僕のエリ、200歳の少女


<予告編>
監督トマス・アルフレッドソンの『裏切りのサーカス』があまりによかったから、あわてて見てみたたらこっちも完全にフェイバリットになってしまった。映画そのものの魅力もそうだけど、デザイン(作り方の)意図が明快な映画で、そういう意味の面白さもある。
ストーリー:1980年代のスウェーデン。12歳の少年オスカルは学校でのいじめに、いつか復讐したいと願う。かれが住む団地に黒髪の少女エリが引っ越してきた。オスカルはエリにガールフレンドになってと頼む。エリはふつうのおつきあいはできないよ、という。彼女はヴァンパイアだったのだ。2人は仲良くなったけれど、人間の血を吸わないと生きていけないエリと保護者みたいなおじさん、その怪しさが隠し通せるはずもなくて、小さな町のコミュニティにはだんだん不穏な空気がただよっていく…
この映画、もちろんクラシックホラーの「ヴァンパイアもの」でもある。このジャンルでは突出して静かな映画だ。ショッキングなシーンもある。もちろん血だって流れる。でもとにかく静かなのだ。舞台は冬。スウェーデンストックホルム郊外)はいつも無風で、つもった雪が底冷えしそうな夜の風景だ。
ポランスキーの『吸血鬼』にあったヴァンパイアもののお約束はこの映画でもちゃんと使われている。「噛まれた人もヴァンパイアになる」も「太陽の光に当たると生きていけない」も、物語の大事なモチーフだ。もう一つ「ヴァンパイアは鏡に映らない」もある。『吸血鬼』では重要なカギだった。この映画では象徴的にオスカルを鏡に映り込ませる。鏡ごしに表情を見せたり、窓ガラスに映したり。エリも鏡に映らないわけじゃない。2人が行く店のウィンドーにエリの顔がぼんやり映る。でも本質的にはエリはガラスの「向こう側」にいる存在。窓の外にいつもいて、そこから「こちら側」に入ってくる。こちら側にいるオスカルも、鏡の中、つまり向こう側の住人になることを示唆しているともいえる。

このお話は、少年と少女のラブストーリーでもある。『小さな恋のメロディ』とか『リトルロマンス』とかの世界。そこが映画全体のかわいさだし、監督もとうぜん意識してちょっと踏み込んだ、かすかにセクシャルなシーンもわざわざ入れている。ただエリをセクシーに見せすぎないように、そこは配慮しているんだろうと思う。そのせいか、正直、ロリ客よりショタ客垂涎なんじゃないだろうかという気もするが…子供らしいかわいさも彼担当だし。それでも画面は抑制が効いている。彼らのアップではライティングの工夫で瞳に星が入らないようにして、温度が低い、ある種の肖像画みたいな撮り方をすることもある。
この物語は「少年とモンスター」の物語でもある。少年が成長するための試練が「モンスターとの出会い」という形で象徴される。ファンタジーによくあるよね。オスカルは孤独な少年だ。両親が離婚して家庭でもときどき喪失感を感じる。周辺的な場所にいるからこそ異界の住人であるモンスターに出会うことができるのだ。モンスターはその力を彼には行使しない。逆に背後霊みたいに彼を守る立場になって、彼の成長をうながす。いじめられてなにもできない彼に「やりかえせ!」と背中を押すのがエリだ。オスカルは一度だけ反撃し、でもそれ以上闇と罪の世界に入り込んでいくことはない。モンスターが暴力の行使は引き受ける。彼のイノセンスを守るのだ。
映画は、とにかくビジュアルで2人の対比を見せる。オスカルは典型的な北欧系の顔。色白で金髪。「白」の象徴だ。着ている服や身の回りはブルーやグリーンの穏やかな色が印象的だ。エリは、黒髪でオリエンタルな顔。瞳はグレイで、闇にいるから当然「黒」の象徴だ。エリ役のリーナ・レアンディションはイラン人の血を引いているそうだ。彼女をえらんだのは、もちろん女優としての存在感や魅力を感じたからだろうけど、ある種ヨーロッパでの伝統的イメージにのっとっているみたいにも感じる。
ヴァンパイアの伝説というのは各地にあるというけれど、スラブ・東欧に色濃くて、ルーマニアは古代から吸血鬼の伝承がある。ドラキュラだってルーマニアトランシルバニア地方のお話だ。西欧のひとたちにとってヴァンパイアがどことなくオリエンタルなのはしっくりくるんじゃないだろうか。…とはいってもアメリカのドラマ『ヴァンパイア・ダイアリーズ』あたりまでくるとよくわからない。この映画のアメリカ版リメイク『モールス(Let me in)』では、ヴァンパイアが金髪のクロエ・グレース・モレッツで、少年が黒髪、逆になっている。

この映画、見ていてどことなく感じたのは、「子供の犯罪者」の世界を想起させるところもあるということだ。あくまでぼくが想像してしまうということだけどね。オスカルは離婚した母親に育てられている。でもスウェーデンといえば世界がうらやむ高福祉国家だ。学費はもちろん、子育て費用も政府が補助してくれる。家の中はつつましいけれど荒廃したようすは全然ないし、何より彼はいつもこぎれいな服を着せてもらっている。こぎれいというより1980年代の小学生としては他の先進国と比べてもそうとうちゃんとしたファッションだろう。
エリは対比的にみすぼらしい服だ。色も地味で、冬なのに薄着で裸足だ。途中でわざわざ「お宝があるから金には苦労しない」風のセリフを入れているけれど、家の中も殺風景だ。ここにエリのオリエンタルな風貌が重なってしまう。「吸血鬼」というファンタジックな存在じゃなく(そういうのって貴族だったりする)なまなましい、身近な「異質な人」として見える。統計的にどうなのかはともかく、たいていの先進国の住民は(日本だってね)移民=犯罪をすぐにむすびつけて見がちだ。スウェーデンは世界でもトップクラスの移民優遇政策、融和政策をとっているといわれる。それでも見えにくいあつれきや偏見があってもおかしくない。そしてエリは法的には凶悪犯罪者だ。
原題は「Let the right one in」、タイトルを象徴するのが、エリが(血がほしいという)欲望に負けてヴァンパイアの正体をさらしてしまったあと、冷たくなったオスカルの家を訪ねていくシーンだ。自分なりに可愛い服を着て、愛想笑いを浮かべて「入っていい?」とはじめて下手にでる。オスカルは露骨に見下した「なんで聞くの?入りたければ入れば?」という態度になる。それを見たエリの怒りの表現がある意味この映画のハイライトだ。かわいい服は汚れてしまい、招かれたエリはオスカルの母の服を貸してもらってそれに身をつつむ。
このシーンにどんな意味を読取るかはひとによるだろう。吸血鬼が他人の家に入るにはその家の人に招かれないと入れない、という言い伝えがあるそうだから、単純にそれだけのことかもしれない。でも移民かどうかはともかく異質なもう一つの人間を、それをわかって受入れる、というシーンなのはたしかだ。このあと、2人の絆が急激につよくなるような出来事がたたみかけられる。
映画のロケはストックホルム郊外のBlackebergという街。何度か印象的に出てくる建物がBlackebergの地下鉄駅スウェーデンモダニズムの建築家がデザインした駅舎だ。アパートのシーンはもっと北のこのあたりで撮ったそうだ。たしかに似てる。
とにかく全体にしーんとした風景がすごくいいんだけど、ひとつだけ、夜の屋外シーンがいつもやたらと明るいのがアレだ。もちろん意図があってやっているんだと思うけど、ナイターで照らされているみたいな平板な明るさでちょっと不自然だった。