サーミの血

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ストーリー:1930年代のスウェーデン北部、先住民族サーミの少女、エレ・マリャは妹と2人で家族と離れ、サーミ人学校に通っていた。頭がいい彼女は上の学校に通い、先生になりたい。けれどスウェーデン人の教師は「無理よ」「サーミ人は文明に適応できない」と答える。民族の伝統的な衣装を着て、虐められ、見せ物にされる暮らしにうんざりしたエレ・マリャはある日、都会から遊びにきていたスウェーデン人の青年と出会う.....

サーミ。この言葉知らなかった。ラップ人とかラップランドなら聞いたことがある。でもこういう聞き慣れた言葉にありがちだけど、「ラップランド」は差別的な意味をおびていて、サーミ人自身の言葉じゃないのだ。

サーミ人ははるか昔からスカンジナビアの北部中心に住んでいて、狩猟や採取生活をしていた。時代が下って、あるものは農業、あるものは漁業に、でも彼らのイメージはトナカイを飼う遊牧生活だ。本作のサーミ人たちもトナカイ飼育で暮らしている。

本作はそんな彼らがまだ制度的にも差別されていた1930年代のスウェーデンが舞台。差別の歴史を正面から描くんだから、とうぜん強烈な社会的・政治的なメッセージを帯びた作品だ。そこは間違いない(少し前の『ボーダー』は寓話的に描いていた)。でも1人の女の子の成長の物語でもあるし冒険譚でもあるし、それに社会の暗い一面を描いているのに風景も画面も思わずほっとしてしまうくらい美しい。

監督自身がサーミスウェーデン人の混血で、サーミ人役の出演者はオーディションで集まったサーミのひとびとだ。主演エレ・マリャ役のレーネ=セシリア・スパルロクはノルウェー生まれ。妹役は実妹だ。すでに絶賛されているけれど、主役の彼女の説得力がすごい。なんだろうあれは。実在感というんだろうか、役者としての重みもびっくりするくらいある。1997年生まれだから20歳ちょっと、役では14〜16歳くらいなんだけどね。

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お話は、姉妹がサーミの集落を離れてすごす寄宿学校での日常から始まる。湖をカヌーで渡り、シラカバの林を抜けて、明るい落葉樹の森に囲まれた学校に行くのだ。生徒の少女たちは鮮やかな色の民族衣装を着る。はたから見ればかわいいし風景にも映える。でも一目でサーミ人だとわかるその服は彼女たちをしばるものでもある。

だからエレ・マリャはある日、罰せられるのを覚悟でスウェーデン人たちが着る服を着て、偽名を使って、都会から着たスウェーデン人の集まるパーティーにいくのだ。そして少し仲良くなった青年を頼って1人で都会へ出て行く。このあたりからお話はどんどんきつくなり、いたたまれないものになっていく。

見ていてずっと疑問だったことがある。都会のスウェーデン人たちからみて彼女は一目でサーミ人だと分かってしまうんだろうか?っていうことだ。お話の中ではばれている。でも最初の出会いではどうやらそうでもない。かれらの中でその違いはどのくらいはっきりしたものなんだろう?

サーミ人は北方ゲルマン系に属するけれどモンゴロイドの系統も入っているらしく、エレ・マリャもどこかスラブっぽい雰囲気もある。なにより背が高い北欧の人々のなかで彼女はずんぐりとして背が低い。

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身体のちがいがすごく残酷にあらわれるのが都会の高校での体育の授業のシーンだ。体操着を着たすらりとした生徒たちが体操をしている中で、小さな彼女は動き方が分からない。背景に肋木が写っている。あったでしょう肋木。体育館の壁に。でもろくに使われなくて、ジャージを掛ける場所になったりしていた。肋木、じつはスウェーデン体操というこの国特有の体操でオリジナルの器具だったのだ(このチェコの体操動画もそれっぽい)。

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体操といえばドイツのトゥルネンが有名だ。これはすごく民族の優越意識や国民意識の昂揚とむすびついたものだった。体操って、フィジカルな美が表現できるものだけど、それは統一性の美で、異物はなじまない。それにフィジカルな差異が残酷にあらわれるところがある。そんなゲルマン系の体操と彼女の身体のなじまなさが描かれるのだ。

「民族と身体」をもっと残酷にあらわしているのが、サーミ人学校にやってきた研究者たちのシーンだ。人類学者なんだろうか、骨相学めいた、「民族特有の頭蓋骨や顔のサイズがある」的テーマで彼女たちを研究素材として「記録」するのだ。彼女たちは女性としての尊厳も羞恥心も関係なく、研究素材にされる。

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…そんな彼女、エレ・マリャの行く末は、じつは最初に観客につたえられる。お話は回想形式なのだ。彼女は都会で教師になり、スウェーデン人に溶け込んで暮らしてきた。少女の願いはかなっていたのだ。サーミアイデンティティーを否定しつづけてきた彼女が、最愛の、でもずっと縁が切れていた妹の葬式に出るために北方に帰ってきたところから物語ははじまる。

いまでも1930年代に少女が嘆いていた「見せ物としての自分たちの伝統」は、形や精神は変わったかもしれないけれど、しっかり残っている

■写真は予告編からの引用

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