シスターフッド3/3  ラストナイト・イン・ソーホー

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ストーリー:60’sカルチャーが大好きなエロイーズ(トーマシン・マッケンジー)は念願のアートスクールに合格し、田舎町からファッションデザイナーの夢を抱いてロンドンに来た。ソーホーの古いアパートに引っ越した最初の夜、気がつくと彼女は60年代のソーホーにいた。歌手を夢見る同世代の女の子、サンディ(アニャ・テイラー=ジョイ)に出会う。それは夢だったのだが、段々とエロイーズの意識はサンディに同化し始める。歌手のはずが夜の商売に落とし込まれるサンディの悲痛な日々がエロイーズにも影響しはじめて.....

エドガー・ライトの最新作。シスターフッドを描いたシリーズにくくってしまったけど、本作はちょっと違うでしょう、という人もいそうだ。たしかに前2作とは違って、本作は時代をまたいだスリラーだし、超自然的なあれこれが起こるホラーだし、60年代デザインや街並みを見せる時代ものだ。そのなかで2人のヒロインがおなじ何かとたたかう...的なストーリーだ。

シスターフッドという視点で見ると、『燃える女の肖像』は女性同士の関係を少し抽象的に美しく描くことに集中して、男性をいっさい排した。『ブロークバックマウンテン』の前半を思わせる。『あのこは貴族』は男権的社会=東京に押しつぶされそうになりながら手を取り合って生きる女性を描く。主人公たちをつなぐ存在として結婚相手であり遊び友達である男性が1人いる。本作の場合はもっと加害的な存在としてロンドンのダークサイドを象徴する無数の男性がいて、ヒロイン2人は取り囲まれている。

監督エドガー・ライトはどっちかというと男同士の「幸せな関係」を描いてきた監督だし、前作の『ベイビー・ドライバー』には分かりやすいヒロインがいたけれど、主人公を受容するだけの、つごうがいい存在だった。本作では女性が主人公になり、逆にまともな男性がいなくなってしまった。

60年代のサンディーの周りには彼女を性的に搾取しようとする夜の街の住人だけがいて、現代のエロイーズの前にはいやらしいタクシー運転手や冷たい警官、怪しげな老人しかいない。唯一彼女によりそう同級生男子がいる。でも彼は「男だって悪いヤツだけじゃないんスよ」という言い訳じみた存在に見える。

さて本作はサイコスリラーでもある。ヒロインの精神が異常なのか、ほんとうに異常なことが起こっているのか、周りの人にも観客にもはっきりわからない『ローズマリーの赤ちゃん』タイプや、精神異常の妄想に近い同じポランスキーの『反発』や『テナント』。本作ではヒロインは霊視能力的なものがある設定だから、他人には見えないヤバいものが見えてしまい、恐怖にかられるヒロイン像だ。

最小限ネタバレすると、あるところからアノニマスな英国紳士風の霊が大量にあらわれる。それが何かは本編で見てほしいが、ゾンビめいた存在感だ。これ見ていると、なんとなく監督の「社会の中央にいる男性」的なるものへの嫌悪が根底にあるような気がしてしょうがない。

30代前半で撮った『ショーン・オブ・ザ・デッド』ではゾンビ化した紳士が妙な動きをしていたが、あれは有象無象の中だった。『ホットファズ』は田舎町の既得権益層の老人が実は...という物語で、日本にもある世代間格差への反発なのか、嫌悪感のようなものを感じた。そんな監督自身もいまや50前で、ポジション的にも力がある側だ。それでも女性搾取業界のお得意さんとして醜悪に描かれるのはスーツを着た銀行員風の中高年だ。粗暴で下品な階層とかじゃなくね。

霊がスクエア紳士なのはともかくとして、後半になって出現率があがり、おまけにわりと毎回音もふくめたショッキング演出なのでその部分は少々うんざりしてしまった。終盤に向けての盛り上がりは、ある種のジャンルものへのオマージュで、だから話の着地として理解しやすいけれど、もう少しスマートな締めでもいい気はした。『ベイビー・ドライバー』でもクライマックスでくどいカーチェイスと車同士の力比べみたいなシーンになってげんなりしたのを思い出した。

そうはいってもじっさいのソーホーでロケした60年代の作り込みや、サンディーと鏡像であるエロイーズの表現とか、全体に映像はすごく満足度が高い。撮影監督は『オールドボーイ』『渇き』『お嬢さん』の撮影監督、チャン・ジョンフン。たしかに3作どれもハッとするようなちょっとトリッキーなショットがある。

サンディー役アニャ・テイラー=ジョイは『クイーンズ・ギャンビット』もそうだったけれど、顔が強いので、大袈裟なメイクやヘアスタイルが逆にすごく様になる。アニメ的収まりともいえる。動きはピッタリと決まり、改めて見ると身体もしっかりしていて、過去の日本映画でいえば溝口作品の京マチ子みたいな堂々とした主役感がある。

見た人ならわかる、サンディーとエロイーズがダンスしながら入れ替わるシーンの撮影風景は下の映像の5:25から見られる。

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ちなみにエロイーズが通うファッションスクールは名門University of Arts Londonのカレッジらしい。じっさいにソーホーのすぐ近くだ。

夜のソーホー、残念だけど行ったことがないから雰囲気はよく分からない。下に2021年に撮影した映像がある。「こんな感じなんだ・・・」という以前に、誰もマスクもせず、大量に集まって盛り上がっているのがすごいね。60年代ロンドンの物語で描かれた業種らしい女性は今の映像でも映っている。

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シスターフッド2/3 あのこは貴族

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ストーリー:松濤に住む医師の一族のお嬢様、華子(門脇麦)は27歳。結婚相手を探していた彼女の前に現れたのは彼女より上の階級の御曹司、幸一郎(高良健吾)だった。美紀(水原希子)は富山から上京して大学に入学したが資金難で中退、それでも東京で働いている。美紀は幸一郎と腐れ縁の「都合のいい女」だった。そんな2人が偶然に出会って....

2021年の重要作品の1つ、なんとなく年内に押さえておきたい気がして見た。『クレイジーリッチアジアンズ』を見たとき、リッチなアジア人がシンガポールじゃなく、中国でもなく日本だったら...想像した。家は渋く、誇示するみたいな金の使い方はせず、絶対キャッチーな映画にならないだろう。本作はまさにそんな日本の名門家族を描いた。

アメリカの風刺的な社会エッセイで『Class (階級)』という本があった。階級がない筈のアメリカに「いや普通にあるでしょ、階級」という内容で、上流・中流・労働者階級それぞれを辛辣に描写する。一番派手に、幸せそうに見えるのは上流や上層中流で、最上流は一般社会からは見えない。本作でも自分たちを「映画や小説には出てこない」と語るセリフがある。最上流ではないけれど、そういう人々だ。

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本作のテーマは上流の華子と中流の美紀、2人の出会いのシーンで分かりやすすぎるくらいはっきり語られる。2人を引き合わせた華子の友人逸子(石橋静河)のセリフだ。「日本って女同士を分断する価値観がまかり通っているけど、女同士で叩きあったり自尊心をすり減らす必要ない」 逸子は小学校からの学友でバイオリニストとして自立している、華子のロールモデルみたいな人だ。2人を引合せ、コンセプトを説明する逸子はちょっと物語上の機能的な存在でもある。

本作はすごく淡々と穏やかに進む。ストーリーはシンプルで予想外の出来事もない。小津の映画みたいだ。テンションを上げず、作品中で誰かが声を尖らせることも滅多にない。原作ではヒール指数が高く、ある意味懲らしめられる幸一郎も、高良健吾の善玉感もあってずっとシンパシーが感じられる存在になっている。女性同士だけじゃなくあらゆる分断を強調しないのだ。だから見ていて居心地がいいとも言えるし、人によっては単調に見えるかもしれない。その分、映像の細かいトーンのコントロールや、劇伴でつくるエモーションや、役者の微妙な演技にすごく引き込まれる。

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まず門脇麦。彼女のキャラは年齢より幼い。物語の中で幼い彼女は色々なものを見て学んでいく。場面場面で見る1つ1つに意味があるのだ。動きもセリフも抑制されている中で、見る演技、目の演技でじつに多くのものを語る。いつも抑えめの彼女が、懐いている義理の兄の前でだけくだけた口調でお行儀悪くなるのもすごく可愛く見える。

それから水原希子。『ノルウェイの森』『奥田民生になりたいボーイと・・・』の頃のオブジェ的美女から味を感じさせる存在になっている。ルックス的に強いキャラに見えるけれど、口調もふるまいもすごく柔らかく演じて、控えめお嬢様の華子といても違和感ない。2人は近づくわけでも強く共感するわけでもない。少し理解しあう程度なのだ。そこもファンタジックすぎなくていい。

孤独や無力感や葛藤に押しつぶされそうになる2人を支えるのはそれぞれの友達だ。華子には逸子がいるし、美紀には高校から同じ大学に入った理英(山下リオ)がいて手を引いてくれる。ここも明確なメッセージになっている。山下リオは『あまちゃん』時の長身美女の面影はありつつも、おっかさんめいた包容力を発散しはじめていて、美紀の安心感を観客も共有する。美紀と理英の描写はこれ以上ないくらい「友情」というものの美しさをストレートに描いている。

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本作の冒頭、「2016年元旦」とテロップが出る。時期が明確なのだ。そこから3年くらいの物語の中で、東京都心の風景がなんども映される。ただの背景じゃなく、彼女たちのいる世界として。その東京はつねに工事中だ。監督は「オリンピックに向けて変わっていく東京を映さないわけには行かなかった」と言っている。オリンピックは監督のことばで言えば、「貴族」の側の(つまり支配階級の)おそらく男性原理が強く東京に望んだものだ。

映される東京は、松濤や飲み屋の路地以外、誰でも知っている都心ばかり。皇居前、丸の内、銀座、白金、南青山、表参道、紀尾井町豊洲。それに風景として有明や晴海のオリンピック施設の建設現場だ。そこには『街の上で』で映されたみたいな細やかでさりげない東京はない。東京でなんとかサバイブしている美紀にとっては一貫してよそよそしい場所だろう。東京ローカルの華子にとっても。自分からは見えない「外部」によってひたすら作り変えられていく場所なのだ。思い出のよすがは記憶の中にしかない。東京生まれの人間はたぶん、全員がそう感じている。

■写真は予告編からの引用

 

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シスターフッド 1/3  燃ゆる女の肖像

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ストーリー:18世紀、フランス。画家マリアンヌはブルターニュの孤島の邸宅に、次女エロイーズの肖像画を描くため招かれる。結婚の申し出があったミラノの貴族に送るのだ。気に入られれば成婚だが本人は描かれることを拒否している。母親の指令で身分を隠したマリアンヌはエロイーズと行動を共にして彼女の姿を覚えて肖像画を完成させるのだが....

主人公の画家マリアンヌ。彼女が描く絵は、父親の名前でサロンに出品される。この時代、女性画家じゃ相手にされないからだ。『百日紅』を思い出した。葛飾北斎と娘のお栄だ。お栄は腕のいい絵師だったけれど同じように父親の代筆が多かった。 もう1人の主人公エロイーズは貴族の娘。お姉さんは結婚を強制されて、絶望して崖から身を投げた。彼女にも誰かも知らない相手から求婚がくる。

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本作はそんな2人が巡り合って、愛し合って、作品を作り上げるまでの2週間くらいを描く。絵が完成してしまえば、2人とも外界の現実に絡め取られる。そのひとときを、監督はこれ以上ないくらい繊細に、ノイズを取り去って、満ち足りた瞬間として描く。

屋敷には女主人である母親と娘のエロイーズ、使用人のソフィー、それにマリアンヌの4人しかいない。母親が出かけると同年代の3人の世界になる。島の住民たちも出てくるのは女性だけだ。お話をあえて抽象化して、彼女たちの関係に集中したのだ。『桜の園』を思い出すね。

映像はときどき実写と思えないくらい絵画に寄せている。海辺の風景はクールベやフリードリヒの絵を思い出すし、屋敷のシーン、外光に照らされるソフィーの姿はフェルメールの女性像、夜、ろうそくや暖炉の火に照らされて顔が浮かび上がる絵はレンブラントの夜の風景みたい。美術史に詳しい人ならもっとぴったりくる絵が思い浮かぶだろう。海辺の草原で女性3人が歩くシーンとか、火の周りで島民の女性たちが歌うシーンとか、完全に絵画として構図を作っている。

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https://cdn.mediatheque.epmoo.fr/link/aah189jpz17a340.jpgwww.musee-orsay.fr.     クールベの風景画。

そんな映像にするために、撮影ではあえて立体感を抑え目にしたり、暗い部分が潰れないように階調を残したり、たぶん海の色を少し鮮やかに調整したり、とにかく丁寧に作り込んだ絵だ。3人の女性はマリアンヌが赤、エロイーズが青、ソフィーが黄、と分かりやすくカラーも配分されている。たいがいの「映像が美しい」映画とは別種の、ほかにない美しさだ。

ただ、マリアンヌが描く肝心の絵が下手だという突っ込みを時々見かける。本作、現代の画家が映像の中でその絵を描いている。手元は彼女だ。画家は重要なキャストでもあるのだ。2枚描かれる1枚は物語的にも失敗作だから明らかに冴えない。もう1枚は成功作だ。でも確かに技巧的じゃない。18世紀フランスの肖像画、って多分こんな雰囲気だった。

映画内の絵は、古典的な絵の教育を受けた画家にしては、わりと大掴みのタッチで光と色を追求するタイプだ。この時代の絵は写真の機能も果たしているわけで、それこそ本作では見合い写真がわりなんだから、繊細な写実で描いてもおかしくない。

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でも現代のペインターだしね。現代美術でペインティングをする人は、よっぽどコンセプトがないと、古典主義的な繊細なグラデーションの写実は描かないだろう。インスタグラムに作家のアカウントがある。いわゆる写実の人じゃない。絵としての再現度より制作の息づかいが捉えられるところを重視したのかもしれない。

音楽は抑え目だ。効果音はその場で録音したんだろうか、後からつけた効果音みたいにクリアーすぎず、空間の残響がある。音楽のリズムに映像が乗っかるんじゃなく、俳優の動きやシーンの移り変わりのリズムが音楽になるように撮ったんだと監督は言っている。音楽の1つは当時歌われていたはずのない無伴奏の女性コーラス。

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本作はギリシア神話オルフェウスのエピソードが大事なモチーフの1つになっている。オルフェウスは超絶的な歌唱力がある歌い手。妻が死に冥府に落ちると、彼はその歌唱力を武器に妻を現世に連れ戻す許しを勝ち取る。でも現世まであと一歩のところで掟を破って妻を振り返ったせいで彼女は冥府に引き戻されてしまうのだ。

このエピソードは劇中で語られるし、「振り返り」は呼応する形で2回出てくる。最初、エロイーズはマリアンヌの足音を感じると振り返りもせずに館から外に出る。慌ててマリアンヌは追いかける。それが出会いだ。最後は逆になる。マリアンヌが館を出る時、エロイーズは「振り返って!」と叫ぶのだ。「最後に私を見て!」でもあるし、神話どおりなら「私をきっちりと振り切って(思い出に焼き付けて)!」でもある。実にいい古典の使い方だ。

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4人の女優はどれも魅力的。主演の2人はどちらも背が高く、意思の強そうな顔立ちだ。「NANA」じゃないけれどこういうドラマだとどちらかをふわふわした柔らかいキャラクターにしてコントラストをつけがちだ。でも違う。この辺りは監督の思いだろう。エロイーズ役アデル・エネルは監督が彼女想定でキャラクター造形しているし、マリアンヌ役のノエミ・メルランもアデルに対峙できる強さのある役者を選んでいる。

ただエロイーズの役は、意思は強くて聡明だけど、圧倒的に世間を知らず、男性経験もない純粋な女性だ。お話上は10代でもいいくらいだ。アデルはずっと成熟して見える。マリアンヌよりも。ストーリーからするとちょっと合ってない気がした。でもそういんじゃないんだろうな。あくまで、対等な2人を描こうとしたんだろう。

ロケ地はナントに近い半島だ。舞台になったお城はパリの近くに17世紀の城。意外なくらいに室内が明るい。大きな窓も付いているし、改装したんだろうね。本作で名所化し、空き家だったのが公開されることになったみたいだ。

us.france.fr

■写真は予告編からの引用

 

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サマー・オブ・ソウル(あるいは、革命がテレビ放映されなかった時)

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1969年、マンハッタン、ハーレム。公園の特設ステージで6日間開催された屋外ライブフェスティバルの映像記録だ。トニー・ローレンスという人物がプロデュース、NY市長の協力をえて実現した無料のサマーフェス。そんなに広いわけじゃない街中の公園には毎回5万人くらいが集まったという。フェスティバルのプログラムはこんな感じ。午後の明るい時間だけやっていたから各回2~3時間くらいだったんだろう。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/3f/Black_Woodstock_1969.jpg

出典:wikipedia

記録班もいた。47時間の映像と音声の記録。でもそれはまともに公開されず、人々の記憶も薄れて、見に行った人の中には「あれは本当にあったことだったのか・・・?」くらいの人も出てくるくらい、幻になった。それをプロデューサーがあらためて発掘、ドキュメンタリー映画にまとめたのが本作だ。

監督クエストラブはミュージシャン。ヒップホップを生音演奏でやるThe Rootsのドラマーだ。最近はオバマと近い関係で、一種のオピニオンリーダーでもあったみたいだ。インタビューを見るとこの映画がどんな考えでこういうふうに作られたかよくわかる。「黒人文化の出来事はしばしばなかったことにされる(だからこの映画は公開されなくちゃいけない)」「当時も50年後の自分たちの環境も同じだ、だから背景もちゃんと見せる」ということ。

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本作のメインはもちろんステージの映像だ。クラシックソウルやモータウンのスターのライブがばんばん見られる。ひねらずに代表曲を選んでいて、名前は知らない人でも聴いたことあるメロディーは多いはずだ。音声はすごくいいし、カメラも多くて全景もアップもステージ側からもあって、ライブ映像として文句なしだ。

そして出演者や観客の回想インタビュー。観客は当時高校生だったり親に連れられてきた子供だった人。近所の人が多いから休日に歩いてやってくる。ミュージシャンたちにとっては忘れられないステージだったことがよくわかる。あの頃の映像を見て感極まる人も結構いる。それに当時のニュース映像や記録映像を挟み込む。

1969年。当ブログで取り上げた作品だと、1964年が舞台、翌年暗殺されるマルコムXが主役の『あの夜、マイアミで』、1967年の暴動『デトロイト』、ブラックパンサーのメンバーが出てくる1968年舞台の『シカゴ7裁判』、こういう時代だ。希望の星だったキング牧師暗殺は1968年。ハーレムでも暴動があり、黒人たちはプロテストに立ち上がっていた。クエストラブも言っているけど、フェスティバルはいわゆる「ガス抜き」でもあったんだろう。音楽的にいえば、1960年代モータウンを描いた『メイキング・オブ・モータウン』約10年後のヒップホップ誕生を描いたのが『ワイルド・スタイル』だ。

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構成は上手くできてる。前半はハッピーな感じでポップなミュージシャンを見せて、ライブシーンとミュージシャンたちの背景を語る映像が多い。プロデューサーのトニーも裏方じゃなく出たがりで、毎回ド派手な衣装を変えてきてステージMCを務める。次にゴスペルを見せる。この圧がすごい。音楽がどれだけ人々のこころに必要なものなのか、なんか簡単に真似しちゃいけないものに見える。そしてスライ&ファミリーストーンを新世代として見せて(なぜかプログラムにないけど)、キューバ&ラテンのミュージシャンのステージ。個人的にはここはすごく好きだ。彼らもハーレムの住人なのだ。そしてプロテストソングを歌い上げるニーナ・シモン。大きくはプログラム通りだけど、ストーリーになってる。

そんな中で段々とブラックミュージックがいかに彼らの圧迫された日々の解放だったり救いだったりか語られはじめ、後半はアメリカ中の抗議活動や彼らへの暴力・暗殺のシーンがカットバックでライブシーンに挟まれて、シリアスになってくる。それが苦手な人もいるだろう。その語り口に「一面的すぎ」と突っ込む人もいるかもしれない。でも作り手は単なるライブ映画にするわけには行かなかったんだろう。

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これが舞台になった公園、Marcus Garvey Parkだ。公園の真ん中は岩山になっている。マンハッタンて平らなイメージがあるけど、結構な高さの山だ。新宿の公園にある箱根山みたいだ。超余談だけどマンハッタンはがっちりした岩盤で出来ていて、所々岩が突き出しているのだ。セントラルパークにもある。とにかく岩山をバックに観客たちがステージを見てるから、公園の半分くらいしか使っていないはず。そんなに広くないところに5万人だ。

じつは本作で一番心を引きつけられたのが観客たちだ。ライブシーンでもステージに応えるみたいに観客を映す。ポップスターにはきゃあきゃあいう若い子、ゴスペルでは高揚する人たち、サイケなバンドにはちょっと洒落た客たち。でも大部分は割とさっぱりした身なりで子供たちも多い。そしてすごくピースフルな空気感だ。

さっき書いたみたいに騒然として社会的緊張も高い時期だ。主催者は警察を招き、ブラックパンサーを警備にやとう。ステージ側が煽れば客が一気に荒れてもおかしくない。それがなくても同じ年のウッドストックではスモーキーなかおりが広場いっぱいに漂って観客もハイになっていた。薬物の普及ぶりはハーレムだって負けないはずだ。

でも映される観客席は、夏の日差しを浴びて、盛り上がっているけど穏やかだ。親も親戚も近所のおばちゃんも来る近所の公園のお祭りだから、割とそうなのかもしれない。あるいはこれも作り手たちの意図した切り取りかもしれない。もしそうだとしても.....本作はやっぱりニュートラルな記録映画じゃないのだ。明確な目的とメッセージを持って作られた作品だ。それを思うと観客たちをそう描いたとしても理解できる気がした。

 

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WW2 戦車戦2本 その2  フューリー

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ストーリー:1945年4月、ドイツ戦線。戦争終結まであと1ヶ月でもドイツ軍の抵抗は激しかった。「フューリー」と名付けたM4戦車の戦車長ドン’ウォーダディ’コリアー軍曹(ブラッド・ピット)。部下の乗員たちと戦線を生き延びてきた。欠員の補充として初年兵のノーマンが乗り込む。戦場に抵抗があるノーマンを鍛えながら、ウォーダディと4人のチームは強敵ティーガー戦車や親衛隊との戦いに向かう...

戦車映画つながりのつもりで見始めたら違ってた。戦争映画だったのだ。『T-34』で描かれなかった全てが前面に出ている。まず極端に画面に映る死体が多い。戦場に放置され、輸送車に山積みにされ、重機で穴に放り込まれ、ぬかるみに倒れて泥にまじって戦車に踏まれる。抵抗戦に参加しないドイツ人は親衛隊に町中に吊るされる。戦闘による体の損壊もいたるところで映る。戦争を熱いゲーム的には見させない。『プライベート・ライアン』型とも言える。戦闘シーンもつねに生身の兵士がいるし、市街戦では市民が巻き添えになる。

監督デヴィッド・エアー作品は『エンド・オブ・ウォッチ』だけ見てる。すごく共通するところはあった。LAの凶悪エリアを巡回する警官コンビを描いた『エンド』も死の危険がある任務で家族を超えて結束するチームを描いた。本作も語っているのはそこだ。軍人家族で自分も軍務経験があるエアーは命の危険を負って社会を守る人々にすごく敬意を払う。

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戦車兵チームにいつも聖書の言葉をいい、お祈りを欠かさない’バイブル’(シャイア・ラブーフ)がいる。そのほかにも聖書めいたイメージが何度も出てくるし、ロマン主義の絵画みたいなドラマチックかつ品のある撮り方が多くて、それこそFURYという言葉どおり、神の怒りのように敵を殲滅する戦車兵たちは崇高な存在に見えてくる。クライマックスでは自分たちを聖書の一節にある犠牲者にかさねて見せるくらいだ。

でも美しいだけのヒーローには描かない。ウォーダディはナチへの憎悪に取りつかれて野蛮な兵士になることもある。街を占領すると兵士たちは欲望むき出しになる。ウォーダディは未経験の初年兵ノーマンにいろんなイニシエーションを与えて急速に「男」に仕上げていく。完全に父と子の姿だ。もちろん清く正しい男じゃない。この辺り、物語的にはすごく短い間のはずだけど感覚的にはそこそこの時間が経過している描き方だ。全体にそんな感じで『T-34」みたいにシンプルに片方のチームを応援して試合を見るような映画じゃない。

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いっとき平和な時間、ウォーダディがノーマンのようすを横目で見ながら含みのある表情をしたりしているシーンがすごくいい。タフな父が息子を見るとしたら正面から覗き込む感じだろう。あんまり横目で相手を見たりしない。そこにふつうの父感もあるのだ。ピットの厳父役といえば『ツリー・オブ・ライフ』の父親があった。本作は軍人だからもっと荒々しいが、父としての優しさや柔らかさはむしろあるかもしれない。

本作は主演のブラッド・ピットにかなりの部分負っている。ピットは例によってプロデュースにも参加している。佇まいや時々見せるなんともいえない表情、やっぱり目をひく。でもなんとか言ってもウォーダディは正しいヒーローなのだ。最後まで美しい。戦場のベテラン(食糧事情だってそんなに良くないはず)の割にマッチョすぎるのも微妙だ。

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ひょっとするとそのせいで時々バトルシーンが少し嘘くさくなってしまったかもしれない。特に見せ場の戦車vs戦車バトルと戦車1台vs親衛隊300人バトルには、ミリタリーファンたちの激烈な怒り、文字通りフューリーが巻き起こってしまったらしい。色んなレビューを見ても、ドイツ軍対戦車戦術のエキスパートの皆様による罵倒の声が乱舞している。

「本物のティーガー戦車・M4戦車登場! リサーチに基づくリアルな戦闘シーン!」的打ち出しはあったしなあ。野球映画の試合シーン、バンド映画の演奏シーンに「これはないわ・・・」というのがあったら野球や音楽ファンは許せないだろう。確かに親衛隊バトルではウォーダディが若干ランボー化して無双かつ不死身感さえ滲み出るようになるあたり、見せ場なのは分かるけどどうだかな、という感じはしてしまった。ただ、機銃弾が光線みたいに見えるのは史実どおりで射手が弾道を見られるように閃光弾が入ってるらしい。セリフでもそんなことを言っていた。

というわけで若干どっちつかずの感慨が残って荘重な音楽とともにクレジットロールになった。でもなにか反芻したくなるものは残るね。ロケ地はイギリス国内。映画で使った実物ティーガーが英国内の博物館収蔵品なのも関係あるのかも。

■写真は予告編からの引用

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