🔹海辺の一日

ストーリー: 国際的に活躍するピアニスト、ウェイチンは故郷でのリサイタルの当日、かつての恋人の妹ジャーリィと再会し、2人は記憶をさかのぼる。恋人は家のしきたりに逆らえずウェイチンを捨てて親の決めた相手と結婚した。ジャーリィはそれに反発し家を出て自分の恋人と結婚する。しかし数年後、警察から夫が海で行方不明になったと告げられる....

監督の長編第1作だ。1982年公開。『恋愛時代』と比べると古い時代から抜け出そうとしている社会や若者の姿が生々しく見える。物語は1980年代の「現代」から2人の女性の学生時代まで、たぶん1960年代中盤までさかのぼる。

本作は思い出話の形で時間軸がうつろう。思い出の中に何年か前の「現在」が置かれて、そこから過去を回想したりするからかなりトリッキーな構成だ。しかも序盤はピアニストのウェイチンの視点で物語が進んでいくのに、いつの間にか主役は入れ替わり、彼女は物語の聞き手になっていくのだ。

ウェイチンと恋人の物語、その傍観者だったジャーリィがやがて物語の中心になる。彼女の夫になる男性はウェイチンの恋人=ジャーリィの兄の学友だ。そして夫は別の学友が起こした会社の社員になる。

この関係性、『恋愛時代』のモーリーとチチと同じだ。2作とも学生時代の関係が社会人になってそのままビジネスの関係になっている。台湾の高学歴クラスではこの関係がすごく濃いというのは時々言われる。日本でもある種の学閥はすごく機能するけれど、この親密さは台湾らしいのかもしれない。

あとは『トントンの夏休み』と共通で地方都市の開業医が舞台なんだけど、どちらも日本統治時代の遺産が色濃いのがなんだか複雑な気持ちにさせる。地方の名家が暮らしている建物は多分日本の支配層が建てた家だし、親族の呼び名に日本語が普通に入ってくる。

目まぐるしく動く(特に)ジャーリィの時間軸をぱっと見で理解しやすくしているのが彼女の髪型だ。ライフステージの変化に合わせて彼女の髪型はドラスティックに変わる。最もドラマチックな時間では最大限に世界に何かを吐き出しているみたいな髪型になるのだ。

夏のエンタメ2作 『ラスト・サバイバー』&『オークストリートの異変』

🔹ラスト・サバイバー

ストーリー:メカニックのヒッグ(ジェイコブ・エロルディ)は元軍人のバングリー(ジョシュ・ブローリン)と共同生活で日々を生き延びていた。世界は謎のパンデミックで人類の大半が死滅、生存者たちの一部はギャング化していた。 ヒッグを支えるのは、愛犬ジャスパーの存在と亡き妻の記憶。 ある日、小型機の無線に交信の声が入る。生き残った文明の可能性に向けてヒッグは飛び立つ。

多作巨匠、リドリー・スコットの新作。いわゆるポストアポカリプスもの、感染症で世界滅亡系の作品だ。生き残った人々はこれまでの文明の名残をかき集めて大都市から離れて暮らしている。あるグループはメノナイト教団で、これはアーミッシュに近い、近代物質文明から距離を置いて暮らすコミュニティだ。主人公たちはもう少し物質文明的で、銃器や軍装備や軽飛行機を駆使して自分たちの暮らしを守っている。

登場人物たちはそれぞれ孤立した拠点で自給自足に近い感じで生きていて、主人公ヒッグだけは軽飛行機で廃墟化した街に飛び物資を補給したり、他のコミュニティを訪ねたりする。でも生き残っているのはかれらだけじゃない。暴力で物資を奪いにくる色々なグループがいる。誰もが自警団となって野蛮な襲撃者たちに対抗しなければいけないのだ。

・・・という構造、ほぼ西部劇だ。主人公ヒッグは「シェーン」みたいな旅する青年だ。馬の代わりがセスナ。旅の途中で山中の一軒家に暮らす父娘に出会い、ちょっと滞在して交流したりする。娘がすぐになびくのも含めて、この感じお馴染みだ。ジョシュ・ブローリンがいつものタフさで演じる相棒のバングリーは村を守る武闘派の保安官。そして襲ってくるのは西部劇での〈インディアン〉的な、独特の習俗を感じさせるトライブだ。

ただ風景が西部劇じゃない。というのも本作、ほぼ全編イタリア撮影で、スタジオシーンは有名なチネチッタにセットを設営、ロケはイタリア北部や中部の山岳地帯。どことなく山容がアルプスっぽいし、心なしか植生も単調な針葉樹林とは違う何かがある。

そして本作、思った以上に飛行機映画なのだった。アメリカ映画で旅といえば自動車か鉄道だし、『シラート』みたいにオフローダーを頼りに荒野を行く感じはおなじみだ。本作そこが古びた軽飛行機なのだ。物語設定で(主人公がメカニックだったり、周囲に部品取りのセスナが大量にあったり)、かなり無理矢理に文明崩壊後もセスナが飛び続けられるようにしていて、移動シーンはすべて空中で撮影している。

ここは新鮮だし、地べたを這う圧迫感がなくて物語的にも映像的にも抜けがいい。『星の王子様』の作者でありプロのパイロット、サン・テグジュペリの『夜間飛行』というロマンチックな小説がある。1930年代のまだまだ危険な時代の飛行機乗りの物語だ。そこから100年後、本作のセスナも原始的なガソリンエンジンと電子制御皆無のメカニカルなシステムだけ、不整地でも離陸できる、危うさはあるけれど主人公が手の内に収められる、実にいい相棒だ。

軽飛行機が全面フィーチャーされる映画といえばトム・クルーズ主演の『バリー・シール』くらいしか思いつかない。戦争映画は別としてね。スコットもそこに面白さを感じて引き受けたのかもしれない。

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(c)20thCentury Studio via ReelCinemas

本作、スコットの代表作ラインナップには正直入ってこない気がする。原作付きということもあってか物語の強度もそれほどでもないし、特に序盤と主人公の旅の合間の逗留パートあたりはややペースが落ちる感じもある。終盤になってテンションが上がり、エルサルバドルのギャングMS13そのもののスキンヘッドに全身タトゥーの暴力集団や、ネイチャー派のマッドマックスみたいな乗馬暴力集団が出てくる。

そしてスコットの悪意をここに集約した、みたいなじつにいい感じの集団も現れるのだ。視覚的にも設定もカタルシスがある。あの集団の描写は原作にもあったのか、監督オリジナルなのか・・・

 



🔹オークストリートの異変

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ストーリー:郊外住宅地オークストリートに住むグレッグ(ユアン・マグレガー)デニース(アン・ハサウェイ)と姉弟の4人家族。夫婦仲が軋みはじめていた家族はある朝異変に気づく。町全体が周囲から断絶し、しかも恐竜たちが街に侵入しはじめたのだ。サバイバル状態に陥った家族は....

監督、D.R.ミッチェル。当ブログだと高校生の一夜を描く『アメリカンスリープオーバー』、奇妙なゲーム的世界を描く『アンダーザシルバーレイク』どちらも独特の王道エンタメじゃないオーラが濃厚に漂っている。王道エンタメの作り手JJエイブラムズがプロデュースでなぜかミッチェル監督での夏休み恐竜ホラーが仕上がったのだ。

ホラーと書いたけれど、本作、恐竜の獰猛かつ貪欲さが全面に出ていて、大量に現れる恐竜たちの中に温和な草食獣はほとんどいなくて、翼竜も2足歩行の大型恐竜も、最近発見されたというヘビ型恐竜も人間たちが好物なので、主人公たちは心休まる間もない。

物語冒頭が、「パニックが起こる前の平和なオークストリート」シーンで、コミュニティのお祭りらしいのだが、ここから映画的過剰さに溢れていて楽しくなってしまった。『ベルファスト』の街角シーンと同じで、いくらお祭りといっても人口密度が高すぎるのだ。この生息密度の過剰さは、そのまま恐竜たちの過剰さにつながっている。

物語を推進させる主体はお母さんアン・ハサウェイに託されて、お父さんユアン・マグレガーの使えない父ぶりが際立ち、その延長として「あっ」というインパクトが生じて、最終的になんともいえない収まりを見せる。子供たちはティーンにもかかわらず問題解決にはほとんど寄与しない。

また本筋の恐竜パニックを楽しむお客さんには関係ないところで、〈スプリット・ディオプター〉によるアップの手前人物と後ろの人物両方に気持ち悪い感じでピントが合う独特の画面、それにオリジナルエンディングが評判悪すぎて急遽追加撮影で差し替えた結果が今僕たちが見ている独特のオチになっている、という2点は心に残る夏の思い出になった。

『ヌーヴェルヴァーグ』&『5時から7時のクレオ』 あの頃のパリって(知らないけど)やっぱり素敵

🔹ヌーヴェルヴァーグ

ストーリー:1959年、パリ。映画批評誌「カイエ・デュ・シネマ」のライター、ジャン=リュック・ゴダールは映画撮影のチャンスを掴む。アメリカ人女優ジーン・セバーグ主演、フランソワ・トリュフォー脚本のロマンチックな犯罪映画だ。でもゴダールはストレートに映画を撮るつもりはなかった。脚本は解体され、街中のゲリラ撮影で行き当たりばったりに撮っていく。ストレスを溜め切った女優やスタッフは....

アメリカの多少文学性がある監督は、やっぱりパリが、フランス映画が好きだ。ウディ・アレンにしてもウェス・アンダーソンにしても好き好きオーラが漏れ出るような作品を撮ってしまう。でも俳優はハリウッドスターを連れていく。本作の監督リンクレイターは『ビフォア・サンセット』ではハリウッド俳優とフランス人女優のパリでの1日を描き、どう考えても好きなのだ。

その愛はこれ以上ないくらい直球に作品化され、タイトルもまったく捻ることなく『ヌーヴェルヴァーグ』そのままで来た。正直フランス映画界は複雑なんじゃないか。フランスだっていうまでもなく映画大国だ。自国の大事な文化的ムーブメントを外国人監督に決定打的なかたちで作られてしまったのだ。

好意的に受け止められるとすれば、1つは役者・スタッフ含めてフランス映画として作られてるということ、画面や登場人物、ビジュアルまでその時代のフランスに十分にリスペクトを払って完全再現に徹したところだろう。日本だって本国では描かれにくいテーマを外国の作り手が映画化することはある。それが真摯だったら観客も敬意を持って受け止める。『沈黙』とか『Minamata』とかね(どっちも日本でロケはできなかったけど・・・)

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(c)2025 ARP-Detour Development LLC/AMC Entertainment via NYtimes

もう1つ、監督も敬愛されているかもしれない。リンクレイターはじつに作家作家した監督だ。その作家性はテーマと語り口もさることながら、企画性にあるとも言える。初期の不思議すぎるアニメ『ウェイキング・ライフ』、『ビフォア』3部作、それに何といっても超長期撮影映画『6才のボクが大人になるまで』。本作も究極の企画モノといって間違いない。共通する作風といえば、フィクションの中に「実際に撮影していること」にともなうドキュメンタリー性が滲むところだろう。

フィクションである映画の撮影にドキュメンタリー性を正面から取り込む。ゴダールたちがやっていたことだ。街中にカメラを持ち出して、一般の風景も通行人もお構いなしにフィルムに収める。役者だってかっちりした脚本で入念にリハーサルしたものを再現することなんてできない。演技の一回性から滲み出る生身の人間の姿。撮影監督は戦場カメラマン、ドキュメンタリー撮影家だったラウール・クタールだ。

本作はとても見やすい、気持ちいい映画だ。青春讃歌、映画讃歌に徹しているのだ。映画撮影の素人(理屈先行系)が脚本すら解体して即興でしかも完全ロケで撮ったら、ここに描かれないトラブルは無数にあるだろう。対立だって言い合いだってもっとあってもおかしくない。本作のゴダールは友達にも関係者にも先輩にも全面的に暖かく見守られているし、本当に深刻な事態は発生しない。不満はあっても撮影現場は楽しげだ。

映像もこれ以上ないくらいに、オリジナルのシーン、映像のフィルムっぽい質感、当時のパリの景色、映画業界の人物像を再現して見せている。モノクロ画像はデジタルで濃淡の階調を調整したみたいじゃなく、いかにも当時のそんな高品質でもないフィルムの少し浅い諧調に見える。音楽も映像も人物も、ひたすら快い。

映画作家が映画について描くとびっくりするくらい直球の映画愛の告白になることってある。それはそうだよね。恋愛はモチーフとして描けても映画への愛は他人事としては描けない。本作もそんな愛に溢れた映画なのは確かだ。

 


🔹5時から7時のクレオ

ストーリー:クレオは売り出し中のポップシンガー。病院でがんの疑いを告げられて、タロットに行くと不吉な予言を聞かされる。7時に病院の検査結果を聞く予定のクレオは重苦しい気持ちのまま予定をこなし、友達に会い、街をさまよう。ちょうど夏至の日のパリは明るくさんざめいていた....

『ヌーヴェルヴァーグ』にもゴダールの友人、映画作家として出ていたアニエス・ヴェルダ。彼女の1962年監督作だ。パリ市内でのロケで当時のパリのドキュメンタリーにもなっているところは、『勝手にしやがれ』と同じ。でも彼女はゴダールの手法のフォロワーなんかじゃなく、写真家でありドキュメンタリー作家でもあったヴェルダは7年前にそういう手法の作品をすでに撮っていた。

本作のもう1つの特徴は上映時間が物語の時間経過とほぼ同じリアルタイム進行だということ。当ブログでは『おとなのけんか』リンクレイターの『ビフォア・サンセット』なんかがそうだ。クレオはマネージャーや友達や出会った人とタクシーや車やバスでパリの中を移動する、その移動も省略せずに車内に積んだカメラで写し続ける。

がん宣告という、ほとんどの若い女性には日常性がない、その分死の恐怖としてイメージが増幅しやすい心の重荷を負ったヒロインと、キラキラしたパリの午後の風景の対比。その緊張感にリアルタイムはよくあう。

市内や雑踏のシーンはドキュメンタリックでありつつ、写真家らしいねりに練った構図もところどころにあって、当時のパリの風景と相まってじつに格好いい。あと特に序盤、彼女の不安感が前面に出ているところで、鏡のモチーフがあらゆるシーンで出てくる。鏡はまるでキュビズムの絵画みたいに、カメラからの1視点では映らない人物の表情を同時に見せたり、風景を見ている主観映像っぽいなかに別の視線としてあったり、主人公を覆い隠すみたいにウインドウの外光に映る街の雑踏だったり、自分の内面を写すというより他者を同居させる機能がある。すごく情報量の多い映像だ。

物語終盤のロケ地は、セーヌ川左岸のモンパルナスに近いモンスリ公園や、国立図書館に近い、サンペトリエール病院。1962年のパリ。まだ19世紀風のクラシックな街並みに、シムカとかシトロエンとかの小ぶりでころっとした車がいきかう。絵になるんだよね、なんといっても。