ディリリとパリの時間旅行

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<公式>

ストーリー:ディリリはニューカレドニアからやってきた女の子。褐色の肌の彼女は、万国博覧会で未開の部族の暮らしを模した展示に出演していた。でもほんとうはフランス語を流暢に話し、中流以上のマナーも身につけた、賢い少女だった。20世紀初頭のパリ。ディリリはオレルというメッセンジャーの青年と出会う。3輪車で町中を走り回る彼は、ディリリをパリ見物に連れて行く。その頃パリでは少女の誘拐事件が世間をさわがせていた。犯人たちはディリリにも目をつける。オレルとディリリはさまざまな人たちに会いながら事件の真相をさぐる....

監督ミシェル・オスロの作品は代表作の『キリクと魔女たち』『アズールとアスマール』を見た。たぶんオスロの劇場公開作はそれ以来だろう。

この2作、それぞれ画風は少し違うけれど、装飾絵画的な背景美術と、CGっぽい、なめらかで、そのくせどこか機械的なうごきの人物たちの不思議な組み合わせが特徴だ。「なんか見慣れないなあ」と思う未見の人でも、ぜんぜん問題ない。とにかく映像は美しくて目を引きつける。おはなしは単純で、無用なストレスはなく、ひねりなくポリティカリーコレクトだから、お子さんにもおすすめです。

本作もその特徴は完全に受け継がれている。美麗そのものの映像と、教条的なまでにポリティカリーコレクトな脚本。画風はまた少し変わった。『キリク』は少しカートゥーン的でありつつモニュメント的でもある人物が抽象的な風景のなかでうごき、『アズール』では人物の顔は絵画的な陰影がつけられてリアルに、衣服と背景は色面の塗り分けだけで抽象的・装飾的に画面を構成した。

本作では、背景は画像処理してコラージュした写真や精密に組み上げたCGで、その手前では、色面を塗り分けた、陰影も描線もない人物たちが動く。画面の印象はちがうけれど、写真的背景とシンプルな描法の人物というアプローチ、日本の「ハイクオリティ」な商業アニメとも似てるんだよね。ここここで書いていたみたいなことだ。ジブリ細田原恵一ラインとちがうのは、動きの描写だろう。

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本作ではキャラクターはそれなりに細かい演出をつけられている。動作も省略していないし、人物の表情を眉や目の動きでちゃんと描写する。でもたとえばジブリのそれのように強いエモーションを表すことは決してない。それからけっこう派手なアクションもあるのだが、すべてCGで動きが制御されていて数式が見えそうで、ドラマチックに視点を動かすわけでもないので、たとえば3輪車でパリの坂道を激走するシーンでもハラハラ感がない。Jアニメ的演出を見慣れすぎたせいもあるんだろうけどね。オスロ監督は、サービスとしてアクションは入れても、端正な画面をくずしてまでスリリングにしようとはしていないんだろう。むしろダンスのシーンなど、すこし抽象化された表現のほうが魅力的だ。

シンプルな描写の人物は、本作に大量に出てくる似顔絵にもつごうがいい。ベル・エポック、19世紀末〜20世紀初頭のパリが舞台の本作は、当時そこにいた歴史上の人物たちが物語に顔をだす。配達人オレルはなぜか彼らにコネクションを持っていて、ディリリをそんな芸術家、文化人、研究者、発明家たちに引き合わせる。ぼくらも教科書や辞典でおなじみの顔がそこかしこにちりばめられる。悪役たちはモデルがいないせいか、一段とカートゥーン的なカリカチュアライズされた顔だ。

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絵のバランスを総合的にいうと、僕は『アズール』のほうが好きだ。『アズール』のバランスはすごくユニークだったし、装飾美術的な方向で背景のクオリティを高めるやりかたも新鮮だった。でも本作の背景は写真ベース、建物も正確にCGで構築して、ほどほどにテクスチャを載せているだけ。本作ならではの描法がないのだ。絵画的な背景と独自のカリカチュアによる人物のバランスでいえば『イリュージョニスト』のほうがはるかに完成度が高いと思う。

ストーリーは各国・各地の民族への公正な視線と、女性の公正な社会への参加がメッセージの中心。それは〈なにかに例えて〉とか〈象徴的に〉とか一切なく、ど直球で語られる。だって悪役は、〈女性の社会進出に憤り、ひそかに捕らえた少女たちを奴隷的に育成する〉「男性支配団」なんですよ。その悪役っぷり、育成具合は映画全体のトーンからするとなかなかのえぐみである。あと、当時で言えば未開の文明からきたディリリに対する「理解あるひとびと」の接し方と「意識の低いひと」の接しかたの対比もじつに分かりやすい。監督が前にもましてストレートにメッセージをぶつけることにした理由はここここで少し語られている。子供たちへの教育素材として考えてる部分も大きいのかもしれない。

意外だけど、監督は舞台としたベル・エポック時代のパリに思い入れがあってそれが出発点になったわけじゃないそうだ。こういうのは外国人のほうが憧れるものなのかもしれない。ウディ・アレンの『ミッドナイト・イン・パリ』みたいにね(これは少し時代が後だけど)。

■画像は予告編からの引用

 

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