ジョアン・ジルベルトを探して

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ジョアン・ジルベルト。1950年代にかれが編み出したギターの奏法は、アントニオ・カルロス・ジョビン、ヴィニシウス・ヂ・モライスたちと共にボサノバを生み出した。映画『This is bossa nova』はその周辺をインタビューや映像でわかりやすく紹介している。それからもう60年も経つのに、いまだに日曜午前のアップタウンのカフェでかかるボサノバは「お洒落な曲」の座から滑り落ちる気配もなくて、ジャズギターおじさんのレパートリーの一つにもなり、盤石なまでに洗練された都市のBGMとしてのポジションを不動のものにしている。

詩人だったモライスと、偶然というにはあまりにもできすぎな、2人の天才、ジョビンとジルベルトの出会い。彼の代表曲は『イパネマの娘』、他にもこれとかこれとか、映画でかかっている。ジョビンは1990年代に他界したけれど、ジルベルトはどうやら生きているらしいのだった。

「らしい」というのは、ここ10数年、ジルベルトはまったく人前に出なくなり、それどころか本当に他人と会うことさえやめてしまったのだ。かれは幻となり、関係者のインタビューの中だけに生きる人になった。

それを探し出して、一目会おうとしたのが、ドイツ人のライター、マーク・フィッシャーだ。かれは現地の有能な女性を助手に、あらゆるつてをたどって、リオ中のホテルを点々としながら、ジルベルトを追った。その結果は『Hobalala』という本にまとめられている。タイトルはジルベルトの曲名だ。マークが知り合いの日本人に、生まれて初めて聞かされて、雷にうたれた曲。

マークはまだ若いうちに亡くなった。本の出版の少し前だ。死因は自殺じゃないかともいわれている。かれは結局ジルベルトに会えなかったのだ。

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この本に感銘を受けて、本作の監督は撮影隊をつれてリオにやってきた。マークの助手だった「ワトソン」にまず会い、かれと同じようにサポートしてもらいながらかれがあった人々に話を聞いていく。マークが旅した地方都市に古い部屋を見に行く。

そう、僕は最初、ジルベルト探しの映画かと思っていた。いやもちろんそうだ。監督はあの手この手で接触を試みる。でも本作、それと同じくらいマークの足跡を追う映画だったのだ。『Hobalala』の一節がたびたび読み上げられる。監督はマークに最大の敬意をはらい、かれの探索を映像で再現するのだ。

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本作、そのマークがもっと強烈な人物だったら、別の面白さがあったかもしれない。あるいは監督自身(カメラにはいつも写っている)になにかの魅力があったら......。正直いって2人ともお金を払って大スクリーンの中心で見たいようなカリスマティックな人物じゃない。それにそんなに濃い物語を背負っているわけでもない。ぼくらが惹かれるのはもちろんジルベルト本人だ。

でもかれは最後の方まで、スパイ映画の「マクガフィン」的な存在だ。そして、そんな彼について語ってくれるブラジルのミュージシャンたちも、無理もないというべきなのか、全般にけっこうお歳を召したみなさまだ。そしてカメラも時々面白い撮り方をするけれど、はっとするような映像もそんなにない。ぼくはジルベルトやジョビンの1世代下のミュージシャンたちが割と好きだ。エドゥ・ロボ、ジョルジュ・ベンジョール、カエターノ・ベローソ、エルメート・パスコヴァル、ミルトン・ナシメント…残念だけど、かれらは1人も出てこない。

そんなこんなで、なにより本作に期待した音楽的な幸福感もあまりないままに映画は終わってしまった。ゆいいつ、海辺まで高層ビルが建て込み、間に色の濃い並木の道が走る、そして視線を上げるとまっすぐなビーチとシルエットになった山々が街の境界を形作る、そんなリオデジャネイロの街のスケッチとして楽しめた。

■画像は予告編からの引用