僕の名前はズッキーニ

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<公式>

ストーリー:イカールは車に乗せられて孤児院にやってきた。イカールの母は昼からビールを飲んでばかりで何かあると激しく叱るのだったが、ある日ふっつりと消えてしまった。かれは母が自分をよぶ「クルゲッテ」(ズッキーニ)を自分の呼び名にしている。ある日同年代の女の子カミーユが入所してくる。心をよせるイカール。いじめっ子だったシモンも味方になって、孤児院の日々は.....

いわゆるストップモーションアニメーション(SMAと略称)、60分ちょっとの中編だ。SMAはとにかく手間と時間がかかる。本作も2年かかっている。SMAは当ブログだとぼくの心のベストテン不動の『メアリー&マックス』、これもビジュアル的には最高の『犬が島』、不気味さではダントツの『アノマリサ』、一般性はたぶん一番たかいスタジオライカの『コララインとボタンの魔女』あたりがある。

本作はこの中で言うと『メアリー&マックス』にちょっと近いかもしれない。デフォルメの方向性がすごくはっきりしていて、どのキャラクターも同じトーンで造形されていることが一目で分かる。風景も教育番組調をあえて残している感じの昔ながらの素朴なものだ。キャラクターデザインはティム・バートン調ともいえるし、そこはかとなく日野日出志風味が漂わないでもない。

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このキャラクターデザイン、でもなかなかに秀逸だと思う。これだけデフォルメされて全員まんまるの目がぎょろりと付いているのに、ちゃんとそれぞれの顔立ちになっていて、リアルにした時の顔が想像できないでもないのだ。主役の子供2人は、デフォルメされつつも主役顔だ。

子供たちは2等身くらいで、ギミックっぽい撮り方もしないから、動きはそんなにダイナミックでもない、ぼくたちが想像するような人形アニメのちょこちょこしたあれだ。ぎょろり目だから、細かい表情だってもちろん作れない(とはいっても視線だけでそうとう語れるけどね)。本作の絵づくりは、ドラマを少しふわっとさせるものとしてある。

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お話は孤児院もの、昔からあるジャンルだ。色んなパターンがあるだろう。文字通りの悲惨な生活を描いて、そこから脱出していく話もあるだろう。本作はそういう意味ではとても穏やかだ。子供たちが入所する理由はさすがフランスらしいストレートさだ。移民の子、ヤク中の、DV親の、犯罪者の、自死した親の、子。でも園長先生もスタッフの夫婦も暖かい。子供たちもなんだかいっても気が合っている。そしてズッキーニ君にはとても暖かい保護者がいる。

本作にかぎりなく近い空気を感じる名作がある。映画じゃない、漫画だ。松本大洋Sunny』。三重県の田舎にある養育施設で、親がいなくなったり、事情があって育てにくくなった子供たちが暮らす。子供の視点も思いも、施設の大人たちの視点も思いも、そしてかれらを包み込む風景も、すべてを描き切った作品だ。子供、大人、どちらにも偏りすぎず、わりと等距離で全体を見つめる視線が、なにか近いのだ。

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(c)小学館 『Sunny』1巻

本作の視点は『Sunny』より子供側によっている。大人たちだけのシーンはなくて、大人たちは子供の前に常にいる。それでも子供から見たぼんやりとした「大人の社会」の構成要素なだけじゃなく(たとえば「先生」「親」の役割的な性格しかないみたいなね)、ちゃんとそれぞれのキャラクターを持った人たちだ。

本作は、自伝的な小説を原作にした、子供向けのアニメだ。それでも孤児たちの事情や途中のエピソード、ちょっとしたセリフなどはストレートに現代の社会問題をはさみこんでいる。『ディリリとパリの時間旅行』もそうだけど、社会問題をストレートにメッセージに込めて、それでいて表現として上質な、子供もターゲットにした作品、フランス映画の確固とした1ジャンルなのかな、という気がする。

■画像は予告編からの引用

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パラサイト 半地下の家族

 

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<公式>

ストーリー:キム一家は父も母も失業中。流行のスイーツ屋に手を出して失敗したのだ。20歳くらいの息子も娘も大学に行けず、4人で宅配ピザの箱組み立ての内職生活。彼らの家はソウルではよくある半地下の狭い部屋だ。息子ギウがひょんなことから身分をいつわってIT富豪のパク家の家庭教師になる。キム一家は計画を立てた。それぞれ他人になりすましてパク家で働ければ.....

2019年の世界的な代表作の1本だ。『JOKER』とかと並んでね。日本でも十分にヒットしていて高評価はそこらじゅうで読める。しかも監督みずからネタバレしないようにお願いしているから、こんな片隅のブログでも言葉少なにならずにはいられない。見るのをお勧めしない理由を見つける方がたいへんなのだ。

監督ポン・ジュノはハリウッドでの製作から、母国での作品づくりに戻って撮りやすかったといっている。貧しい家庭・リッチな家庭の2つの家だけが舞台の、出演者もほとんど2家族(+α)だけの物語だ。でも印象はぜんぜんミニマルじゃないけどね。

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ポン・ジュノらしく、映画のなかで舞台となる空間の構成(特に高低差の関係)が明確にあらわれていて、家のなかの空間の上下、2つの家を結ぶ都市空間の上下がものすごくはっきりと見せられ、それが物語に直結している。

吠える犬は噛まない』でも空間の感覚ははっきりとあった。そういうタイプの映画作家なんだと思う。ぼくが空間への(特に高低差への)感覚をはっきりと感じる作り手はロマン・ポランスキー(たとえば『吸血鬼』)、あとはみなさんおなじみの宮崎駿もそうだ。『千と千尋の神隠し』を見れば、いや『カリオストロの城』を見ればわかるでしょう。本作とよくにた世界観がある。

リッチなパク家の住宅は映画用にデザインされたセットで、ストーリーテリングにあわせてデザインされたことがよくわかる、住宅としてもなかなか洗練されていて、世界中の観客に「今のリッチな人々」の感じを納得させられる空間になっている。ちょっとポランスキーゴーストライター』に出てくる豪邸別荘に似ている(これもセット)。庭だけが芝生の周りに刈り込んだ常緑樹が植えられて、東アジアの雰囲気をかもし出している。

主な舞台になる1階は水平に広がり、扉で仕切られず、流れるように人も視線も行き交うつくりだ。そこにかすかな高低差が仕込んであって、大きなテーブルがちょっとしたフロアのように同じ階の中の上下を分けている。2階は子供たちの部屋、家庭教師であるキム家のひとびとが、パク家の娘と息子を取り込んでいく場所。そして地下もある。下におりると食料品や道具をしまった倉庫めいた場所があるのだ。

映画のなかではこの、つながっていながらところどころの壁でそれとなく視線が仕切られた空間が、人々の距離感やちょっとしたサスペンスの道具としてうまく使われる。庭も大事な物語の舞台で、リビングと庭はほとんど視界を遮らないおおきな窓でつながっている。

パク家は建築家が自邸として建てた設定だ。リッチな住宅地はいつもそうだけれど、パク家も坂をのぼった高台にあって、玄関からさらに階段を登ると建物が見える。この家の住人が外界を見渡すときはいつも見下ろす視線になる。タワーマンションなんかじゃなくてもね。

パク家族は地下の倉庫までは降りない。そこに降りるのは家政婦や運転手だけだ。ある意味、地下空間はこの豪邸のなかの、別の世界の住人たちの場所なのだ。そして都市の中では彼らは高台からおおきく下った、ごちゃごちゃとした低地に住む。パク家の外部はこの辺でロケしたらしい。ちょっと違うけれど雰囲気はこんなかんじかな。

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お話はデフォルメされ、少々強引にストーリーは必要な地点まで進んでいく。さりげないエピソードで機微を描くような作品じゃない。ホームドラマのようでありながらサスペンスだしスペクタクルだし・・・なのだ。ただしラストはすこし親切に伝えすぎの感じもした。同じことをもっとさらっと描写する手もあっただろう。

役者もいい。キム家は兄妹もふくめていわゆる美男美女を配していないところがコメディ感をかもし出すのに寄与しているし、パク家は特に奥さんがいい。お人好しで、会話にちょいちょい英語を挟むけれど、たぶん留学経験はないのだ。ソン・ガンホは『タクシー運転手』に続けて(ぼくにとっては)、また運転席から人々にはたらきかける。

■シーン画像は予告編からの引用

 

 

 

 

愛がなんだ & 空気人形

■愛がなんだ

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<公式>

ストーリー:テルコ(岸井ゆきの)は会社づとめ。グラフィックデザイナーのマモル(成田凌)が生活のすべて。一緒に飲むし、象を見に行くし、お泊まりもする。でもどうやらマモルはテルコを彼女だとは思ってないらしい。分かっていてもテルコは一直線だ。マモルに「この人が好き」と年上の豪快姐さんを紹介されてもへこまずに彼女と3人デートを続ける。テルコの友だち葉子(深川麻衣)、彼女に惚れているナカハラ(若葉竜也)も絡み合い....

楽しく見ました。僕がこういう映画を見るときは、なんというんだろう、愛くるしいみなさんの生態を観察させていただく、ネイチャードキュメンタリーみたいな距離感になる。『勝手にふるえてろ』もそうかもしれん、この世界に重なる要素を無理に探すこともなくだれかに何かを投影するでもなく。

原作は読んでいない。テルコが愛し続けるマモルは「背が高く猫背」で「オレ、格好いい方とそうでない方に分けたら格好よくない側だからさ」という人だ。だけど映画だから、もちろん成田凌演じるかれは「そりゃ、惚れるでしょ」という相手ではある。むしろかれが格好悪く片思いする年上の豪快姐さんことすみれのキャスティングが妙にいい。

すみれ役の江口のりこ、『横道世之介』『奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール』に出ていたらしいけれど思い出せない。なんだろう、映画的にははげしく微妙になりそうだが、マモル役もこの感じに合わせたら(モデルあがりの格好いい役者じゃなく)、この片思いの連鎖もよりリアルになったかもしれない。そこへ行くともう一つの片思い、葉子にいいように扱われても惚れるナカハラ役の若葉竜也はいい。こっちは収まりがいいのだ。

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本作、ヒロインはわりと一貫していて、物語的に分かりやすく成長してみせたりはしない。でも描き方は明らかに成長させている。はじめは明確にバカで、自分の考えも断片でしか話せなかったテルコが、いつの間にか自分と自分の愛を相対化し、理路整然と相手をなじったり、いやに切れのあるひと言を差し込んだり、戦略的にふるまったりするようになるのだ。

彼女は成長してるんだろうか? それともただ何でも言うことをきくアホだと舐めていたら、いつの間にかある部分あやつられてる、そんなマモルの視点を観客に共有させてるんだろうか。おおきな何ごとかは起こらないこのドラマで彼女の、彼女と彼の変化の意外さがちょっとした緊張感を物語にあたえている。

ロケ地は世田谷の豪徳寺や、どうだろう、松原とかあの辺なんだろう。ほどよい場所なんだよね。居心地いい店もありつつ地に足ついた感じでお洒落すぎず。

■写真は予告編からの引用

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■空気人形

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<予告編>

ストーリー:秀雄(板尾創路)の家にいたラブドール。空気を入れる式のチープなビニール製だ。ラブドールがある日心を持った。そしたら自由に動けるようになり、話せるようになり、人間と見間違うくらいになったのだ。彼女(ペ・ドゥナ)はレンタルビデオ店で働くようになり、店員の純一(井浦新)にこころを寄せる.....

ペ・ドゥナが魅力的で、切なくもあって、音楽もいいし、撮影のリー・ピンピン(ホウ・シャオシェン作品やトラン・アン・ユンの『夏至』『ノルウェイの森』)の写す月島・佃島・入舟町あたりの風景も味わいがある。

ひょっとするともう一度見るともっと素直にしみ込むのかもしれない。ファンタジーであり寓話である、業田良家の短編ベースのこの物語は、漫画だと強引に納得させられるんだろうな、と想像できる。人形人形したヒロインが普通に街中で住民と話していても、業田のカートゥーン的な絵で描かれれば、それはそれだ。ただ実写映画になると、どうしても「監督はヒロインをどういうものとして描いているんだろう?」と余計な疑問がずっとぬぐえず、わりとクエスチョンマークが出っぱなしで来てしまった。

物語の最初にいた、どこからみてもビニール製のラブドールは、物語の中でも僕たちが見ているのと同じようにペ・ドゥナのルックスになったのか、それは観客に対してだけで物語の中ではビニールっぽいままで、じゃあ物語の中の人たちは半人間化したドールをわりと見慣れているのか、そのどっちでもないとしたら、周りの人は彼女が実際は人形だとどの程度分かってるのか......

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そこを真っ白にしてせつなさに浸るにはぼくの心は乾きすぎていた。いや、メタファーとしての彼女のあり方はよくわかるのだ。「私はだれかの代用品」彼女はいう。「私はからっぽ」。味わい深い老人が「わしだってそうさ」と返す。そう、僕たちもときには誰かの代用品だし、中身がからっぽに感じることもある。

監督が「一番エロティックなシーン」というあるシーンがある。メタファーとしてもよく出来てる。1人じゃ生きられないのだ。からっぽの「ここ」を誰か愛する人が埋めてくれれば..... それを「空気人形」の実際のあり方を使って表現する。意味的にもビジュアル的にもエロティックだし、印象に残るシーンだ。でも、その時の彼女はやっぱもろにビニールなの? 

物語は、ある意味ピュグマリオン的なのだ。だれかに作り出されたわけじゃないけれど、大人でありながらこの世に生れ落ちたばかりの、真っ白なヒロインが、だんだんと色んな色にそまっていくのだ。せつなく、ソフトで、ファンタジックかと思ってると、「えっ」という展開に至る。ラストは腑に落ちないままに切なさだけが残った。

ん?この感じって、夢の体験と似てる?

■写真は予告編からの引用

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ジョアン・ジルベルトを探して

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 <公式>

ジョアン・ジルベルト。1950年代にかれが編み出したギターの奏法は、アントニオ・カルロス・ジョビン、ヴィニシウス・ヂ・モライスたちと共にボサノバを生み出した。映画『This is bossa nova』はその周辺をインタビューや映像でわかりやすく紹介している。それからもう60年も経つのに、いまだに日曜午前のアップタウンのカフェでかかるボサノバは「お洒落な曲」の座から滑り落ちる気配もなくて、ジャズギターおじさんのレパートリーの一つにもなり、盤石なまでに洗練された都市のBGMとしてのポジションを不動のものにしている。

詩人だったモライスと、偶然というにはあまりにもできすぎな、2人の天才、ジョビンとジルベルトの出会い。彼の代表曲は『イパネマの娘』、他にもこれとかこれとか、映画でかかっている。ジョビンは1990年代に他界したけれど、ジルベルトはどうやら生きているらしいのだった。

「らしい」というのは、ここ10数年、ジルベルトはまったく人前に出なくなり、それどころか本当に他人と会うことさえやめてしまったのだ。かれは幻となり、関係者のインタビューの中だけに生きる人になった。

それを探し出して、一目会おうとしたのが、ドイツ人のライター、マーク・フィッシャーだ。かれは現地の有能な女性を助手に、あらゆるつてをたどって、リオ中のホテルを点々としながら、ジルベルトを追った。その結果は『Hobalala』という本にまとめられている。タイトルはジルベルトの曲名だ。マークが知り合いの日本人に、生まれて初めて聞かされて、雷にうたれた曲。

マークはまだ若いうちに亡くなった。本の出版の少し前だ。死因は自殺じゃないかともいわれている。かれは結局ジルベルトに会えなかったのだ。

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この本に感銘を受けて、本作の監督は撮影隊をつれてリオにやってきた。マークの助手だった「ワトソン」にまず会い、かれと同じようにサポートしてもらいながらかれがあった人々に話を聞いていく。マークが旅した地方都市に古い部屋を見に行く。

そう、僕は最初、ジルベルト探しの映画かと思っていた。いやもちろんそうだ。監督はあの手この手で接触を試みる。でも本作、それと同じくらいマークの足跡を追う映画だったのだ。『Hobalala』の一節がたびたび読み上げられる。監督はマークに最大の敬意をはらい、かれの探索を映像で再現するのだ。

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本作、そのマークがもっと強烈な人物だったら、別の面白さがあったかもしれない。あるいは監督自身(カメラにはいつも写っている)になにかの魅力があったら......。正直いって2人ともお金を払って大スクリーンの中心で見たいようなカリスマティックな人物じゃない。それにそんなに濃い物語を背負っているわけでもない。ぼくらが惹かれるのはもちろんジルベルト本人だ。

でもかれは最後の方まで、スパイ映画の「マクガフィン」的な存在だ。そして、そんな彼について語ってくれるブラジルのミュージシャンたちも、無理もないというべきなのか、全般にけっこうお歳を召したみなさまだ。そしてカメラも時々面白い撮り方をするけれど、はっとするような映像もそんなにない。ぼくはジルベルトやジョビンの1世代下のミュージシャンたちが割と好きだ。エドゥ・ロボ、ジョルジュ・ベンジョール、カエターノ・ベローソ、エルメート・パスコヴァル、ミルトン・ナシメント…残念だけど、かれらは1人も出てこない。

そんなこんなで、なにより本作に期待した音楽的な幸福感もあまりないままに映画は終わってしまった。ゆいいつ、海辺まで高層ビルが建て込み、間に色の濃い並木の道が走る、そして視線を上げるとまっすぐなビーチとシルエットになった山々が街の境界を形作る、そんなリオデジャネイロの街のスケッチとして楽しめた。

■画像は予告編からの引用