スパークス・ブラザース

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アメリカ、カリフォルニア発のバンド、スパークスの1960年代末の生誕からこれまでを描いたドキュメンタリー。一つ前の記事で書いた『アネット』の原案がスパークスで、彼らの演奏シーンから映画は始まる。下の動画の前半部分だ。本作は日本でも『アネット』と同時公開。ずいぶん長い間スパークスの名前も曲も聴いていなかったぼくもなんとなく見に行った。

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監督はバンドの大ファン、イギリス人のエドガー・ライト。なぜファンになったかというと、スパークスはある意味母国よりヨーロッパで人気があったバンドで、1970年代にはイギリスのレーベルに所属、イギリスでツアーを回り、BBCの音楽番組でいきなり話題になっていたのだ。テクノっぽいサウンドになりアメリカでも売れたのが80年代。そこから浮き沈みはありつつ今でも現役で50年間だ。

スパークスという表現しにくいバンド、一つ言えるのは「兄弟バンド」ということだ。良くも悪くもスパークス=兄のロン(キーボード)弟ラッセル(ボーカル)で、他のメンバーは時期によって入れ替わる。ギャラガー兄弟とかと違ってこの兄弟はものすごく仲がいい。今でも近所のスタジオに2人で出勤して曲作り、ツアーも当然一緒、これが50年間続いている。

弟はわりとルックスがよくて華もある。ファンが付きやすいのは彼の方だ。曲のコンセプトは主に兄が固め、ステージでも不思議キャラでなんとも言えない存在感を発揮していて、脇役感はない。若い頃はヒトラー風チョビひげでイギリスのTVでは異様な話題になったらしい。戦後まだ30年くらいのヨーロッパでヒトラー風というのは、相当なインパクトだろう。

映画を通して見てると、いい具合に相互補完的で、お互い頼るところを頼りあう感じなんだろうなと思う。キャラクターの打ち出しも初めからそこが分かっていて、若い頃からロンはモテ系に手を出さず不思議キャラで通して、バンド全体でポップな部分と一癖ある部分が共存していたし、老境に入ると枯れそうなものだけど、いまでもステージで動けて声も出るラッセルの元気さが活動を引っ張ってる部分もありそうだ。

スパークスサウンドは時代を通じて変わり続ける。バンド編成から、テクノ系デュオ、クラシカルな音に乗せたポップなど。ぼくはテクノ系の頃ちょっと聴いていた。でも改めてキャリアを通じた色んな曲を聴かされると、自分が聞き続けなかったのも無理ないなとも思った。スパークスサウンドは独特だし、ある時代は相当あたらしかったと思うけれど、そのフレームワークは伝統的な西洋音楽の音階と和声がベースだ。

だからなんというんだろう、時々ある伝統工芸界のアバンギャルド系みたいな味わいがあるのだ。あと、ボーカルのラッセルが主役だから、サウンドは彼の声に規定される。時期によっては、いい例えか分からないけど「カルトかつキッチュなクイーン」めいた部分がなくもない。

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そんな彼らの映像や写真は子供の頃からちゃんと残っている。10代の学生時代にバンドを始めてからスパークスという名前に変わり、TV映像もライブ映像もMVも。ストップモーションアニメやコラージュのアニメでちょっと目先を変えて見たりもする。間をインタビュー映像がつなぐ。トッド・ラングレンやベック、レッチリ、デュランデュランなども出てくる。やわらかいモノクロの映像で統一していて映像的にはいい息抜きになる。

それなりに売れて、ミュージシャンたちのリスペクトは受けても、大富豪になるようなバンドじゃない。どうやらずっとカルトでマニアックな存在だったみたいだ。10年近くろくな仕事がなく、それでも毎日スタジオで音作りを続けていた時期もあった。売れていた頃の稼ぎを豪遊せずにちゃんと貯金していたのだ。その堅実さや職人的なルーティンのこなし方もなんだかいい。

語り方もあるだろうけれど、後半はなんだか報われた雰囲気になる。フランツ・フェルディナンドとのコラボもあり、ワールドツアーもできて(その時の来日シーンも結構使われてる)しかも夢だった映画制作も実現、「俺たちなんとかいってもやって来れたよな」的空気になる。

ずいぶん昔に見た『アンヴィル』を思い出した。あのバンドもそうだった。長く続けるのに相棒って大事だ。

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アネット & ホーリー・モーターズ

■アネット

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ストーリー:人気スタンダップ・コメディアンのヘンリー(アダム・ドライバー)とオペラ歌手アン(マリオン・コティヤール)は恋に落ち、結婚。やがて娘アネットが生まれる。スター同士のカップルのいい時期は長く続かなかった。バカンスでヨットのクルージングに出た一家を嵐が襲う。やがてヘンリーはアネットの特異な才能に気が付く....

レオス・カラックスの映画を見たのは本当に久しぶりだ。『ポンヌフの恋人』以来。そういう人多いんじゃないか。実在の橋と周囲のパリの市街地を丸ごとオープンセットで作り、フランス映画屈指の難産映画として知られ...という『ポンヌフ』、外見だけとると、ジャック・タチの『プレイタイム』を思い出す。都市を描く映画って難しい。個人的には前作の『汚れた血』の方がずっと好きで、はっとするようなシーンがいくつかあった。

で、本作だ。カラックスは彼以降の年代の監督たちにいるように、ポップソングが身体に染み込んでいて、作品の中でも劇伴より効果的に使ったりするイメージがある。上の『汚れた血』クリップにあるディヴィッド・ボウイの『モダン・ラブ』シーンなんか有名だ。本作は70年代から活動している兄弟バンド、スパークスの原案による物語で、形式的にはほぼすべてのセリフが歌われるオペラ形式だ。

語られる物語と表現形式、見ているぼくたちが受け止めるその2つのバランスは、そうとう表現形式のほうがでかくなっている。簡単にいうと物語に没入できるタイプの映画じゃない。常に「こういう物語を表現する作品を見せられている」と意識しながら見ることになる。古典的オペラの観客もそうだよね。発表された時代はともかく、いまとなっては物語より歌い手の表現力や演奏に感動している。

どんな観客もいつの間にか映画の見方を身につけて、たいていの映画では、表現形式の1つであることは分かっていながら、それなりに物語に没入することができる。でもカラックスの作品はもともと表現の形ではっとさせるタイプだし、オペラという形式でますます作り物性が高まり、撮影方法も「映画づくりの苦労」みたいなのを前面に出すので、物語からはけっこう距離がある気がする。

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というかオープニングで「ぼくたちみんなで映画をつくりましたよ!さあ見てね!!」とど直球で言っているわけで、「ロックオペラ映画を作り上げた」と言うところと、そんな映画作りへの挽歌にもなってるところが、実際は本作の最大のドラマといってもいいんじゃないか。スペクタクルシーンもあえて室内スタジオで昔風の効果を使ったり、俳優たちを(スタントじゃなく)バイクで疾走させて微妙にハラハラさせたり、全体にクラシックよりの見せ方が多い。これも映画作りへの追悼だろう。

お話自体は前半はロマンチックすぎる愛を見せて、「ああ、初期カラックスを思い出すぜ・・・」的気分になるけれど、後半はヘンリーのデモーニッシュな面が出てくる。ただしそこまで恐ろしく描いていない。というか表現方法が上に書いたみたいなので、笑える部分もけっこう多いのだ。半分は狙いだと思う。見せ方の最大のコアはあえて書かないけれど、公式にすべて載っている。「なんだこりゃ」と思っていたその表現形式が、ラストでひっくり返って強烈な物語効果を伝える。そこは痺れた。

ダークサイドに転落していく男女の姿を様式性が強い表現で描く(そして古い撮影技術で見せる)というところ、黒澤明の『蜘蛛巣城』をちょっと思い出した。アダム・ドライバージーザス感のある長髪から、最後は今まで見なかった短髪になり、違う役者みたいな表情を見せる。ちなみにアダム演じるヘンリーのステージシーンはコメディのはずだけど笑いとは全く無縁である。

 


ホーリー・モーターズ

ストーリー:オスカー(ダニ・ラヴァン)は迎えに来たリムジンに乗り込む。運転手は「今日は9つのアポイントがあります」と伝える。9つのアポとはオスカーがメイクして9人の別人になり演じる物語のことだった....

『アネット』から復習で見た。本作を見ると、カラックスの「映画を撮ることを表現として見せる」コンセプトがそのまま10年前の本作から続いていたことが分かる。本作はある意味『アネット』をもっと徹底したみたいな映画で、「このシーンは見ての通り役者が演じて撮ってます。そこで語っている物語に入り込むかどうかはどうぞご自由に」という風に見える。

『アネット』と同じように監督が自分で出演して、作品に導入するイントロの役割を果たす。そして盟友ダニ・ラヴァンがリッチな紳士から下水道の怪人、殺し屋、口うるさい父、死期が近い老人、そしてモーションキャプチャーのアクターなどに変化する。

それぞれのエピソードには全く連続性はなくて、しかも断片的に終わるのでバラバラになってしまいそうなものだけど、なぜか統一感がある。お話全体のフレームとして彼が楽屋として使うリムジンがあり、老女優が演じる運転手兼マネージャーがいる。

絵柄でいうとリムジンがすごく効いている。主人公に見えるくらいだ。リンカーンのストレッチリムジンがパリと郊外をぬるぬると走り回る。車内シーンはたぶん車より広めのセットで、昔ながらのリア・プロジェクション(窓の外の風景をバックに映写しながら撮る)だ。長さ8mくらいのはずだけど、異様なプロポーションでもっと長く見える。

本作ははじめから物語に没入させる意図がなくて、そういう意味でのリアリティの調整はしていない。現実があるとすればこの映画が実際に撮られている、という点だけだ。どことなく非現実的なリムジンはすごくそれにあっている。主人公に見える、と書いたけど、ラストを見れば全否定もできないだろう。

■画像は予告編から引用

ベルファスト & The Hand of God  映画作家の自伝と街と

ベルファスト

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ストーリー:1969年、北アイルランドベルファスト。少年バディは両親と兄、祖父母たちと長屋で暮らしていた。ある日プロテスタント住民の集団が、カトリック住民が多い通りを襲撃、車が爆発する。その日から道路は封鎖され、彼らの暮らしは落ち着かないものになった。ロンドンに出稼ぎに行く父はこの街を出ることを考え始める。でもずっとこの街で生きてきた母は街を出たくない....

祝、94回アカデミー脚本賞ケネス・ブラナー監督の少年期の半自伝である本作、思った以上にエモーショナルでまっすぐな作品だった。映画監督の自伝作品、最近だと当然『ROMA』を思い出す。エレガントなモノクロ画面で少年時代の街の風景を映し出すところも一緒だ。お手伝いさんの視点で語る『ROMA』と較べると、本作、語り手と物語の距離が近い。そして物語がとにかく直球だ。

極端にいうと「アイルランドの『ROMA』」というより「ベルファストの『ALWAYS 3丁目の夕日』」とさえ言えるような直球さがある。『3丁目の夕日』はある意味捏造されたノスタルジーだから自伝と比べるのもアレだけれど、本作でも過去の記憶を、たぶん観客が飲み込みやすいよう、分かりやすいエモーション込みでだいぶチューンしているだろう。

まず舞台になる路地だ。一家が住むアパートメント前の路地、かなりコンパクトな、長さ100mもない道路。ファーストシーンでは子供達がいっぱいに遊びまわって、大人たちはのんびり世間話している。その人口密度は明らかに映画的誇張で、長いワンカットで大人や子供のいろんな表情や思い思いの過ごし方を見せて、その後の....とコントラストを出している。

それから両親。監督自身「子供の頃の記憶では両親をじっさい以上に美化するものだよ」と言っている通り。役としては紛争の中で苦しい生活や子供の心配で頭が痛いお母さんと、不器用で競馬や酒が好きな大工のお父さんだから、味のある役者を配してもいいところだ。本作のお母さん役は元モデルの足が長い美女だし、お父さん役もベタな「労働者階級」風じゃなく、少し教養人的な雰囲気さえある、これまた元モデルのイケメンだ。まあでもここも切なさはあるんだよね。大人になって、今の自分より若々しい両親の写真を見る感じ。

そして9歳の少年に人生の味わいを教える祖父母。おばあさんは厳しいながらも優しく、おじいさんはちゃめっけがあって妻を愛し続けていて、同級生に恋したおませなバディに色々アドバイスをくれる。かれらが住む家は部屋の外の裏庭にトイレがあるような庶民階級のものなのだが、やさしいライティングで居心地良さそうに見える。

物語は、1960年代末から激化したプロテスタント系とカトリック系の紛争を背景にしているから「戦時の日常」のような暗い影も不安もある。でも前面にあるのはある種理想化された「生活は苦しいけれど、それぞれを思いやる、希望をもった若い頃の家族」そのものだ。上の世代がそれを柔らかく見守る。誰でも入っていけるし、共感できる人が多い、ウェルメイドな物語だった。ラストも予想できるけれど主人公が一歩大人にならざるを得ない、そのドアを開ける瞬間できれいにまとまる。

冒頭、今のベルファストの空撮から始まる。ヨーロッパ有数の造船所や工業地帯から都心部、そして同じ家がびっしり並ぶ下町の風景まで飛んで、ふっとモノクロに変わる。監督は今までフィルムで撮影してきたけれど、本作は予算規模もあってデジタルになった。中望遠のボケが綺麗なレンズと人物から空までピントが合う広角レンズが印象的で、とても美しい。モノクロはどこか抽象的になるせいか、ベルファストを知らない僕でも自分の育った街路に引き寄せて見られるところがある。風土って色に出るしね(今のベルファストの風景)。

作中、とても分かりやすく少年が見る映画の画面だけカラーにしている。希望の印でもあるし彼がずっと先に入っていく世界だ。

美化された両親がいちばん映えるのが、パーティーのシーンだ。バンドが入ってなぜかお父さんがボーカルを取り、お母さんは華麗にステップを踏む。お父さんが歌うのが『Ever Lasting Love』。アフリカンアメリカンのロバート・ナイトの曲だ。見ていて「アイルランドってR&Bがすごく愛されてるのかなー」と思っていた。昔の映画でアイルランドの若者がR&Bのバンドを結成する『コミットメンツ』を思い出したのだ。じっさいはこの曲、1968年にイギリスでカバーされて1位になっていた。お父さんは当時のヒット曲を歌っていたのだ。

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■The Hand of God

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ストーリー:1980年代、ナポリマラドーナSSCナポリに加入し街が話題騒然としている頃だ。10代の少年ファビエットは両親と兄と暮らす。父は銀行員でそこそこ裕福な暮らしだったが母は夫が愛人を囲っていると疑う。そんなある時家族を悲劇が襲う。ファビエットはそれでも未来に向かわなければいけない。「映画監督になりたい」そんな夢が彼を捉える....

映画作家の少年時代の記憶、それと固く結びついた故郷の街の記憶。もはや1ジャンルと言っていいくらい『ROMA』『Belfast』と同じ作りだ。監督パオロ・ソレンティーノ作品では『きっとここが帰る場所』を見た。割と奇妙で主人公が旅するアメリカの田舎の風景が印象的な作品だった。本作、イオンシネマで一時公開していた。『ROMA』の限定公開といい、イオンシネマにはだれかシネフィルの担当者がいるに違いない。だってアートシアター系とかじゃ全然ない、流通系シネコンですよ。

物語は事実に近いらしい。だとすると監督の人生自体、なかなかにフェリーニ的というかすでに映画的誇張された登場人物に彩られていると言わざるをえない。少年にはやけにセクシーな叔母がいる。旦那は裕福だが妻が家の外で遊んでいると思っていて暴力的だ。親戚のおばさんたちは誰もがでっぷりと太っている。男爵夫人と呼ばれるゴージャスかつ奇妙な老婆がいて少年たちの生活にも絡んでくる。スーパーマリオに似た言葉少なな近所のおじさんもいる。母はまともかと思うと深夜に絶叫したり、人をわざわざ雇って夫にドッキリを仕掛けたりする。上の『ベルファスト』の美化とは一味違った家族のビジュアルがここにはある。ちなみにお父さんは一見おじいさんに見えるのだが、実際は60そこそこで『ゴモラ』『湖のほとりで』に出演するイタリアの名優だ。

本作は主人公の少年が人生の目標を見つけて、大人に向かう話なのだが、青春もの的な同年代の恋愛や性愛の対象はまったく物語内に存在しない。少年の女性への興味は、すべて親世代以上の人物たちが受け止める。ここもイタリア映画の伝統めいたものを感じずにいられない。昔よくあったでしょう。少年が年上の女性教師に大人にしてもらう系の物語。

そして本作も監督の故郷ナポリが第二の主人公みたいに映される。冒頭シーンからすごく、空撮で海からナポリの丘陵地帯に広がる街が映され、カメラが寄って海沿いの道路を走る車を追い、また海側に向いて、地中海と沖合の島々が映される。非現実的なまでに美しい。その後も一家で行くリゾート地のパーゴラ下でのランチ、有名なカプリ島での休日、火山島ストロンボリ島の風景...ナポリというと近年行政が崩壊状態になって町中ゴミ屋敷化したニュースや映画『ゴモラ』的イメージだったけれど、監督は「いずれ出ていくしかない」といいながらも愛情を込めて美しく撮る(ナポリの風景)。

ちなみにタイトル『The Hand of God』はもちろんマラドーナ’86W杯での「神の手」ゴールに引っ掛けている。当時のまさにアイコン的存在だったのだ。5人抜きゴールのシーンもちゃんと出てくる。

 

 

フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊

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ストーリー:1970年代頃、フランスのとある街。カンサスの地方紙イブニング・サンのフランス支局では編集長(ビル・マーレイ)が腕のいいジャーナリストを集めて「フレンチ・ディスパッチ」誌を刊行していた。しかし編集長が急死する。遺言に従って発行される次の最終号に掲載する、3つのストーリーが語られる....

公式サイトでもストーリーらしいストーリーは書いてない。語りにくいのだ。映画全体が雑誌感を醸し出すつくりだから、内容も雑多さが売りで、同じオムニバスでも『偶然と想像』みたいな3本共通するものが色濃くあるタイプとも違う。

モデルになった雑誌「The New Yorker」は1925年創刊、雑誌が売れなくなった今でもサブスクと紙面で100万部以上購読者がいるらしい。下のサイトで表紙のイメージがわかる。記事は名作も多い。映画『カポーティ』にあったトルーマン・カポーティの代表作『冷血』もそうだ。

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本作はそこにアンダーソン監督らしい「おしゃれな海外」への憧憬がまぶされて、フランスの架空の小さな街にある編集部から、フランス流のあれやこれやのエピソードがアメリカの読者に発信されるという設定だ。カバーデザインも(本編には出てこないのに)実にいい感じで作られている

本作の3つのエピソード、3人の記者が出てきて、3つの記事が書かれるいきさつがストーリーになっている。雑多と言ったけれど、それなりに共通点はある。どれも書き手がある種の作り手に心を惹かれて記事にするストーリーだし、どれも警察組織と、対立する何かのコンフリクトがストーリーを引っ張っていく。

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1つ目の記者は批評家のベレンセン(ティルダ・スウィントン)、監獄で壁に抽象画を描くアーチスト兼凶悪犯罪者(ベニチオ・デル・トロ)と看守(レア・セドゥ)、美術商(エイドリアン・ブロディ)が登場人物。アウトサイダー的なアートが「発見」されていく感じをドタバタ混じりで見せる。

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2つ目の記者はクレメンツ(フランシス・マクドーマンド)。5月革命を思わせる学生運動のリーダー(ティモシー・シャラメ)と知り合って深い仲になり、片方に思い入れてしまった彼女は学生たちの宣言文のライティングにも手を染め、体制と学生側の抗争を中立で書けるのか、表情を変えずに悩む。

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3つ目の記者はライト(ジェフリー・ライト)。警察署長のお抱えコックの取材に行った彼は、ディナータイムに起こった署長の息子の誘拐事件に巻き込まれる。警察と犯罪組織の全面対決のなか、コックもまた闘争に巻き込まれていく。

で、感想は、クオリティの高い工芸品を見た感じだ。トータルで満足度は高い。入念に選ばれたクラシックなフランスの街。画面も、映し出されるセットもプロップも衣装もすみずみまで監督の美意識で作り込まれる。名作でお馴染みの役者たちが次々に現れて、ちょっとした芝居も楽しげに演じる。役者のチョイスも実にいい。撮影もいつものシンメトリーを基本に四方の枠からドカンとサプライズが飛び込んで来たりして、スタティックすぎる感じもない。

もう一つ例えると高級な松花堂弁当のような、色とりどりで盛りつけた、色んな味をちょっとずつ摘めるみたいな喜びだ。品数は実に多い。時間は108分で短めだ。でも3時間近い大抵の映画より情報量は多いだろう。ただし、松花堂弁当。一品でどーんと来る重量感や、複数のエピソードが太い一本の流れを語るコース料理的なものとも違う。

工芸品という例えを出したのは、隅々まで制御された映像が、どことなくスクリーンの中で行儀よく収まり、予測もしなかったような、生々しい何かとかと出会う映像とも違うからだ。監督は彼ならではの映像体験のために、手数をかけ、技巧を凝らす。でも彼は強烈なエモーションを扱うタイプじゃない。ストーリーでも、演出でも、映像としても。それは作風だから物足りないとは思わない。ただ受動性が高い映像というメディアではエモーションが強い方が容易に入ってくるのは確かだ。

監督は、一見こぎれいで可愛い作風だけれど、なにげに狭くてむずかしい道を歩んでいるんだろうと思う。『グランド・ブダペスト・ホテル』で感じたことと同じだ。3作とも作り手と警察が絡んでくるのは、創作というものへの制約(どんどん技術的には洗練され、でも時には異様に露骨でもあり)への何かの意識があるせいかもしれない。

ちなみに、アンダーソン監督とどことなく似たところがあるフランス人、ジャンピエール=ジュネが、アメリカ大陸横断を小綺麗に優しく描いた『天才スピヴェット』。そのイメージのアメリカと逆に、テキサス生まれのアンダーソンはイメージの(それも結構ベタな)フランスを描く。そこにはもちろんここで描かれたみたいなフランスはない。当たり前だけどね。まあ日本人の僕がそこを皮肉っぽくいっても始まらない。アメリカ人がフランス文化を「ええなあアレなぁ」とストレートに描くのはいくらでもある。『ミッドナイト・イン・パリ』みたいにね。

 

 

サー・リドリー・スコット2作

リドリー・スコット。作品はwiki情報だと28作ある。半分も見ていないけれど、代表作『エイリアン』『ブレードランナー』はもちろん『テルマ&ルイーズ』も『ブラック・レイン』も残る何かがあったし、近作の『悪の法則』のドライな悲劇描写も好きだ。そして2021年、コロナ禍の中、得意の早撮りで年間にこのボリューム感を2本だ。

■ハウス・オブ・グッチ

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ストーリー:1970年代のイタリア。運送屋社長の娘パトリツィア(レディー・ガガ)は巡り合ったグッチ家の御曹司マウリツィオ・グッチ(アダム・ドライバー)をがっちりと掴まえる。2人は結婚。マウリツィオの父(ジェレミー・アイアンズ)は反対でも、商売人の叔父、アルド(アル・パチーノ)に気に入られた2人はグッチのビジネスの核心に近づいていく。パトリツィアの野望はその先へ・・・

ハイ・ブランドの世界でLVMHと並ぶグッチ・グループ。本作はグッチがファミリービジネスだった時代の最後を描いた。実話のスキャンダル(警察沙汰)の映画化だからライバル企業の嫌がらせ企画かと思ったけれど、グッチグループが協力もしてるらしい。ファミリーはとっくに切捨ててるから問題ないのかな。

本作、とにかくアッパーな映画だ。コメディ演出がベースでところどころはっきりと笑える。だいたい、全員巻舌の「イタリア風英語」で喋ってるしね。それに「成り上がり一代記」「悪女のピカレスクロマン」「ファッション業界の内幕」「上層階級の暮らし」・・・グラマラスであがる要素が多いのだ。画面もきらびやかだし、当時のグッチのオリジナル衣装がバンバン出てくるし、70年代後半〜80年代前半のヒットソングがかかる。選曲は意外にも監督がかなり自分でやっているらしい。

曲でいうと、最近対位法的な音楽の使い方ってますます増えた気がする。黒澤明が得意だったといわれる手法で、緊迫した犯罪シーンに流麗なクラシックを重ねたり、映像と音楽のエモーションをわざと違うものにするのだ。この辺りが代表。エヴァンゲリオンシリーズでもよく使う。本作も対位法まではいかないかもしれないけれど、欲望が爆発するセックスシーンに「椿姫」を重ねたりして、笑える演出でもあるし、どことなく皮肉な雰囲気も漂っている。

グッチ家のゴタゴタ、じっさいは父・叔父世代にもあと3人兄弟がいて、父にも叔父にも別の子がいて(婚外子もいて)いろんなプレーヤーが入り乱れて覇権争いをしていたらしい。本作はパトリツィアがグッチ家に入り、夫を操縦しながらライバルを排除していき...という悪女の人生、的なものになる。

レディー・ガガが実にいい。メディアで見る彼女はコスチュームやメイクアップで素がわかりにくいけれど、本作では超越的な雰囲気じゃなく、ちょっと失礼だが「庶民派」と言いたくなるオーラを見事に出している。それで肝の据わった感じはある。だから上の階級に入って(内心では見下されながら)ぐいぐいのして行くキャラクターにすごくハマりがいいのだ。夫役のアダム・ドライバーも見方によっては冴えない雰囲気をうまく引き出されている。実物の夫婦はこんな感じだ。

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from: Till Death Do Us Part | Lady Gucci: The Story of Patrizia Reggiani /discovery plus

リドリー・スコットの現場では多数のカメラをセットして、いろんな方向(や、多分ロングもアップも)一度に撮る。テイク数は少ないらしい。アダム・ドライバーは、俳優はカメラをあまり意識しなくなり、舞台的な気持ちで演技するようになるんだ、と言っていた。インプロビゼーションも出やすくなると。もちろん、明らかに役者を間近で追いながら撮ってるシーンもある。

名優エマニュエル・ベアールは「映画の俳優は、カメラの置き方で監督の意図を読み取って、演技を考える」と言っていたことがある。カメラ1台とかで撮る場合のことだろう。本作はずいぶん違うアプローチだけれど、でも俳優たちは演技しやすいんだね。アル・パチーノジャレッド・レトもちょっと大袈裟で抜けのいい芝居だ。

ちなみに日本人観客には別種の感慨も用意されている。

 


■最後の決闘裁判

<公式>←と呼ぶにはあまりに貧相な

ストーリー:14世紀、百年戦争下のフランス。領主の娘マルグリット(ジョディ・カマー)は騎士カルージュの妻になる。カルージュが戦地に出ている時、彼の旧友ル・グリ(アダム・ドライバー)が屋敷に訪ねてきた。強引に上がり込んだ彼は無理矢理想いを遂げる。被害を訴えるマルグリットと無実を訴えるル・グリ。裁判はカルージュとル・グリの決闘で決まることになる・・・

『ハウス・オブ・グッチ』と比べると残念ながら世界的に当たらなかった。大コケといった方がいいだろう。アメリカ市場でMCUとかワイルドスピード的なの以外の大作は(本作の製作費は100億くらい)存在できなくなってきているといわれるけれど、それを証明してしまってるような成績だ。撮影はコロナ直撃で中断し、公開もコロナの影響を受けただろう不運もある。日本ではほとんど劇場公開していないからか、公式サイトは存在しないも同然だ。

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ぼくも配信で見ている。大作らしい風格ある画面で、実物の古城でロケした『ゲームオブスローンズ』みたいな豪華な中世的風景とドラマだ(史実ベースだからドラゴンはいないけど)。エロも残虐シーンも抑制的で、ようするに「堂々たる」と言いたくなる歴史映画だ。

ストーリーは史実を元に、出演している(製作にも入っている)マット・デイモンベン・アフレックが中心になって脚本を書いた「RASHOMON」スタイルの物語。ここが面白さのコアでもあるし人によってはドライブ感がないと思うところかもしれない。

黒澤の『羅生門』は一つの事件を複数の関係者視点で見ると全然違うものに見える、という語り口だ。目まぐるしいストーリーとアクションで観客を振り回して連れて行ってくれる物語じゃなく、同じ物語を何度も見直して咀嚼して得られる、発見の楽しさだからダイナミズムは少し欠けるかもしれない。

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あと、3者の視点、カルージュ、ライバルのル・グリ、そして被害者でもあるマルグリットの語る真相の違いには事実レベルのはっとするような差がなく「お前から見ればそうだろう」的違いなのが、このスタイルにある意外性に欠けている気も若干した。自分の好みでいえば、複数視点スタイルはA視点で見せなかった何かがB視点やC視点であらわれて、最後に全貌が理解できるのが好きだ。『その土曜日、7時58分』みたいなね。

本作、出来事はだいたい最初に見せられていて、立場によって捉え方が違う、という描き方だ。それが狙いなんだろう。ライバルとはいえ男2人がなんだかヒロイックに捉えている自分たちの物語は、女性から見ると全然そういう風には見えてないよ、という今の時代の反省を込めている。

2019年火災で大被害を受けたノートルダム大聖堂の建設中の姿がパリ風景のシンボルとしていつも映っている。大聖堂って場合によっては何百年もかけて作る。実際は物語の時代には完成していたけれど、再建中の大聖堂へのオマージュも込みでこの風景を入れたのかもしれない。

■画像は予告編からの引用

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