横道世之介


<公式>
ストーリー:1987年、長崎から上京してきた大学1年生、横道世之介高良健吾)。1年生らしいそわそわした日々、であう友人や先輩もいい人たちだ。年上の女性にあこがれる彼だけど、たまたま仲良くなったお金持ちの娘、翔子(吉高由里子)に気に入られて、だんだんと彼の気持ちも傾いていく。そんな1年間を十数年後のまわりの人たちがふと思い出す。
大学1年って独特の感傷があるなあ。高校時代のぼくは、自分ではそれなりに街の空気を吸っていたつもりで、おまけに高校3年になるとすっかり枯れて年をとった気さえしていたけれど、大学に入るととたんにデビュー感あふれる無邪気なボーイになった。そして入学後にすぐに仲良くなった2人といつもつるんできょろきょろしながら海に行き、街をうろついた。よくあることだけど2年になると1人とは距離ができて顔もあまり合わせなくなって、けっきょくかれは「1年間だけの親友」みたいな存在になった。

さて映画。主人公の世之介は、一見、鳥の巣ヘアーにかるく挙動不振なうごきで、濃いめのキャラクターに見える。でもかれはぼくみたいなだれの記憶にも遍在する「あいつ」なんだろうと思う。かれは固有すぎない。そもそもかれがなにをどう考えていたかは語られることはないし、過去や人となりが必要以上に掘り下げられることもない。かれがどんな人かはその時々のシチュエーションへの反応で見せられる。その反応も特別なものじゃない。わりと共感しやすい自然な感情だ。
表面にあらわれるかれの個性も実はそんなにりんかくのはっきりしたものじゃない。押しが強いかと思えば、わりに受けにも回っているし、女の子に興味しんしんでありつつも、自分に好意をよせる女の子にはあまり興味を示さない。天然のようでそんなには外さない。じつはそんなに個性を限定していないのだ。ただしネガティブな要素はいっさい排除してよけいなノイズにならないようにしてある。

それでも、俳優が役を演じる以上はその人の固有性がどうしても乗る。エンターテイメントである以上、演者の魅力と固有性はもちろんはずせない。高良健吾はエキセントリックにもなれる風貌だ。でもそれを上手くゆるめて、<イケメンに限る>的距離を感じさせない、ほわほわしたできかけの男みたいな主人公像をつくった。シャープな印象からすると意外にぼてっとした下半身をジーンズにつつむと80年代以前的なカジュアルのシルエットがそこにあった。吉高由里子はその辺もう少し楽だ。彼女はトータルで個性的だけど、顔つきだけだと一見その辺にいそうにも見える、わりと普遍顔なのだ。
エピソードもそうだ。ものすごく当たり前の出来ごとが起こる。そりゃ幾つかは物語的な特殊なアレだけど、単にデートしたり海辺で男子がバカになったり(ここでもあった)クリスマスを貧乏学生の精いっぱいで済ませたり、旅に出る彼女を送って行ったり。すごくリア充でなくても、おなじ時代の人でなくても「似てる.....部分なくは、ない」くらいの記憶は見つけられるんじゃないか?

物語全体が『三丁目の夕日』ほどメイクアップしないながらも、ある層にとってはわりと普遍的な記憶の擬似的な再生みたいにできている。かれは鏡みたいなもので、たいていの人にある思いでの中の「あいつ」のある部分が世之介や翔子の中にちらっと映れば、見ている人は「ああ、ああいうやついた」と思ってほわっとしてくれるのだ。平凡すぎずにエンターテイメントを成立させながらうまくできているんだろうと思う。というのは、この映画はようするにそういう感情をかきたてるのがテーマだからだ。主人公以外の登場人物がどことなくしんみりと「いたよな、あいつ」と思い出す感傷と同じ感情を観客にも共有してもらってはじめてこの映画は価値をもつからだ。この映画では感傷を語り手側がおしつけるのは最小限でこらえている。そこが作り手の構えだろうし、品の良さだし、うまくいっているところだろうと思う。押し付けたらだいなしだからね。『その街のこども』にも通じる。小春日和的な高田漣の音楽もいい。

ぼくだって思った。2年になって溝ができてしまったあいつにだ。「ああいうところあった…」溝ができるのにはもちろん理由があるし、それはなんとなく苦い思い出としてずっと残っている。そしてやけにイノセントだった気がする大学1年の時をふと思った。ずいぶんあわなかったあいつも去年いなくなってしまった。だまってふらっと部屋からでていくみたいに、朝になったらふっと…だったと後から聞いた。