ザ・ボーイズ(シーズン1、2)

 

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ストーリー:巨大企業ヴォート社。業務はスーパーヒーローのマネジメントだ。ヒーローたちは超人的な力を持ち、犯罪者や敵国軍と戦ったり、災害救助に駆けつける。その頂点がセブンと呼ばれる7人だ。リーダーは、スーパーマン然とした最強のヒーロー、ホームランダー。しかしその裏ではかれらの活動の犠牲になる人々がいた。その1人、ヒューイは目の前で恋人を殺され、おなじくヒーローに敵愾心をもやすブッチャーが率いる反ヴォートの組織〈ボーイズ〉に加わる・・・

amazon primeのコミック原作の配信ドラマだ。2018年にシーズン1:8話、2020年にシーズン2:8話が公開。原作がこちら。こっちでなぜか全部よめる。読んでないけれど。...コミックでは、ボーイズの中の「ふつうの人」枠ヒューイがサイモン・ペッグの顔だ。実物のペッグは役柄より歳上すぎるのでドラマでは父親役になった。映像版のヒューイは雰囲気は若い頃のトム・ハンクスだ。

本作の構造はシンプルだ。悪の組織がある。わかりやすく資本主義の権化で、ひとびとがイメージする「悪の大企業」そのものだ。その犠牲になり、復讐する無力な一般市民(じっさいには結構違うけど)がいる。圧倒的な力の差があるし、直接に対決すると痛い目にあうけれど、ときには痛打を浴びせる。いろいろあってもチームは団結してるし、全員いいヤツだ。

その構造のなかに、今のアメリカ社会のアナロジーをちりばめて現代性を出し、複雑さもあたえている。じつは複雑なのは大企業ヴォートとヒーローたちの方で、彼らの方がずっと重層的な存在になっている。表では正義のヒーローを演じながら、自国第一主義、冷酷でエゴイスティックでありつつ、母の愛をいつも追い求め、でも愛を知らないから決して得られない...ホームランダーがその代表だ。

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とはいえ本作のヒーローはボーイズのリーダー、ブッチャーだ。組織に妻を奪われ復讐のために活動し続けている彼は、暴力的でモラルはないように見える。敵を殺すことにためらいがない。仲間にも乱暴だし言葉も汚い。でも本当の危機では決して仲間を見捨てないし、話が進むにつれてだんだんと人間性が描かれはじめる。無理矢理こじつけると、本作そのものがブッチャー的なのだ。

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本作、各回の最初にグラフィックなシーンやセリフがありますよ、と警告が出る。配信ドラマならではのゴア描写だ。赤く破裂する人体はもはやポップなまでに頻出し、それ以外の人体破壊シーンも毎回ある。ヒーロー=特殊能力をもった人々は簡単に敵の一般人を破壊する。わざと良識をさかなでするような悪趣味なシーンも満載だ。そんなルックの中で、国家と結託したビジネスが暴力を独占することや、性差別や人種差別やエンタメ業界の欺瞞や…への抵抗をストレートに描くのだ。

悪趣味や暴力性と正義感の同居。エピソードはそれなりにシニカルだけど、全体のストーリーはわりとまっすぐだ。本作のショーランナー(プロデューサー・脚本・監督を兼ねたような全体のリーダー)のエリック・クリプキが語る、ドラマと同時に配信されてるスタッフやキャストのインタビュー番組では、放送でありえないような汚い言葉を連発し(番組自体がそうなんだけど)、同時にストレートな反トランプのコメントや良識的なコメントもしている。

配信ドラマだとゴアと並んでセクシー描写もアリだけど、本作ははるかに抑えめ。『ゲームオブスローンズ(GOT)』の方がぜんぜん見せている。原作コミックはセクシー描写がずっと露骨らしい。ドラマ制作者は意識して映像としては見せないようにした。そして『GOT』でもそうだったみたいに、女性キャラで男性キャラと同じような戦いのシーンと強さを見せるようにしてバランスを少しよくした。このへんは最近のメジャーな映画のトレンドそのままだ。

シーズン2終盤の見せ場は悪役ヒロインと善玉ヒロインのバトルシーン。ここは少々笑える演出になっていて、セクハラ問題でちょっと危うくなった、でも強い女性が大好きなタランティーノの『デス・プルーフ』の集団リベンジシーン、さらにその元ネタの『ファスタープッシーキャット』へのオマージュっぽい。悪役ヒロインはレイシズムを戯画化したみたいなキャラで、「いつまでも安心して叩けるみんなの敵」ナチのエッセンスをまぶしてある。それを演じるのがユダヤ人女優というのも狙いすましてる。

見てる側からすると、そういったバランスで良識っぽさが漂って本作ならではのえぐみが薄れるようなことはなかった。性差別や性暴力の問題はむしろ正面からストーリーに組み込まれていくし、人種の問題はシーズン2でハイライトされ、テンションを上げたところできっちりと落とし前がつけられる。

まあ、通して見ていると、ヴォート社は巨大組織で情報網もあって,超人が何人もいるわりに、一般人のボーイズたちや内部の反乱者にわりに好き勝手やられて、うごきも隠れ家も把握しきれてないあたりが独特のゆるさにつながってる部分もある。でもこれがガチガチにされて動きがとれなかったらそもそもエンタメとして面白くないし、そこはいいのだ。悪趣味だし、基本的には「全員(わりと)悪人」モノだけど、善悪の境界がゆらぐ居心地悪い物語じゃなく、わりと爽快に楽しめるドラマだ。

 

 

シリアスマン

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ストーリー:  1960年代、ミネソタ。ラリー は大学の理論物理の教授、しきたりを守るユダヤ人だ。ある日、唐突に妻が離婚を切り出した。しかも知り合いの年上の男と付き合っていたのだ。なぜかラリーは家を追い出され近所の安モーテルで暮らすことになる。トラブルはそれだけじゃなかった。大学で、自宅で、次々に頭の痛い出来事が降りかかる。ラリーはたまらず3人のラビに相談に行く。そんな中、13歳の息子ダニーにユダヤの成人式〈バル・ミツワー〉が迫っていた...

コーエン兄弟、2009年の作品。地味といえば地味な映画だ。カーリーヘアにメガネの主人公が右往左往する感じは、たとえば過去作『バートン・フィンク』でもおなじみだ。でもバートン・フィンクみたいなカタストロフは起こらない。風景はコーエン兄弟の少年時代、かれらが育ったミネソタユダヤコミュニティのものだ。お兄さんのイーサンはちょうど本作の息子ダニーと同じ歳。コーエン兄弟のお父さんも大学教授だった。

ダニーの学校では老教師がヘブライ語で授業する。成人式のためにユダヤ教の聖書の勉強もしている。でもかれは授業中にもラジオでサイケデリックロックを聴き、近所のおっさんからマリファナを買う。例によって庭の芝生は青々と広がって、当時の中流・インテリ層アメリカ人のゆったりした郊外ライフだ。

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そんなゆったりしたラリーの日常にある日とつぜん災難の連打があびせられる。離婚の危機、家からの追放、訴訟騒ぎ、兄の逮捕、不吉な隣人トラブル…一寸先は闇だ。それは彼が大学で講義する「シュレジンガーの猫」そのものだ。世界には、われわれが原理的に知りようがないことがあるのだ。

本作、旧約聖書の『ヨブ記』がベースだとよく言われる。正確な解説は他サイトにお任せするけれど、サタンにそそのかされた神の試練によって次々に災難におそわれる男の話だ。男は信仰を曲げないけれど「お前に原因がある」という3人の友人との論争になる。最後は嵐の中神が現れて神の絶対性を告げ、ヨブを叱責する。

ひたすら災難にあう主人公、3人のラビとの対話、ラストに現れる嵐の気配...たしかにモチーフ的には十分近い。コーエン兄弟はインタビューで「考えたこともなかったな」「小市民のジョークだ」とか言っている。これをまに受けていいのかはともかく、描き方はむしろ他の作品より神話性や主人公の偶像性が抑えられている気もする。

ノーカントリー』のシュガーの超然とした悪役ぶりや、『インサイド ルーウィン・デーヴィス 』の冥府巡りめいたライブツアー、『トゥルーグリット』の妙に象徴的な後半のシーン...本作は何かのシンボリズムを込めるにしても、日常の描写のルックからはずれて必要以上に意味ありげな光景を見せたりしない。屋根の上から隣の奥さんのヌードを盗み見るみたいな描写だ。そう、本作はちょっとシュールな日常系コメディだ。

主人公が災難に合うのも、ある種のコメディの王道展開だ。かれの周りにあらわれる人々はみんな真面目くさった顔で要求を言い立てる。そのどれもが確実に主人公に不利益をもたらす。たまりかねた主人公が相談に行く3人のラビは、まるでありがたみがない話を延々と聞かせる。ユダヤコミュニティの精神的指導者、地元のお坊さんのように正しき生き方を説くはずのかれらがこれなのだ。

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前半でラリーは病院に検査に行く。でも彼の心配をよそに体はどこも悪くない。このあたりも含めて、やっぱりウディ・アレンが思い浮かぶ。神経質で落ち着きのない、メガネで非マッチョの、さえない、それでいてスケベな主人公。人物としてはよく似てる。

そんな本作、画面は素敵だ。色彩は階調がゆたかで、全体にオーカー系に振ってるんだろうか、落ち着きがあって黒味がしっとりしている。ロングショットでとらえるミネソタ郊外の街もなんとも美しい。さっきも書いたみたいに、象徴的だったり神秘的ともいえる非日常的なシーンはほとんどなくて、日常的な風景をひたすらに美しく撮る。撮影監督は長年コーエン作品を撮っている巨匠ロジャー・ディーキンスだ。コーエン兄弟の作品のなんともいえない品の良さはけっこうな部分、ディーキンスの画面によってると思う、絶対に。

ささくれた映像で撮ったら『ノーカントリー』のシュガーだってたぶんただのサイコな殺人者にしか見えない。チープに撮ったら『ビッグ・リボウスキ』だって小汚い中年男たちにしか見えない。軽いライティングで撮ったら、本作だってもっと薄っぺらいドラマに見えてしまうかもしれない。そういうこと。…撮影地はほとんどミネアポリス。かれらのささやかな家はこの辺だ。

■写真は予告編からの引用

 

 

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ザ・ビーチ

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<予告編>

ストーリー:日常から離れた冒険にあこがれて1人でタイにやってきたリチャード(レオナルド・ディカプリオ)。安宿でであった男に1枚の地図を渡される。秘密の島にある楽園、ザ・ビーチだ。翌朝男は死んでいた。フランス人カップルを誘ってザ・ビーチを探しに行くリチャード。列車でリゾート地へ、船で近くへ、泳いで島へ、そして熱帯雨林を抜けると…そこには信じられないくらい美しい入江と、ツーリストたちのコミュニティがあった。楽園みたいなその場所で暮らしはじめた3人だったが....

ダニー・ボイル監督、2000年公開。ボイルと恊働が多いアレックス・ガーランドのベストセラーの映画化だ。ボイルにとっても『トレインスポッティング』の勢いで、しかもディカプリオ主演、わりと予算もかかった企画だったが、アメリカでは制作費も回収できなかった(とはいっても全世界ではそこそこに稼いでいる)。

しかも本企画、もとは『トレイン』の主演、ユアン・マグレガー主演で進んでいたのが、とちゅうでディカプリオにすりかわり、おかげでユアンと監督はしばらく絶縁状態になっていたというエピソード付きだ。公開20年目に見たぼくの感想は、まずは

「やっぱディカプリオじゃない方がよかったね」。

もちろんディカプリオ主演だからの予算規模だろうし、メジャー公開だろう。でも本作の主人公は、ほんとうはもう少し内省的で引いた視線の観察者タイプなんじゃないだろうか。ディカプリオ主演になったことで、主人公はわりとイケイケの、いろんな女性にもてる、自然に場の主役になるキャラになってしまった。たぶんそのせいで話はよりおバカになった。後半「闇」描写があるけど、そこもとってつけた感がぬぐえず、全体に「いい気なもんだぜ」という視線になってしまい、共感できないのだ。

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本作はインド〜東南アジアにくる欧米系バックパッカーの世界だ。かれらはエキゾチシズムと、本国じゃできない無茶と、出会いと、スモーキーな香りをもとめてやってくる。元は1960年代のヒッピー文化にルーツをもち、スピリチュアリズムへのあこがれも込みだった。だからそういうエリアはヴィーガン向けレストランがちゃんとあったりもする。本作はそんな旅人たちがタイの孤島につくりあげただれもしらない楽園のお話なのだ。

ヒッピーたちは文明社会からドロップアウトして共同体=コミューンを作って暮らした。これはそれのリゾート版だ。ちなみにヒッピー的コミューンは屋久島にあったし、長野県のさる秘境系の村の山腹にはいまでもあると聞くし、前にすんでいた葉山にもその香りがする人々がいた。本作、あるだいじな場面でボブ・マーリイの『リデンプション・ソング』が流れるシーンがある。葉山でもここぞというところで聴いたことある。

コミューンは栽培してる野菜と、目の前の海でとった魚で自給自足している。大麻も栽培していて、ときどき本土に売りにいって生活必需品を買ってくる、そんな設定だ。家は木材とヤシの葉でつくった大きな小屋風で、水は清流が近くを流れている。

本作は、そんな一見ピースフルなコミューンも、その楽園性という虚構のうらで、秩序の維持のための専制的・暴力的なうごめきがあって...というふうに展開していく。ちょっと、南の島の楽園に漂流した少年たちの物語風でもある。『蠅の王』みたいなやつだ。

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そんな舞台で冒険あり、恋あり、サスペンスありの活劇風の本作だけど、ディカプリオ問題を別にしても、ちょっと突っ込みどころが多過ぎて没入しきれなかったのは事実だ。ひとことでいって小ぎれいに仕上げ過ぎなのだ。そもそも孤島に上陸するのに2kmくらい男女3人で楽々と泳いでいくのがフィジカルエリートすぎる。とんでもない軽装で密林を軽々と抜けて、到達したコミューンは完全なリゾート。白い砂の上にハイビスカス的な花が咲き、ヤシがトロピカル感を高める。

しかも物資もないはずなのに男女ともこざっぱりとしている。女性の髪はさらさらでナチュラルメイクは乱れず、男は無精髭もなくシャツも汗ばんでない。後半、主人公はそのコミューンからも少し離れて森の中にひそむのだが、そこでも飢えたようすもなく小ぎれいだ。あと、コミューンにつきもののSEX描写はまったくない。主人公だけがヒロインその他とロマンチックに愛し合うだけで、まわりにはその空気感もないのだ。いやなにもどろどろに薄汚く描けとはいいませんけど。さすがにこれだと自給自足のコミューン描写もリアルじゃない気がする。

ちなみに後半、主人公がダークサイドに落ちるシーンの意味不明さも特筆ものだ。

 

というわけで映画そのものはそんな感じなんだけど、実は撮影時に、さっき書いたみたいに南国リゾート感ある場所にするために、舞台になったプーケット近くのピピ島のビーチをならしてしまい、在来の植生とちがうヤシだの花木だのを植え付けて環境を撹乱していたらしい。しかもビーチは、その後大観光名所になり、おかげで環境が荒れ果てて、とうとう無期限立ち入り禁止になってしまった。

この感じ。環境は観光用にも「消費」される。そんな物語外の「どうなのよ」も込みの1作だ。

■写真は予告編からの引用

 

 ■原作アレックス・ガーランド監督作

■タイを舞台に...

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聖なる鹿殺し(ヨルゴス・ランティモス その3)

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<公式>

ストーリー:ティーブン(コリン・ファレル)は心臓外科医。妻アナ(ニコール・キッドマン)も開業医、娘キム、息子のボブのリッチな4人家族だ。スティーブンは少年マーティン(バリー・コーガン)と時々家の外で会っている。食事をごちそうし、高価な時計をプレゼントする。彼はスティーブンが執刀した手術で亡くなった患者の息子だったのだ。マーティンは家に招かれ、急速に距離を詰めてくる。ある日、不意にボブに異変が起こる。足が麻痺して立てなくなったのだ…

ランティモス、2017年の作品。なんでしょうね、違和感というか不気味さというかすっきりしなさというか、3本のなかでもきわだっている。どうじに映像のスタイリッシュさもさらに上がっている。物語は「家族と侵略者」モノともいえる。平和にくらしていた家族に不気味な異物がじょじょに入り込む。例がふるいけどスコセッシの『ケープ・フィアー』なんか典型的だし、『家族ゲーム』『淵に立つ』もその構造だ。

本作での異物は少年マーティンだ。最初は、可哀想かつイノセントな雰囲気が前面に出ている。主人公スティーブンがこっそり家の外であったり、優しくするから、別れた前妻との息子かと思ったくらいだ。でも同時に最初からえも言われぬ違和感もにじみだしている。バリー・コーガンアイリッシュだけど、どこかアジアかスラブの血がまじっているような目が小さい顔立ちで、感情が読みにくいキャラクターになり切っている。だから、主人公がかれを家に招く時点で、観客はなんとなくその選択はやばいんじゃないかとそわそわする。

マーティンは妙な社交性で子供たちの心をつかんでしまう。「家族と侵略者」モノの序盤にわりとある展開だ。家族にしっかりと入り込んだマーティンは急に距離を詰めてくる。しょっちゅう職場の病院にあらわれ、主人公を家に招き未亡人の母と接近させようとし、別の夜には主人公の家の前にこっそりあらわれ...

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そして物語は本題に入る。ボブが、そのあとキムが立てなくなってしまうのだ。食事も取らない。病院でどんな検査をしてもわからない。その意味をスティーブに告げるのがほかでもないマーティンだ。「あなたはぼくの父親を殺した。だからあなたも家族を失うんだ。歩けなくなり、ものを食べなくなり、目から血を流して、そして...」 サイコスリラー的な違和感をにじませていた少年はとつぜん超自然的な力をもったヒールになる。少年は1つのルールを告げる。主人公が1人を選んで命をうばわないと全員が死ぬのだ。

で、ランティモスのいつも通り、ルールのメカニズムや少年の力についてはいっさい説明されない。物語はとつぜん家族に降って来たルールの前で家族たちがどうふるまうのか、という話に変わる。家族のうちだれなら失ってもいいのか、という選択が課せられるのだ。

本作は、ふつうに見れば主人公が犯した罪(手術で人を死なせた)と報復、あるいは代償の物語だ。タイトルがギリシャ神話ベースなのも分かりやすい。だけど、復讐者であるはずのマーティンは、この災厄をおこすために何かをするシーンはなくて、ただそれを「知っていた」預言者めいた存在に取れなくもないのだ。ルールを告げてからはむしろ最初の不気味さが減り、何をするでもなく、超然とした傍観者になっていく。

もちろん、かれは一貫して家族に災厄をもたらす存在に見える。アナの前でスパゲッティをじつにいやな感じで食べるシーンがある。スパゲッティといえば『カリオストロの城』では命が復活する食べ物、『アデル、ブルーは熱い色』では主人公の生まれ育ちのしがらみのシンボルみたいだった。本作ではわざわざそのシーンと心理操作めいたセリフを入れて嫌悪感をかきたてる。

でも、かれは自分に好意をもってる美少女キムにはまるでジェントルなのだ。「家族と侵入者」モノでいえば、とうぜん子供に魔の手が伸びる展開は、いちばんぞわぞわする部分だ。まして娘ともなると…でも本作ではそこを広げない。というか、ジェントルさを強調しているくらいだ。ある意味かれはフェアなのだ。

むしろだんだんと怪物的になっていくのは主人公スティーブンだ。善良な被害者のはずの彼の罪があばかれ、暴力的な父権性が(『籠の中の乙女』につうじる)あらわになり、だんだんとクレイジーになってくる。物語は復讐とか家族と敵の対決というより、罪をおかした人々が、それをあがなうために別のいろいろな罪をおかさなければいけない、そんな世界の話に見えてくる。

ロケ地はシンシナティ。主人公がつとめ、子供たちが入院する病院はここだ。病院らしい長い廊下がなんどもシンメトリックに撮られ、エスカレーター下の吹き抜けを生かしたはっとするシーンもある。サウンドでは不吉さを強調しているけれど、いつもながら撮影は端正でスタイリッシュ。街のおちついた風景そのままの雰囲気だ。

■写真は予告編からの引用

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籠の中の乙女(ヨルゴス・ランティモス その2)

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<公式>

ストーリーアテネ郊外の広大な家。広々とした芝生と深いプールがあり、トロピカルな植物に囲まれて、室内は清潔な白いインテリア。両親と20歳くらいの息子・2人姉妹の5人家族だ。父は古いベンツで工場に仕事に行く。子供はいつも家にいる。学校にも通わないし遊びにも行かない。この家では子供たちは外の世界をまったく知らないのだ...

監督のいわゆる「世界進出」のきっかけだろう。2009年公開、カンヌ映画祭の「ある視点」賞を受賞した。この賞らしい、じつに変わった映画だ。前回の『ロブスター』と似た、ある思考実験ぽい設定があって、その世界にいるひとびとの生態を観察するみたいな映画。撮り方・見せ方も『ロブスター』以上に奇妙で「初期作品」感がすごくある。監督のキャリアを見れば初期じゃないんだけど....

ランティモスの作品は、まず登場人物たちをしばるルールがある。不条理なルールで、でもしたがわないわけにいかない。「なんでそうなの?」という説明はいっさいない。本作の「ルール」は、父と母がつくった家族内ルールだ。子供たちを家の外の世界にいっさい接触させない。外に出させないだけじゃなく、外の世界を想像することさえさせないのだ。

そこをシンボリックに見せるのが、言葉の操作だ。外の世界の言葉をどこからか聞いて来た子供たちに、たとえば「高速道路」は「強い風」のことだと教える。「電話」は「塩」のことだと教える。外の世界につながる単語は、みんな家の中にあるなにかに置き換えてしまう。オーウェルディストピア1984』の家族版という感じだ。言葉がうばわれるとその概念もなくなる。

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この両親はふつうに考えれば狂っていて、子供たちを虐待して自由をうばっている。でも深刻な感じには見えない。家は広々として快適だし、小ぎれいな服を与えられて子供たちはそれなりに楽しげだし、ほしい食材は父が買ってくる。庭はフェンスと門で囲われているけれど、その気になれば全然外にも出られる。でもかれらは出ようとしないのだ。

どうやってしばりつけているかというと、フィクションの力なのだ。父と母は協力して、恐ろしい「外の世界」像をつくりあげ、いろんな概念をたくみに消して、子供たちを外に出る気にさせない。これって、そうとうに世界観を作り込まないと通用しない。お父さんはじつにいやな感じの、さえないくせに家では強権的な親父だけど、世界観をつくるクリエイティビティはなかなかのものでは.....似た映画をおもいだした。『ブリグズビー・ベア』。

 

本作には元ネタがある。『Castle of Purity』という1973年のメキシコ映画だ(見た事ないけど)。この映画は実話を元にしている。1950年代のメキシコシティで、父親が子供たちを「外の世界」に一切触れさせないで、家族で内職し、父親だけがそれを売りにいき、必需品を買って帰る、そんな暮らしを18年間つづけていたそうだ。3人の子供たちは家ですべてをこなす。勉強も仕事も、散髪も。

つまり本作、実話ベースといっても良いわけだ。でもこの話、リアル方向に詰めるんじゃなく象徴劇っぽい。子供たちが勝手にはじめる奇妙な(どこか自死願望があるような)色んなゲーム。親父が子供たちを評価して採点して、成績順にあたえる無価値なカード。家族のレクリエーションタイムの不思議な決めごと。誕生日かなにかの学芸会じみたパフォーマンス。

撮影は1種類のレンズだけで基本こなしているらしい。室内も自然光でやわらかく撮る。撮影時期は夏なんだろう、庭もきらきらしてとても気持ちよさそうだ。カメラは固定して、ウェス・アンダーソンじゃないけど水平・垂直がきちんと出たシンメトリックな画面が印象的だ。撮り方もエモーショナルと真逆だし、音楽の盛上げも使わないから、この奇妙な話はすごく静謐な雰囲気で進む。

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でも本作は血と暴力とSEXであふれている。ここまでの話のイメージと合わないかもしれないけれど、本作はR18だし、日本版は巨大な肌色のボカシが何度も画面をいろどる。そもそも撮り方が、そこを自然に隠すつもりもなく、むしろ正面から露悪的な感じで見せているっぽいのだ。

暴力も、北野映画みたいに平坦なところから急に起こる。子供たちが理由もなく傷つけあったり、ある動物を敵だと思い込んで殺傷したり、父がとつぜん殴りつけたり... 全体は静謐でやわらかいトーンだけど(それは両親がつくろうとしてる家族像のファンタジーだ)、暴力と性的なものが抑えようもなく入り込んでくる、そのコントラストを見せたいんだと思う。

えぐいのは、両親が長男にだけは「SEXをあたえなきゃ」と考えていて、わざわざお金を払って相手を外から呼んでくるのだ。しかもその相手が首になったら、こんどは「内部調達」を考えはじめる....親父の強権的な雰囲気とあわせて当時のギリシャ社会にまだまだその手のジェンダー観念が濃かったのか、おもわず想像してしまう。

 

 物語は、ゆいいつ外からのゲストが長女にわたした映画のビデオが長女の世界をとつぜん広げる。彼女は『ロッキー』のセリフと顔マネをし、プールで『ジョーズ』のセリフをいい、お遊戯会で『フラッシュダンス』ばりの攻撃的なダンスで踊り狂い、クライマックスに繋がっていく。子供が家庭料理よりインスタントに夢中になるみたいに、よくできたフィクションの浸透力が自家製フィクションの世界をおかすのだ。

この種の映画は、『ブリグズビー・ベア』がそうだったみたいに、閉鎖的な世界の中で生きて来た子供が外の現実世界(ぼくたちが本物だと思ってる世界だ)に出て来て、さてどうなる?という第二幕がありがちだ。本作は....そこもふくめて奇妙な映画だった。

■写真は予告編から引用

 

 

 

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