クロニクル的な愛の物語 ちょっと思い出しただけ & 花束みたいな恋をした

■ちょっと思い出しただけ

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ストーリー:ステージ照明技師、照生(池松壮亮)とタクシー運転手の葉(伊藤沙莉)。同じコロナ禍の東京の夜、ぐうぜん2人の距離が近づく。過去に2人は一緒に暮らしていた。ジャームッシュの『ナイト・オン・ザ・プラネット』をセリフを覚えているくらい好きだった2人。葉は映画に出ていたウィノナ・ライダーみたいに夜の街を移動し続ける....

本作、未見の人はまず1回見る方がいいです、たぶん。ネタバレ的な映画ではない。あるラブストーリー、2人は今は別々に生きている。そこは初めから分かってる。紹介サイトでも、監督インタビューでも、なんなら公式でも、本作の特徴の語り口も分かる。でもそこすらも知らずに見る方が多分楽しい。大きくは似た構成の『アレックス』と、でも見た感触はぜんぜん違う。一番大きいのは最後が切りっぱなしじゃなくループを閉じるところだ。そこで一気にノスタルジーが噴出する。

東京の夜がじつにいい感じに撮られている。『ナイト・オン・ザ・プラネット』がモチーフだし、夜のシーンが印象的じゃなくちゃいけない。タクシーで走る葉の周りを流れていく新宿も、照生がいろんな人と出会う高円寺も。本作に限らず、最近の『花束みたい』も『街の上で』『あのこは貴族』『愛がなんだ』、みんなそれほどの予算規模じゃないはずだけど東京の夜が等身大に、それでいて貧相じゃなく居心地良さそうな街に撮られていて素敵だ。機材や技術ももちろんあるんだろうし、撮り手たちの感覚もある。

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ちなみに本作は地理的に正しい東京を描こうとしているわけじゃない。照生が住んでる古いマンションは横浜根岸にある。最近アマプラで見た『名建築で昼食を』で池田エライザが住んでたのと同じところだ。窓から根岸競馬場が見える。朝通っていく公園は横浜山手の公園だし、照生が働いていたのは金沢八景シーパラダイス。高円寺で夜遅くまで飲んで帰る地理関係とは違う。いい絵を探せばそうなるだろう。本作、ジャームッシュの『パターソン』に似た空気がある(永瀬正敏の佇まいは『ミステリー・トレイン』よりこっちに近いし)。『パターソン』もロケーション的には上手に嘘をついていた。

主要な演者はみんなじつにいい。池松壮亮伊藤沙莉も、ぼくが見るごく限られた映画でよく見かける2人だ。池松の柔らかい雰囲気もいいし、伊藤沙莉は、同世代でこの存在を出せる女優はちょっといないだろう。ただ、ぼくが若くもないせいか、出会いはじめの大はしゃぎする芝居より、孤独になっていってからの演技の方がしみた。分かるんだけどね。構成として、出会い序盤をどんどんキラキラさせたいのは。

2人が口喧嘩するシーンがある。ステレオタイプなドラマだと照生が女性の、葉が男性のふるまいみたいに見える。思うことをポンと口に出せずに飲み込んでしまうのが照生の方なのだ。すごく意外だったのが、初めの設定では照生と葉が逆で、照生がタクシードライバーだったというのだ。とうぜん『ナイト・オン・ザ・プラネット』からの女性ドライバー設定だと思っていたんだけど、上に書いたぼくの印象もその設定変更の名残りなんだろうか?あきらかに今の設定のほうがいいと思う。

本作は『花束みたいな恋をした』の少し先の話みたいにも見える。表現者に憧れて、でもなる前に断念した麦と比べて、照生は一度はそこにいたしそこで生きていく筈だったのだ。そして役割が変わって表現者を支えながら、その世界にいつづけている。先に断念した葉がまったく違う、半端にキラキラしない職業を選んだのもいい設定だ。映画全体が舞台芸術や音楽へのシンパシーに満ちていて特有の香りになっている。そういう意味でも舞台は高円寺なんだろう。

 

 


■花束みたいな恋をした

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ストーリー:調布に住んでいる大学生、麦(菅田将暉)と 飛田給が最寄りの大学生、絹(有村架純)。明大前で終電を逃してぐうぜん出会った2人は好きな本やお笑いや映画が奇跡のようにぴったり一致、とうぜん気があって、卒業後には一緒に暮らすようになる。でも別の世界に進み始めた2人はだんだんすれ違うようになって....

こちらは大ヒットでいろんな人に刺さりまくり、無数の考察や感想が溢れている。ぼくが付け加えるとしたら「調布映画」という点くらいだ。もともと調布って縁がなかったけれど、仕事でここ数年よく来るようになって、何度も泊まったし、パルコはもちろん、なんなら麦と絹が初めてキスした聖地的な交差点も車でしょっちゅう通り過ぎて、近くのファミレスで食べ放題のカレーを食べていた。

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調布には今も日活の撮影所角川大映スタジオがある。角川のスタジオは2人が住んでいた多摩川沿いのマンションのすぐ近くだ。じつを言うとぼくの親戚の一人はこの辺りの映画会社にかかわりが深くて、映画業界の盛衰に飲み込まれてなかなかに波乱万丈の人生になってしまった。まあそれは置いといて、調布全体が「映画の街」として打ち出しているし、京王電鉄が昔からロケ協力が充実してるのも無関係じゃない。本作ももちろん京王沿線映画だ。

本作も街の映し方がとてもいい。室内シーンも『ちょっと』と同じで、古いマンションのインテリアをきれいにし過ぎず自分らしく暮らす感じが、リアリティのある「いい感じの生活」なんだろう。少し前までは、この手のラブストーリーとかだと、古い部屋設定でももう少しファンタジックだった気がする。実在のマンションの上に仮設でスタジオを作ったらしい。

役者についていえば、本作でも後半の空気が悪くなってからの芝居の方が役者にあってる感じがして染み渡った。有村架純は主演作が多い割にあまり他の作品を見ていないけれど、序盤の、なんて言うんだろう、独特の文化系女子感は少し人工的なキャラに見えてしまった。誰もが感動するクライマックスの(ファミレスでの...)シーン、麦が絹に最後の訴えをするそのセリフ、じつは『ちょっと思い出しただけ』で葉が照生にいうのとほとんど同じだ。

山中貞雄2作 人情紙風船 & 丹下左膳余話 百萬両の壺

山中貞雄(1909ー1938)作品、今まで見たことなかった。いま見られる3本の作品は今ではパブリックドメイン化されて、Youtubeでも海外のチャンネルで全編見られるのがある。20代で戦病死した監督だからどちらも若い時代の作品だけど、青さはない、達者といっていいエンタメだった。

■人情紙風船

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ストーリー:江戸の長屋に住む髪結の新三は金に困り、勝手に賭場を開いて地回りのヤクザに睨まれている。同じ長屋の住人、浪人の海野は死んだ父のつてで武士の家に仕官を頼むが相手にされず苦しい日々だ。その武士の家に娘を嫁がせようとしている質屋の白子屋に面白くない目にあわされた新三はひょんなことから娘を長屋に連れ込み....

1937年公開。トーキー(セリフが音声で入る)になって数年くらいの作品で、もちろんモノクロ、フィルムの状態もよくないから解像度は相当に低くて、古いノイズだらけのレコードを聞いて元の味わいを想像するみたいな楽しみかただ。1938年の『按摩と女』が思った以上に綺麗な映像で気持ちよかったのを考えると、4Kリマスター版はずっと見やすいかもしれない。

歌舞伎『髪結新三』が原作の時代劇だ。貧しい長屋の住人側の視点で、でもタイトルから想像するようなほっこりした人情話や、パワーがある側(武士、大商店、ヤクザ組織)を出し抜く弱者の痛快ドラマに期待するようなカタルシスはない。なにかを達成できない者たちの物語なのだ。唯一盛り上がるのは大家がたまにスポンサーになってくれる長屋の宴会のはかない饗宴なのだ。

ドラマ自体はすごく飲み込みやすい。監督は役者を当時の若手歌舞伎役者の集団「前進座」で固め、現代語で喋らせる。音声も20年後の黒澤明の一部の映画より全然聞き取りやすい。キャラクターたちは落語の登場人物にも似ていて、今見ても普通の感覚を持っている。歌舞伎っぽく声を作ったり見えを切ったりもなくて、全体に淡々とした演技だ。僕たちからすれば映画が撮られた1930年代だって歴史上の年代だし、そこで描かれているさらに100年前の空気は、実はこんなだったんじゃないかと錯覚しそうになる。

ショットのつなぎや編集リズムが今の目から見るとすごく自然で見やすい。省略していいところは切り、間延びしないし、小物のクローズアップを入れてちょっと語らせる感じ、説明的なセリフを使わず細かい表情でわからせる演出。あと、これも監督の作風だそうだけど、時代劇につきものの刃物を使ったシーンも決定的なところは見せない。全体に軽やかなのだ。

解像度が低いのは残念だけど、映像も慣れてしまえばけっこう凝った撮り方で楽しい。画面の情報量が多めの絵作りで、長屋の路地は建物が迫ったパースの効いた画面にこまごまと小道具が映り込む。特に庶民の生活シーンは意図的に雑然とさせて生活感を出したのかもしれない。それ以外も夜のシーンの黒の使い方や雨の演出、ちょっとした水面の表情なんか意外に繊細だ。室内シーンはカメラが低くて正面に中庭が映る。後年の小津の撮り方だ。制作はPCLとなっているから、世田谷にある東宝の撮影所のセットで撮っているんだろうか。

ラストシーンで紙風船が水面を不自然なまでにクイックに流れていくシーンがある。これ、黒澤明の『椿三十郎』を思い出した。水面に落ちた椿がいやにアクティブに流れていくのだ。これって山中へのオマージュだったのか....

 

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丹下左膳余話 百萬両の壺

<解説>

ストーリー:江戸時代。柳生家に伝わる茶壺に百万両の隠し場所の情報が書き込まれていることが分かる。壺は婿に出した次男源三郎の結婚祝いにやってしまっていた。本家は慌てて回収に向かうが、そんなことを知らない源三郎は無価値な古物として手放した後だった。慌てた本家と源三郎は壺の捜索に乗り出す。そんな時、矢場に居候していた丹下左膳は....

1935年公開。こちらは日活配給で撮影は京都だろう。映像も『人情紙風船』と少し違う。印象としては照明が少し平板で、室内シーンも顔をよく見せるように陰影が乏しくて、残念だけどさらに古くさく見える。主人公が人気時代劇キャラクター丹下左膳で、もろにそのコスチュームなので、いわゆる『時代劇』感は強い。

本作は人情コメディーだ。今もある、お宝をめぐって全員が右往左往する典型的なマクガフィンもの。この手のは肝心の壺が最後まで出てこないパターンもあるけれど、本作では最初からやたらと出てきて古物屋や子供やらにぞんざいに扱われる。

主人公丹下左膳は当時のスター大河内傳次郎。その愛人で矢場の女主人は超売れっ子芸者から歌手になった喜代三という女性だ。傳次郎はセリフが特徴的というかなまりがきつくて、体型的にもいかにも戦前の役者。当時37歳なのだが、50過ぎの役者が白塗りしているみたいにも見える。左膳はオリジナルの冷徹な殺し屋からお人好しのコメディキャラに変えられて、壺探しに絡みつつ、女と一緒に身寄りのない子供の面倒を見て疑似家族を形成したりして、原作者に「これは私の左膳と別物」と怒りをかったらしい。.....思い出しますね、『カリオストロの城』。

編集はあいかわらず間延びがないし、省略もうまくて見やすい。1番の特徴は登場人物が「絶対しないからね!」→次のシーンでそれをやっている というツンデレ的な逆転のカットだ。丹下左膳もやってコメディ感を高めている。少々使い過ぎの感はあるけれど...。この手法、今でも使われていると思う。思い出すのは真田広之小泉今日子主演の『怪盗ルビィ』(1988年)だ。監督の和田誠はシネフィルだしこれはオマージュなんじゃないか。

ところで矢場というのは、江戸時代にあった遊び場だ。おもちゃみたいな矢を射て、的に当たると景品がもらえる。でもそっちがメインかは怪しくて、芸者上がりの女将と女の子が何人もいて接待してくれる店だ。『眠狂四郎無頼控 魔性の肌』にも出てきていた。ある文化圏のカラオケパブみたいなものだろう。

そうそう、大河内傳次郎は京都郊外の山荘に30年かけて庭園を作った。そんなにクラシックな作りじゃなく、山の斜面だから眺めも良くておすすめです。

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TITANE & RAW

■TITANE チタン

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ストーリー:アレクシアは子供の頃から車を愛していた。自動車事故で頭蓋にチタンプレートを埋め込まれた彼女はダンサーになる。事件を起こし指名手配になったアレクシアは家を飛び出し、失踪した少年になりかわって奇妙な消防士ヴィンセントの息子として、消防署の一室で暮らすようになる。少年のふりをしていたアレクシアだったが身体の変化がだんだんとはっきりするように...

2021年カンヌ・パルムドール受賞。監督ジュリア・デュクルノーの長編2作目だ。初期作の『Junioir』から3本まとめて見ると、ここまでの作品は1つのコンセプトの変奏曲だとわかる。「身体変容」で似たイメージがある塚本晋也の初期に似て、この作風・コンセプトで作り手としての位置がはっきりする。その「色」は最上級に濃い作り手だ。

作家としての色を属性から決めてかかるのはあまりいいやり方じゃない。ただ、デュクルノー監督は女性作家としての立ち位置をはっきり出しているタイプだ。女性視点から見た関係性や生きにくさ、みたいなものを描く『プロミシング・ヤング・ウーマン』『あのこは貴族』『燃える女の肖像』の作り手とも少し違って見える。

この例え、いいか分からないけど、昔から「女には分からない、男ってこういうもの」的映画はくさるほどあった。ヤクザ映画、青春映画、あと例えばペドロ・アルモドヴァルや塚本晋也のシュールな想像力も男性のある種の生理やオブセッションだろう。彼女はその逆をやっているように見える。昔のヤクザ映画が男性観客をターゲットにしていたみたいに女性観客に限定するつもりはないだろうけど、女性観客が「自分たちには分かる」と思える部分を感覚として正面から伝えているんだと思う。

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描写は大体メタファーで、シュールとも言える行動や特殊効果で見せる身体変容で語るから、男性であるぼくは頭で「これは独特な身体感覚をビジュアライズしてるんだ...」と考えながら、完全に感じ取ってはいない気がする。もちろんその感覚を受容しきれなくても、描写の鋭さや物語の新鮮さが十分に観客には入ってくる。

監督の作風で一貫しているところ、色々あるだろうけど例えば。

①見られる身体じゃなく、生物としての自分の身体

映画の中の俳優たちの身体は老若男女問わず見られるものとしてある。若い女性はしばしば狭い範囲の「美しさ」のビジュアル化として撮られてきた。本作の序盤、ヒロインはセクシーダンサーで、ベタに「見られる身体」をやってみせる。でもそこから、自分でありながら変容する生物である身体の描写になっていき、性的な喚起力を完全に消していく。

②女性の身体的な攻撃性

ヒロインは簡単に人を殺すタイプだ。暴力は性的な何かの時に起きる。それは男の暴力性への復讐だけじゃない。彼女が誰かと親密になるシーンがあるとヒヤヒヤするのだ。今までは女性の性的な経験は、身体的な痛みや傷つくことにつながる描き方が多かったと思う(「女を武器に」系は別)。ここでは完全に逆に描いている。

③身体表現で液体がモチーフになる

本作では「黒い血」めいたものが一つのモチーフになる。それは「車」がキーでもあるだろうし別の象徴があるかもしれない。『RAW』は分かりやすく真っ赤な血。初期作『Junioir』から濃厚に液体がモチーフだ。コントロールできない身体性を流れる液体で表現する。

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(C)KAZAK PRODUCTIONS - FRAKAS PRODUCTIONS - ARTE FRANCE CINEMA - VOO 2020

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それにしても本作ヒロインの「車に性的に惹かれる」設定はなんとも面白い。昔からあるステレオタイプではマチズモの象徴である(男の)車とセクシー美女の組み合わせはよくある。序盤であえてベタに見せているのがそれだ。逆(車を女性に見立てる)もある。『クリスティーン』はそれだ。本作の車は持ち主である男を排除してそれだけで性的に存在している。『クリスティーン』の逆なのだ。

ラストは前作までになかった展開が起こり、あまりにも続編がありそうな空気感で終わっていく。初老の男性ヴィンセントのあり方や2人の関係性など、全般にダークな笑いが横溢している映画でもある。監督は巨匠デヴィッド・クローネンバーグを引き合いに出すけれど、ちょっとラース・フォン・トリアーっぽい感じもある(立ち位置は逆の極ながら、似ているところも感じる)。

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■RAW 少女のめざめ

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ストーリー:16歳のジュスティーヌは神童といわれ、飛び級で獣医科大学に入学する。両親は卒業生、姉は在学中だった。大学の寮に入りゲイのルームメイト・アドリアンと暮らそうとした彼女を襲ったのは上級生たちの野蛮な新入生歓迎の伝統だった。頭から動物の血を浴びせられ、ウサギの生の腎臓を食べさせられる。ヴェジタリアンとして育てられた彼女の何かが変わりだした....

本作の公開は2016年。『TITANE』にも出ていたギャランス・マリリエが主演。彼女は日本で例えれば誰だろう....橋本環奈とかかもしれない。優等生感があって小柄で撮影当時は10代、まだ少女っぽさがある。本作は青春もの+ホラー。紹介でも書かれているかように、身体変容とカニバリズムがモチーフだ。

主人公の美少女が口の周りを血で染めるビジュアル、ヴァンパイアものの『僕のエリ、200歳の少女』に近い何かを感じた。女性の中に獣的な欲望があって、それは男を喜ばすような都合のいい物じゃなく、ストレートに加害するものなのだ。『TITANE』にも加害性は引き継がれていた。でもTITANEのヒロインは特別な変容(金属の内包)をすでに受けている。本作はごく普通の大人しく見える女の子に内在するものとして描く。

ヒロインの変容はsexへの踏み込みのメタファーでもある。さっきも書いたみたいに多くは心も身体も傷つき、痛む経験として描かれてきたそれを、監督は(もちろん傷つきも痛みもありつつ)攻撃性が生まれる変貌として描く。それは監督の感覚なのか立ち位置なのかは分からない。たんなる被害者として描くことを断固として拒否しているのはたしかだ。

とにかく生理的にヒヤッとする描写が多いからなかなかにエッジーな作品だけど、じつは姉妹・親子のファミリードラマでもあるし、学園もの(アメリカでよくある「フラタニティーもの」)っぽくもある、巣立ちのドラマでもあるし、スリラー要素もあって、案外まとまりのいい話になってるのが意外だ。

 

この映像は監督の初期作短編『Junioir』。主演は『Raw』と同じギャランス・マリリエ。初期作品だからすごく分かりやすい。ローティーンの少女が変容して女として一段変化する瞬間を、「脱皮」のメタファーで描く。不気味要素はあっても青春学園ものの比重が高い。主人公の少女が喧嘩っ早くて、同級生男子を攻撃する側でいるのが、後にもっとエクストリームになっていくところなんだな、と思わせる。

インフル病みのペトロフ家

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ストーリー:2004年ロシア、エカテリンブルク。自動車整備工ペトロフは漫画描きが趣味。別れた妻と息子がいる。ペトロフはインフルエンザにかかり高熱でもうろうとしながら仕事帰りのバスの中だ。とつぜん降ろされた彼は銃を渡される。そのあともおかしな車がバスを止め、男たちにアジトへ連れ去られる。そこから熱に浮かされた妄想なのか思い出なのか現実なのか分からないまま混沌とした時間が続く...

ロシア=フランス=スイス=ドイツ合作。公開はどマイナーで、東京ではイメージ・フォーラムだけだ。監督はロシア人、キリル・セレブレンニコフ。ロシアの演劇・映画界ではそれなりの重みがある人だけど、体制批判の発言が多かったせいか、公金の詐欺罪で起訴、軟禁されていた。軟禁中に脚本を書きフランス人プロデューサーが協力、軟禁から解放された隙をついて撮影したという、成り立ち自体ドラマチックな作品だ。2021年のカンヌに出品された。

物語の舞台は2004年冬のロシア。監督の他の作品を見ていないから作風はわからない。本作は体制に対する怒りがストレートに伝わってくる。全体にとにかく骨太な映画だ。ユーゴの監督、エミール・クスリトッツァの『アンダーグラウンド』を思い出す。

特に前半は音響としても太い。環境音は生々しいし、BGMは聴き心地よくないし、作中の男女のセリフが全て怒鳴り声のような、叫び声のようなうるささだ。誰もが、あらゆるシーンで怒鳴りあっているし、罵り合っているし、世の中に毒づいている。主人公だけが抑え目だ。作り手は音響の面でも観客に居心地良く鑑賞してもらうつもりは一点もない。

映像もノイジーだ。街もバスもアジトめいた部屋も埃っぽく殺風景だ。人々はぼくたちの「幻想のロシア」風にあまり今風じゃない服を何重にも着込んで寒さをやり過ごす。頑丈そうな体躯の男たちが、ウォッカをあおったり掴み合いで争ったりする。街の風景は夜が多くて、灯りは暗く、ひたすら寒そうだ(撮影の都合もあったらしい)。ただし撮り方はスタイリッシュだし、だんだんとそれが際立つようになっていく。

タランティーノの香りもところどころでする。トリッキーな時制や犯罪めいたどたばたの描き方は『パルプ・フィクション』ぽい。女性が爽快なまでに暴力性を発揮するシーンはタランティーノや最近の色んな映画を思い出させる。その中で人々の重厚感がロシアらしさを漂わす。

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本作、「こんな話」と短く説明できない映画だ。骨格の骨格まで削ってしまえば、2004年、ある一家の年明けの何日かの物語。だけどそこに1990年の記憶、1976年の出来事、誰かの妄想や誰のものでもない非現実のシーンが折り重なって、しかもそれがシームレスに移り変わるから、もはや何かを把握することは難しくなる。主人公は高熱でもうろうとしているし、しかも趣味の漫画で元妻をモデルにして描いていて、どうやらそのシーンも混じっている。

主人公が現実の世界でつまづくと、幻想の世界に転がり込んだりする。地味で我慢強そうな女性が突然ものすごい暴力の使い手になる。死んで棺桶にいた男がむっくり起き上がってバスに乗る。「なんだそれ」と言いたくなるけれど、どれもファンタジックな語り口じゃない。現実と同じ撮り方だし、同じようにくすんだ世界、人々の中で起こる。

それでも、観客が完全には置いてきぼりにならず、エモーションを仮託できるようになっている。それは家族の物語でもあるからだし、実は・・・という群像劇の中の時間を超えたつながりがだんだんと見えてくるからだし、それと舞台をロシアのクリスマスに設定しているからだ。

ロシアのクリスマスは1月7日。サンタクロースは”ジェド・マロース”という名で、孫の”スネグローチカ”=雪娘とセットで登場する。子供たちのイベントのシーンが出てくる。ホールは飾り付けされて、マロースと雪娘、動物の着ぐるみたちが盛り上げ、子供たちも仮装することになってるらしい。ロシア人の幼少期の思い出として刻み込まれているんだろう。

1976年のソビエトのクリスマス。同じようにマロースと雪娘が登場する。多分物質的には比べものにならないくらい貧しかっただろう。主人公ペトロフの幼少期の思い出なのだ。美しい雪娘が彼の手を引いてくれる。古いロシア人には一党独裁だったソビエト期を幸福な思い出として持っている人たちも多いともいう。

カオスだった物語は、終盤にすっと落ち着いたものになる。主人公の熱が引いて頭がすっきりしたことを写しているのかもしれない。モノクロのノスタルジックなシーン、1976年のソビエトだ。

物語の現在の舞台はエカテリンブルク。モスクワから東に1400kmの大都市だ。どんな空気感のところだろう。冬は雪景色になるみたいだ。いずれにせよ、ぼくたちが呑気に眺めに行くような場所じゃなくなってしまった。

 

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シチリアを征服したクマ王国の物語 & 失くした体

シチリアを征服したクマ王国の物語

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ストーリー:昔々、山奥にクマの王国があった。王レオンスはとつぜんいなくなった息子トニオを探すため、人間が住むシチリアに向かう。それを知った人間の大公は軍を向かわせる。しかしクマの軍団は強かった。幽霊や化け猫にも怯まず都に到達したレオンス。クマ王国はシチリアを平和的に征服、レオンスは王として統治する。でも話はそこで終わりじゃなかった。クマの長老が語る続きは....

2019年、イタリア・フランス制作のアニメーション。原作はイタリアの作家、ディーノ・ブッツァーティの童話だ。

監督ロレンツォ・マトッティイラストレーター、コミックアーチスト。彼の初期のコミック作品『FIRES』だけ持ってる。対象を単純な幾何学形態に抽象化するやり方と色彩感覚はちょっと似た作家が思いつかない。BD(フレンチコミック)やアメコミは専門のカラリスト(着色の専門家)がいて、美しい色彩も分業というパターンがほとんどだけれど、本作は色彩も含めて彼だろう。画材で描いているからね。

FIRES, Lorenzo Mattotti Penguin Books

そんなマトッティが監督するとどうなるだろう....と見たら、非常に見やすく呑み込みやすい画風になっていた。原作は作者ブッツァーティが絵も描いている。映画も絵本らしさが残っている。人物は古典的な漫画調だったりおもちゃみたいだったり、背景も分かりやすい。ただポスター画像でもすぐに目に付くように、風景がなんともいえない感じで抽象的な形にされている。それに色彩。この辺りは監督の作風をほうふつとさせるし、ついでにいえば主人公のクマは見事に幾何学形態だ。

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映画の語り口は、ストーリーを語り部が聞かせる口承文学の形に変えられた。語り部役の父と娘がいて、さらにもう1人出てくる。物語に額縁がつくことで距離感ができる。ストーリーは何かのメタファーというより寓話感が増した。さらに人間のヒロインと若いクマのジュブナイル要素も足された。ちなみに娘(兼ヒロイン)のキャラクターは最近のフランスのアニメで共通する人物造形だ。ルッキズムから意識的に距離をおき、自立心と行動力を前面に出した少女像。

悪い君主の追放と征服とか、支配層の堕落とか、原作の発表年(1945年)を考えると現実のメタファー的なところが見える部分はある。人間世界を征服するクマは西欧文明を征服する(彼らから見れば)野蛮な文明そのものだ。原作者が別の作品で書いているタタール人の襲撃みたいなね。あるいは今戦争を巻き起こしている大国とかだ。

映画はその辺り深刻に描かない。戦いも漫画的に処理するし「死」は描いても、柔らかな救いを用意している。征服者かつ野蛮なはずのクマたちはのんびりとした平和な力持ちで、王は十分に思慮深い。数少ない悪役が、「征服した人間の文明や文化に染まったクマ」というところも分かりやすい色分けだ。お子さんも安心して連れて行ける、それでいて画面は美しい、そんな作品だった。

クライマックスのアクションは、実はこれが最大の不満。ここだけ画風が変わってしまう感じがあって、出てくるもののデザインも他とテイストが違って、悪い意味で記号性が目立ち美しくない。なんでああいう流れになったんだろう。

トッティが今後また映画を作るのか分からない。次作がもしあれば、作家の美学が思い切り表現されたものを見てみたい気はした。

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■失くした体

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ストーリー:1990年代のフランス。病院の冷蔵庫に保存されていた、切断された手がとつぜん動き出した。手は病院を脱出して、街中を動きまわる。いっぽう、青年ナウフェルの物語が語られる。不慮の事故で孤児になった彼は希望もなく孤独だ。そんな彼がピザの配達中に出会った女性、ガブリエル。彼女に心を惹かれたナウフェルは....

2019年、フランス制作。配給はNetflix

いやしかし、このイマジネーション。体の一部が人体を離れて自律的に動く、たぶん幻想文学とかで描かれてきただろう。頭が独立する話や、手が勝手に動く話も昔からある。でも手首から先だけの手が意志と知性と視覚をもち、けっこう動けるくらいの筋力もある、というね。ここには理屈はない。

古い楳図かずおのギャグ漫画『まことちゃん』の1エピソードが急に記憶に甦った。汚い話ですみませんが、幼稚園児まことちゃんがハイキング先の屋外で大便を放出、その便が意志と動く力を持ち、川を下って道路を伝って(旅の途中で家族までつくる)、生みの親であるまことちゃんの元へと冒険するのだ。

物語装置としての「動く手」。手の移動シーンは小人や虫の冒険モノと同じスリルを与える。ちょっとした空間が移動経路になり、居場所になる。小動物が猛獣となって襲ってくる。でも私たちの手でもある。傷を追えば、自分の手が傷ついたみたいな痛みを共有する。そして手は元は一緒だった大きな何かから切り離されて、孤独で欠落した存在になっている。主人公ナウフェルと同じだ。その哀しみの表現はクライマックス近くで十分に時間をとって語られる。でも観客は簡単に思い入れるわけにはいかない。なにしろ直感的に姿が気持ち悪い。観客はその感覚を克服しなければいけないのだ。

主人公の青年ナウフェルは、元は豊かな芸術家の子だったのが救いのない境遇になる。彼もまた全く美化されない。手と同じく、ビジュアル的にもあえてのデザインだ。しかもライトモチーフとして常に蠅が彼の前にいる。彼のふるまいは1970年代の青春映画みたいに痛々しく、心を惹かれたヒロインへの態度も色々と間違っている。それでも生への何か、表現したい何か、大事に持っていた何か...見てるとそれを感じないわけにはいかないのだ。

図書館司書のガブリエルがナウフェルに渡す本がある。『ガープの世界』。なぜこれなんだろうね。登場人物たちには、ナウフェルと逆のことが起こる。

絵はラフな線の手描きに見える。CGでモデリングしたものをベースにしてると思う。物の向きが変わるときの変形とか顔の角度による見え方とか、その辺りが不思議な収まりの良さだ。

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