ホールドオーバーズ & さらば冬のカモメ

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ストーリー:1970年冬。ボストン近郊にある全寮制男子校バートン校はクリスマス休暇を迎えていた。毎年実家に帰れない生徒の見守り役になった歴史学教師ハナム(ポール・ジアマッティ)、料理長メアリー、それに色々あって1人残ることになったアンガス。頑固で嫌われ者のハナムだったがだんだんと打ち解け始め.....

2024年公開、監督アレクサンダー・ペイン。作家的監督の作品で、時々パスティーシュ的とも言える「あの頃」を再現しようという映画がある。『8人の女たち』『リコリス・ピザ』、『X』も少しそうかもしれない。本作もその流れの1つに入れてもいいだろう。制作会社のクレジットから(ちょっとわざとらしい)フィルム傷やノイズ、オープニングから「フィルム映画風でいきますんで」と宣言してる。

お話は、じつにしみじみした、孤独な魂が触れ合う系の物語で、ある種鉄板とも言えるクリスマス舞台モノ。家族や恋人と暖かく過ごしている周りのみんなとのコントラスト、それでも自分たちに少しだけ温もりを持ち込もうとする切ない努力、その辺りでじんわりとさせてくる。

人気のない学校に残された3人は、裕福な家の若者、教養ある初老の男性、息子をベトナムで亡くした黒人女性。生徒や先生は恵まれた側に見えるけれど、それぞれに(特に1970年と思うと)肩身が狭い、彼らが思う「普通」に入れない何かを抱えている。主人公ハナムは同じジアマッティが演じた『サイドウェイ』の主人公に似ていて、今までの人生の中でこれでもかと言うくらいに運命にさんざんに打ちのめされてきた。

そんな運命の呪いもあって、女性に積極的になることもない。多分若い頃から今までずっと。そんなある種の不能性も『サイドウェイ』と似ている。思えば『ファミリー・ツリー』の主人公も、妻を失い、しかもその不倫を知る、という不能性の高いポジションにいたし(『アバウト・シュミット』も似ている)、『ネブラスカ』の老父を見守る主人公も中年かつ彼女と別れていた。ペインの主人公たちのこの不能性はいったいなんだろう。

そんなハナムが、色々と傷ついていながらも普通の若者らしくカジュアルに同年代の女の子と親しくなっているタリーを横目で見るのも味わい深い。そして社会的には一番マージナルなメアリーが最もバランスが取れていて3人の重心みたいになっている。でも一番深く傷ついているのも彼女なのだ。

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Seacia Pavao / (c) 2024 FOCUS FEATURES LLC.

レビュワーの中には「こういう佳作は昔は普通にあった」という人もいる。確かに途中にちょっと意外な展開はあったけれど、大きな流れは王道かつ想像つく、という気がしないでもない。監督は『チャレンジャーズ』みたいな関係性も描き方も撮り方も新しい地平に切り込むつもりじゃないだろう。この物語自体、1970年という、それなりの過去である必要があるからだ。『リコリス・ピザ』の自分史的なアプローチとも違う。

この手のヒューマンドラマを劇場公開版で制作するのは難しくなっている、とよく言われる。そんな肩身の狭さも分かっていて、いっそそんな作品が普通にあった時代のものとして作ったんだろうか。ローファイじゃないと染み込んでこないタイプの音楽は確実にある。だから古いスタジオで、古い楽器を使った演奏を古い機材で録るみたいなね。それでも主人公は若者に「過去が君の未来を決めるわけじゃない」といって送り出すのだ。

 


🔷さらば冬のカモメ

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ストーリー:ノーフォーク海軍基地に勤めるベテラン下士官のバダスキー(ジャック・ニコルソン)とマルホールは基地の募金40ドルを盗もうとした若年兵メドウズの護送を命じられる。ポーツマス海軍刑務所までの旅だ。40ドルで8年間の禁固刑に割り切れない思いを抱く護送の2人は....

『ホールドオーバーズ』で監督が参考に役者に見せたという作品だ。監督ハル・アシュビー、1973年公開。真冬の東海岸を3人が北に向かって旅をする。約1000km、東京から下関くらいの距離感だけど寄り道を繰り返しながら4日間くらいかけて旅をする。人生の機微を胸に秘めたおっさんたちが不安定な若者を見守りながら冬のひと時を過ごす。

『ホールドオーバーズ』の後から見るとなるほど感もあって楽しい。序盤、基地の居室の撮り方やバダスキーが上官に呼び出される感じ、スケートする若者を微笑みながら見守る感じも、ちょっとしたオマージュ感がある。ただし題材は海軍軍人3人、男だけの旅路だし、1970年代前半のワイルド感はいまの「緻密にチェックした上でのワイルドなシーン」の感じとはだいぶ違う。

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本作のニコルソンはハナム先生(名門校)と同じように海軍という伝統的・権威的組織で生きていく人だ。でもマインドはだいぶ違って、むしろ若者を煽動してルールからはみ出そうとする、がっちりした中で自由を求める荒ぶる魂系なのだ。2年後の『カッコーの巣の上で』のニコルソンを思い出す。怪演するニコルソンばかり印象に残ってしまいがちだけど、本作の落ち着いたニュアンス豊かな姿が新鮮だった。ま、時々荒れるけどね。

話としてはささやかだ。ロードムービーでありつつ、男3人が街々でビールを飲んだりハンバーガーを食べたり女の子にギラギラしたり。途中でなぜか日蓮真宗のグループと交わったりする。細かい盗みがやめられない若者と、彼の罪に合わない重い刑に納得がいかず、なんとか思い出を作ってやりたい年長者。雪はあまりないけれど、いかにも寒そうな(海軍のピーコートだけ着ている3人は本気で寒そうだ)東海岸の景色がしんみりしていい。

チャレンジャーズ & 君の名前で僕を呼んで  ルカ・グァダニーノ2作

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ストーリー:アート(マイク・ファイスト)はグランドスラムで優勝経験があるプロテニスのトッププレイヤー。調子を落とし、妻でコーチのタシ・ダンカン(ゼンデイヤ)の勧めでワンランク下の大会チャレンジャーに出場する。そこには落ちぶれたかつてのライバル、パトリック(ジョシュ・オコナー)も参加していた。13年前、2人はお互いタシに恋する関係でもあった.....

チャレンジャー、少し前に怪我から復帰した錦織圭が参加したときに知った大会だ。実績がない新人も、めがでないベテランも、調子を取り戻したいトッププレイヤーも混じり合い、ドラマの舞台としてはいい。観客席は小さくオフィシャルもこじんまりしている。

本作の物語自体、言葉にしてしまうとそんなに派手じゃない。10代後半の有望プレイヤーだったアートとパトリックが、同年代のスターだったタシに憧れ、大学時代を恋のライバルとしても過ごし、30代になってそれぞれに年齢を重ねて地方都市の小規模な大会で再会する。3人それぞれに10代の全能感で見ていた未来とは違うところに行き着く、ほろ苦さもある物語で、撮り方によっては味のある小品になりそうだ。

しかし本作の味はまったく違う。絵は華やかだし、映像もストーリーもドライブしていくし、全体にメジャー感がみなぎっている。おなじボールゲームというところで『ピンポン』をすぐに思い出した。あれだって高校部活の卓球という地味な題材を格好いい映像とヒーローものめいたキャラクターでポップに見せた。

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©2024 Warner Bros. Ent. METRO-GOLDWYN-MAYER PICTURES INC. via imdb

まず映像。男子選手はトッププロにしては身長が低くめだけれど、そこは言いっこなしだろう。プロレスラー役の『アイアンクロー』だって役者はジュニアヘビー風の体格だったしね。打ち合うボールは多分『ピンポン』と同じですべてCGだと思う。動きで説得力を持たせているんだろう。ボールにカメラが乗っている体のPOVは正直やりすぎだと思うが素人目にはとにかく見飽きない。

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音楽の載せ方はレビュアーたちが全員コメントするところで、強制的にテンション高めの気分にさせられてしんみりすることは許されない。テニスシーンだけじゃなく会話や心理が動くところでもかかる。

それにもちろんキャスト。ゼンデイヤが物語を成り立たせているのは間違いない。2人の間を揺れ動くお姫様になりそうなところが、男2人が見上げる文句なしの支配者に見える。『DUNE』や『スパイダーマン』では健気でまっすぐな、熱血物語に出てくる女子的なキャラクターだったのが、若干非現実的なプロポーションもあって、超越性すら感じさせる。アート役のファイストは「アメリカの森山未來」の異名そのままに独特のストイックさとアンバランスなマッチョさを組み合わせ、オコナーは「悪童系」プレイヤーの伝統をさりげなく表現してみせる。映像的にはむしろ2人の方が性的な視線で撮られているふしもある。

物語自体、青春期の終わりの物語ではあるけれど、しんみりした青春回顧ものではぜんぜんない。まず全面にセクシャルな空気が横溢しているし、その中心にいるタシは男性2人が熱すぎる性的な眼差しをむけているのは十分以上に承知しながら、本人は自分が挫折してもテニスでの強さだけを見ている。男性2人はテニスへの情熱と性的エナジーがもはや不可分に一体化し、表層の意識としてはヒロインに向かいつつ、実際お互いにもむけられている。

この辺りの描写は少し前だとあるジャンルの枠に限定されていたと思う。観客も『ブロークバック』的にわかった上で見に行った。近年急速にあらゆる関係性が混じり合って見せられるようになった。『ソルトバーン』ではカウンターとしてあえて前面に出してる気がしたけれど、本作ではトライアングルの関係性の本質に組み込まれている。ヒロインはそのことをはっきりと分かっていて、虚しさを感じるというよりクライマックスでは「そう、そこだよ!お前ら」と心でガッツポーズを取るのだ。

 


🔹君の名前で僕を呼んで

ストーリー:イタリア北部の田舎を家族でバカンスで訪れた17歳のエリオ(ティモシー・シャラメ)は大学教授の父が招待した大学院生オリヴァー(アーミー・ハマー)に惹きつけられる。二人はいつの間にか友情をさらりと超えて夏の間親密な時間は続く....

グァダニーノ監督作はあと本作だけ見ていた。脚本は『モーリス』『眺めのいい部屋』の監督ジェームス・アイヴォリー。すごく粗雑な言い方をすると、本作は1980-90年代頃のイギリス系美青年同士の恋愛もの(『モーリス』的な)と似た受容のされ方をしていたと思う。クラシックな画面と描写、美形のシャラメとハマーの配役、それなりの悩みはありつつ、一夏のエピソードレベルを逸脱しない、穏やかな物語。

ヨーロッパ映画の一ジャンルとも言える「教養人たちのバカンスもの」の枠内でもある。登場人物の社会階層は限定されていて、シリアスな社会問題が前景化してくることはなく、主人公たちのちょっとした心のざわめきを穏やかに描く。

とはいえそこにはやっぱり濃厚に肉体と性のエネルギーの噴出が描かれている。1980年代前半のアメリカ文化の中で同性愛をオープンにすることはまだまだリスキーだったはずで、そのちょっとした苦しみのシーンや、さらにその前の世代が理解を示すシーンも、観客の印象に残るように描かれている。

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市子&こちらあみ子&カラオケ行こ!

🔹市子

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ストーリー:長谷川(若葉竜也)と市子(杉咲花)は3年間一緒に暮らしていた。結婚を申し込まれた市子は翌日姿を消す。その後やってきた刑事は彼女をある事件の容疑者として探していた。市子を探す長谷川は刑事と接触するうちにその過去を知る。「市子」は存在しなかった.....

2023年公開。舞台劇『川辺市子のために』の作・演出、戸田彬弘が本作も監督している。本作はある意味「ジャンルが変わっていく映画」だ。こういうのは時々ある。ホラーかと思ったら後半はスプラッター混じりのアクションになるとかはよくある。本作はそんなに極端に変わるわけじゃなく、初めから市子にフォーカスして市子の半生を回想する形で描いていく。

市子は、厳しい家庭環境で生まれている。親に虐待されるとか食事ができないとか、そういうことではない。でもある意味もっと不条理な世界に子どものうちに嵌め込まれてしまう。公開からだいぶ経つけれど、ネタバレは避けておきましょう。彼女の境遇は途中で捜査していた刑事がものすごく説明的に僕たちに教えてくれる。彼女はそれを受け入れて生きる。成長する彼女を見ながら、だんだんと彼女がどんな人か観客にも見えてくる。

https://happinet-phantom.com/ichiko-movie/img/top/slide_01.webp?var=04

(c)2023 映画「市子」製作委員会

そして年月が現在に近づいていくにつれて、「ええっ」というようなシーンが次々と打ち込まれ、ヒロインにゆるく同情するつもりで見ていた観客はぎょっとさせられる。一言だけいうと、彼女は強いのだ。ただの気の毒な薄幸の女性じゃない。同じようなきびしい境遇の多くの人たちは、そこまで強く振り切れない、それができればいいよ、とも思うかもしれない。そこはドラマだ。

杉咲花はメイクの薄い、表情がわかりにくい髪型で他の役とはまったく違う人になり、その強さに説得力を持たせる。そんなに大きくない彼女だけど、衣装や撮り方でだろう、ぬぼっとした骨格がしっかりした人に見える。

 


🔹こちらあみ子

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ストーリー:あみ子は広島市に住む小学生。父(井浦新)継母(尾野真千子)兄との4人家族だ。あみ子はいわゆる「変わった子」だ。大人しく授業を聞けないし大人も友達も理解しにくい行動をとる。母の流産を機に家族はだんだんと崩れていく。中学生になったあみ子は....

2022年公開。監督森井勇祐、原作は今村夏子の小説だ。なかなかに厳しい一作で、広島郊外のほわんとした風景の中で、崩壊していく家族の地獄的なものが展開する。ダークなトーンで地獄としては描かない。晴れの日の明るい風景が多い印象で、青葉市子の柔らかい劇伴や、端正でありつつ、ところどころトリッキーな撮り方や、とつぜん挟み込まれるファンタジックなシーンや、あみ子役大沢一菜の存在で、全体には「ある子どもの成長の一時期」スケッチ調にも見える。

あみ子は〈ノーマル〉の枠からはみ出した子どもで、授業も受けられないし、友だちともコミュニケーションが取れず、共感力がないから家族の気持ちを想像することもない。原作小説もそうらしいけれど、映画で「障害」として扱わず「個性」として描く。見方によっては天真爛漫で純粋で直情型の、いわば前の時代の漫画や小説の主人公めいたキャラクターになっている。漫画や小説と違うのは、そんなあみ子を現実世界で理解して愛するのには想像以上にエネルギーが必要だということだ。無力であどけない少女は、荒れるわけでも異常なふるまいをするわけでもないけれど、そもそも少し微妙だった家族にとってどこか怪物的な、破壊的とも言える存在になってしまう。

監督は原作を読み、あみ子が自分だと感じて、キャラクター造形にも苦労しなかったと言っている。そういう気質であることに自覚的なんだろう。そうはいってもリアルに描けば触れていない部分はよけいに目立つだろう。本来なら教育や福祉がもっと介入する話にも見える。それだけに作り手はよけいにファンタジーをまじえて寓話的に描いただろう。


🔹カラオケ行こ!

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ストーリー:中学3年生の岡聡美は合唱部の部長。演奏会を見にきていた暴力団員、成田狂児(綾野剛)に声をかけられ、カラオケボックスに一緒に行くことに。狂児は組のカラオケ大会に向けて歌唱力アップのために歌がうまそうな聡美に目をつけたのだ...

2023年公開。山下敦弘監督。原作は和山やまの中編マンガだ。ちょうど単行本1巻分で、話のサイズも出来事のスケールも映画の小品にはほどよい。原作エピソードはほとんど端折らず、ところどころ人物やエピソードを足して膨らませている。マンガだと世界はほとんど狂児と聡美の関係性だけの話で、その分、聡美は未知の世界の未知の大人である狂児との出会いでほとんど一色になってしまうようにも読める。映画では友人や家族や合唱部の副部長女子や後輩、などなど「狂児以外の世界」を広げて、狂児との出会いを学園生活の中のひとときのエピソード風にしている。

原作は露骨なBLじゃないが、『女の園の星』を見ても、和山はやっぱり男同士の仲良い感じが描きたい人だし、そこに可愛さを見出したい人だろう。ちょっとした心理描写が彼らの関係をどことなくこそばゆい、湿り気をおびた雰囲気にさせる。本作の関係はうぶな中学生vs人たらしのやくざだ。「少年(少女)の悪魔性」みたいな物語にして大人側が支配される視点で描くのも時々あるけれど、ふつうに考えれば中学生は手もなくひねられる。読み方によっては狂児の少年に対するナニはけっこうあやうい執着でもある(タトゥー.....)。映画の綾野剛は原作の狂児に比べると異物感も人たらし感も少し薄目で、わりと誠実そうな大人にしている。

それから映画用にふくらまされた人物たちがそれぞれ結構存在感があって、特に1人で映画鑑賞する部をやっている聡美の友人は文字通り彼の居場所となるちょっとした大人のポジションで、「合唱」と「歌謡」がモチーフの本作に「映画」という映画版ならではの要素を足している。ちなみに大阪のはずれっぽい風景のロケ地は意外にも甲府市内だそう。こちらのNoteで詳しく紹介されてる。

 

関心領域 ー邪悪な庭園映画

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ストーリー:1940年代前半。ポーランドアウシュビッツ収容所の近く。所長のルドルフ・ヘスは妻と5人の子供、女中や庭師と小綺麗な家で暮らしていた。子どもたちは学校に、妻は子育てと庭の散策。ヘスは収容所へ出勤。家の中は穏やかな日常が.....

オープニングの印象は『悪は存在しない』と少し似ている。不吉な音響とも思える曲が鳴り響き、だんだんと環境音が侵入してくる。それから本題の映像になる。....本作を見る人はほとんどがどんな映画か知って行くだろう。僕も同じだ。オープニングからそんな構えで見始めた。でもたぶん何も知らないで見た方がずーんと来る。そんな導入部だ。

本作のテーマはアウシュビッツ収容所、その加害者側のドイツ人たちの描き方だ。アウシュビッツを描くときに、被害者や加害者を相対化して語ることはあまりにも難しい。だから作り手は「何にフォーカスして、どう描くか」の選択しかない。最近のこのテーマでは『サウルの息子』があった。「収容所で作業に協力させられる収容者」にフォーカスして、「彼の視点だけで収容所内を描く」という作品だった。本作もまた「撮り方、見せ方」がテーマとも言える。

見せ方についてはそこらじゅうで言われているから書かない。撮り方はたとえばここで書かれているみたいに、あえてカメラによるドラマチックな演出を捨てて、カメラマンの息遣いみたいなものが全くない映像の中で人々を観察するように撮影した。ちなみに独特な「見せ方」のおかげで話の全容が分かりにくいかというとそんなことはない。意外に丁寧に分からせるための描写やセリフを入れてきて、理解させるつくりだ。

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Two Wolves Films Limited, Extreme Emotions BIS Limited, Soft Money LLC and Channel Four Television Corporation 2023. via The Guardian

さて本作、僕にとっては久しぶりの「庭園映画」だ。映像の中の庭園や屋外空間におっと思わせる、そんな作品がたまにある。本作ではヘス一家の庭園はものすごく重要な機能を持っていて、極端にいえば主役と言ってもいいくらいだ。

まず、物語の中でヘスの妻ヘートヴィヒにとって、家の周りに何もないところから作り上げた庭はかけがえのない大事な空間だ。「何を植えるかも私が考えたんだから」と訴える。作り手は、当時ほんとうにヘス一家が住んでいた家を使って、当時の写真を見ながら、1940年代のドイツで植えられていた品種を確認しながら再現した。

芝生は綺麗に刈り込まれてさまざまな樹木や灌木や多年草が植え込まれる。19世紀末イギリス発祥のミックスボーダーといわれる植栽法だ。出来立ての庭園だから若い木や草花しか植っていない。樹木はトウヒ類やライム(ボダイジュ)。アップで映るのはツルバラ、ヒマワリ、ペチュニア、ダリア、マリーゴールド、ベンケイソウ....菜園もあってカブやハーブもある。奥には大きな温室があって観葉植物が育っている。ほとんどはドイツやポーランド原産じゃない、南米やアフリカから植民地化のついでに持ち帰ってきた品種だ。

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個人の想いがこもった素敵な庭園は、でも権力構造をそのまま形にしている。庭はその周囲から隔絶されている。周囲の環境からも、社会からも。庭で遊ぶ一家は塀の向こうに見えるものは見ないことにしている。塀の向こうは収容所なのだ。庭園は昔からパラダイスの代わりになってきた。それは不快なものの侵入を遮断することで可能になる。パラダイスと地獄、それぞれの住民は交わらないし、でも塀ひとつ隔てて隣り合っている。

庭園にはあるじが選んだ品種しか生育が許されない。「雑草が生えてきて嫌なのよね」と妻はこぼす。雑草は排除される。選んだ品種も、征服地から魅力があると思ったものだけ連れてこられて、そこに生息することを許される。実際に作業するのは地元の(あるいは収容所から連れてこられた)人々なのだ。分かりやすすぎるメタファーだろう。ちなみにドイツでは20世紀前半から自然保護の活動をしている組織や団体が政権をとったナチと近い関係になって活動していたのは有名な話だ(詳しく調査した本もある)。自然保護は排他主義につまみ食いされやすいところがある。

「みどり」は殺伐とした都市ではストレートに人々の快適さに結びつく。割とどこでも「善玉」として扱われがちだ。でも本作では、描かれる人々の、タイトル通りの「関心領域」を空間的にも内容的にも可視化してしまっている罪深い存在がこの庭園なのだ。外からやってきた人の中には「関心領域」の外から否応なく侵入してくる現実を無視し続けられず、耐えられなくなる人もいる。そんなふうにも見られる映画だった。

モデルになった収容所司令官ヘスの自宅はここだ。

 

エクソシスト3作 ヴァチカンのエクソシスト&ザ・ライト&汚れなき祈り

エクソシスト。悪魔祓いをする聖職者のことだ。1973年の大ヒット作品のおかげで東洋の子どもたちにまでこの言葉は知れわたるようになった。突然悪魔祓い関連の3作を一気見したのでご紹介。

🔷ヴァチカンのエクソシスト

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ストーリー:スペインの古城。リノベーションして転売しようとしていたアメリカ人女性は娘と息子を連れてやってくる。その夜息子がおかしくなる。地元の司祭では手に負えず、ヴァチカンから1人の男がスクーターではるばるスペインまでやってくる。彼こそ高名なエクソシスト、アモルト神父だった....

2023年公開。主人公のガブリエーレ・アモルトは2016年に91歳で亡くなった、ローマ教区の司祭、世界的に有名なエクソシストで、国際エクソシスト協会の設立者でもある。ちなみに国際エクソシスト協会は本作に超批判的で、わざわざ公式ウェブサイトで批判コメントを掲載している(追記。と思ったら消えてしまった.....)。とはいえ本作は彼が遺した書籍『エクソシストは語る』を元にしている。

本作、どうみてもシリーズもののヒーロー映画の第一回だ。ラストがバディに向かって「一緒に地獄に行こうぜ!」なんだから。敵は激怒と情欲の魔神、アスモデウスだ。ラッセル・クロウが演じる黒づくめの巨漢ヒーローはヴェスパで軽快に移動する。ホラーとして見ると少々軽い。ホラーに必須の「不吉」「不穏」の引っ張りがほとんどないのだ。悪魔に憑かれる少年は、明らかに不吉な顔立ちであやうい予感を漂わせると、観客がセクシーなお姉さんに気を取られている間にあっという間に悪魔に憑かれて目つきが変わり老人のような声になってしまう。

神父のヒーローといえば『薔薇の名前』。ショーン・コネリーが探偵として修道院の陰謀を解決する。ラッセル・クロウもコネリーと同じように程よく年齢を重ねて滋味を漂わせて、古城の忌まわしい歴史や教会の血なまぐさい過去を悪魔と絡めながら掘り起こしていく。元祖『エクソシスト』へのオマージュもちゃんとあり、娘がクモのように四足歩行するシーンが用意される。

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© 2023 Screen Gems, Inc., 2.0 Entertainment Borrower, LLC and TSG Entertainment II LLC. All Rights Reserved. via Netflix

バトルシーンはかなり派手だけど、エクソシストものの領域にぎりぎり踏みとどまっている。戦いはひたすらに祈りの言葉と十字架で行われるし、教会や信仰の大事さが途中で語られる。神に仕えるヒーローたちにも過去の悔いや罪の意識がバトルの中で前面に出てくる。エクソシスムで常にささやかれる、悪魔憑きは妄想や精神疾患じゃないかという疑念のシーンもちゃんとあって(だから悪魔祓いの規則にもなってるらしい)バランスを取っている。

 


🔷ザ・ライト エクソシストの真実

ストーリー:葬儀社を営む父と2人家族だったマイケル・コヴァックは神学校へ進むが自分の中に信仰心がない。師の勧めでローマのエクソシスト養成講座にゆき、名高いエクソシスト、ルーカス神父につくがエクソシスムには懐疑的だ。1人淡々と悪魔憑きに向かうルーカス神父は....

2011年公開。こちらも実在のアメリカ人神父、コヴァック師の物語。『ヴァチカンの...』に比べるとより実話らしい仕上がりだ。主人公は懐疑派の青年で、自分の信仰心にも疑問を持っている。観客の「どうせインチキ話だろう」という視線を主人公に先取らせているのだ。さらに養成講座に参加している聖職者でもない女性ジャーナリストをヒロインに置いて、彼女もエクソシズムを相対化するポジションだ。

つまり現世側の若い主人公たちがエクソシズムという未知のオカルティックな世界へ足を踏み入れる、冒険ストーリー風になっているのだ。「未知」の側になる異端の神父をアンソニー・ホプキンスが演じる。

主人公は「悪魔憑きは精神疾患」「医療のサポートが必要でしょう」と訴える。それでも現実に目にするあれやこれに....という感じ。ちなみに悪魔憑きの描写は『ヴァチカンの』とだいたい共通だ。目がゾンビ化し、不気味な声になり、皮膚が爬虫類みたいになり、そして面白いのは主人公のメンタルを揺さぶろうと下品な言葉を繰り出す。

本作の悪魔はバール(バエル)ヒキガエルの姿で現れることもあるという。その連想だろう、本作でも悪魔絡みのいろんなシーンでカエルが大量発生する。

 


🔷汚れなき祈り

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ストーリー:ルーマニアの孤児院で一緒だった2人の若い女性。1人は丘の上にある修道院に入り、もう1人は養父母とも馴染めず、ドイツに渡って仕事に就こうとするけれど、親友を求めて帰ってくる。けれど彼女は修道院の独特な習慣や思想になじめずに徐々に精神のバランスを崩していく...

2012年公開のルーマニア映画。本作は実際に2005年にルーマニアであった、若い女性が「悪魔憑き」とされて悪魔祓いの儀式を受けたあげく急死した事件をヒントに作られたフィクションだ。流れで見たけれど、エクソシスムへの興味で見るタイプの映画とはだいぶ違った。身体にもメンタルにも問題を抱えていて、現世の社会での医療というシステムからも見放されてしまった女性。修道院は現世の社会では生きにくい女性たちの避難所でもある。でも正教会という信仰のルールの中で生きなければいけないし、その中心には神父がいる.....そんな話だ。

監督は『4ヶ月、3週と2日』のクリスチャン・ムンジウ。共産主義政権末期のルーマニアで政治の圧力に押しつぶされかけながら生きる2人の女性が主人公だった。寒々しくリアルなルーマニアの女性の姿。本作も主人公は孤児院で一緒だった2人の女性。だけど1人は修道院のルールと神への信仰を選び、2人はもう一体じゃないのだ。

ただ、2人を押しつぶすのは修道院ではない。小さく貧しい修道院も強者の側じゃなく、神父も厳格だけど、できることはとても少ない。暴れる女性を押さえつけて悪魔祓いのために縛り上げるのが、全員女性たちだという描写の哀しみ。

モデルになった事件の舞台はルーマニア東部の山岳地帯、モルダヴィアの田舎らしい。撮影は首都ブカレストから100kmくらいの小さな街、クンピナだ。街を見下ろす草原の丘に、壮麗とはとてもいえない修道院が立っている。ルーマニア東部は木造の教会で有名だけど、本作の修道院は小さな小屋めいた木造建築が集まっているだけだ。そういうものなのか、撮影の都合(撮影用セットだから)なのかはわからない。こんな感じの丘だ。