アレックス(原題:irrevresible=不可逆)


<参考(imdb)>*序盤、けっこう書き直しました(なんとなく考えが変わったので・・)
また形式の話からはいってしまうけど、この映画は一つ前に書いた『メメント』みたいな時間を逆行する構成だ。このタイプではジェーン・カンピオンの『ルイーズとケリー』(1986)、イ・チャンドンの『ペパーミントキャンディー』(1999)がある。『アレックス』はこの二つと同じように、シンプルにシーンごとに時間がさかのぼっていくスタイルだ。最初に物語上の結末をまず見せる。到底ハッピーとはいえないシーンで、観客にはこのストーリーが悲劇にむかう運命にあるんだと分かってしまう。そこから時間をさかのぼってラスト近くに、物語の中では遠い過去にある幸せなシーンを見せる。物語としてはハッピーエンドじゃないのに、映画としては最後にハッピーなシーンを見せられるから、単純に悲劇を見るのとはちがう後味がある。
不幸な現在から幸せな過去を見返すスタイルは映画ではよくある。クロニクル的な物語だと、最初に無邪気で(それなりに)幸せな時代があって、年とともに罪を背負っていき、最後にもう一度無邪気な時代を回想で入れるタイプ。あるいは最初に結末を見せて、そこから物語の最初に飛んで、結末まで進んでいくタイプ。うーんどうなんだろう・・・現実に回想するとき順序よく近い過去からさかのぼる人っているだろうか? どっちかといえば印象に残るエピソード単位でわりとランダムに思い出したり、系統だって考えるときは時間通りに回想しそうな気がする。
まっすぐ時間を逆行するタイプは結局ものごとの因果関係に集中させる効果があるのかもしれない。見る側はわけも分からず見せられたシーンの意味づけをしたくて、その根拠を渇望するだろう。物語が「どうなる?」じゃなく「どうして?」という関心で引っぱっていく。自然と物語自体も因果応報的なニュアンスが色濃くなっていくんじゃないだろうか。行き当たりばったりのストーリーってあるでしょう?そういう面白さもね。でもそれを逆行してもぜんぜん面白くないはずだ。時間逆行タイプは順行にして見るとやけにつまらないとよくいう。それだけ首尾一貫した話にしてあるからだろう。
まぁ、そうはいってもこの映画の場合は比較的「首尾一貫」のしばりは薄いかもしれない。その分ストーリーが極端にシンプルなのだ。おまけにシーン内ではほぼ即興で会話させていたというから、物語上の因果応報というよりそれぞれのシーンの空気感みたいなもののグラデーションを感じさせるつくりなんだろうと思う。ラストも夢みたいに切りっぱなしで感慨だけを残すエンディングだ。

ストーリーを時間軸に沿って(シーンの順と逆に)書くと、ヒロインのアレックス(モニカ・ベルッチ)の幸せそうなところから始まる。子供たちが遊ぶ公園の芝生広場だ。アレックスはつきあっていたピエール(アルベール・デュポンテル)の親友、お調子者のマルキュス(ヴァンサン・カッセル)と浮気して乗り換える。マルキュスといい気分の朝を迎えた後、試験薬で妊娠を知る。あたらしいカップルと未練たっぷりの冴えない元カレは3人でパーティーに行く。しかしカップルは喧嘩してアレックスだけが店をとびだし、一人で深夜のパリを歩き出す。道を渡ろうとした地下道で悲劇が起こる。異様に暴力的なゲイにレイプされ顔面が崩壊するくらいになぐられるのだ。それを知ったマルキュスは復讐心に狂ったようになり犯人を探そうとする。彼らがいるクラブ「レクトゥム(直腸のこと)」にたどりついたマルキュスとピエールだが、かれらにも過酷な運命(というか異様に暴力的なゲイたち)がまちかまえていた。ラストはピエールが逮捕されマルキュスは救急隊のストレッチャーに乗せられて搬送されていく・・・
映画全体の香りは『メメント』のロジカルで謎解きゲームっぽいそれとはまったく違う。時間逆行の構成は謎をつくるためじゃなくエモーションをゆさぶるためのものだ。ファーストシーンはノエの前作『カルネ』『カノン』のおっさんが語る気持ち悪いシーンで、そこからいきなりクライマックスの暴力にいく。どうにもエクストリームな暴力描写で、しかもそれは復讐ですらなくまったくの不毛だったことがわかる(一回見てもわからなかったけどね)。観客の生理を刺激する可聴域下まで届く低音BGMと必要以上に振り回されるカメラ、魔窟然とした暗くて赤い光だけで見せるクラブ。カンヌの上映で途中退席した観客が1割近くいたというけど、描写への嫌悪だけじゃなくBGMの生理的不快感も大きかったらしく、しかも監督はそれねらいでこの音響を採用していたという。とにかく映画の序盤は、半狂乱になったマキュアンが夜の街を徘徊するシーン、さらにアレックスのレイプシーン、とつづき、ぐったり疲れる。レイプシーンはその長さと暴力性で話題になったというけれど、スプラッター的な露骨な暴力というより(もちろんそうなんだけど)とにかく犯人のかもしだすいやーな感じがねばっこく画面を支配する。
ここで観客が見せつけられる暴力はYou tubeでふいに見かけてしまう実録暴力映像に似ている。いきなり出てくる暴力は「それがだれか」という情報がほとんどない。ただ誰かが誰かに破壊されているところをワンカットで見せられるだけなのだ。特にゲイのレイプ犯はこの世界にある暴力を人間の形にしただけで、いわゆるキャラクターの要素はほとんど持っていない。顔だって暗いクラブでは見間違えそうな程度だ。この男はだれでもいいのだ。偶然見た動画で残虐行為をしている「側」と同じだ。単にそっち「側」なのだ。そして被害にあうアレックスもこの時点ではだれでもない単なる被害者の「側」だ。もう一つの強烈な暴力の当事者は後でだんだんと人となりが見えてきて印象が変わってくる。これも実際の暴力事件をわれわれが知るときと似ている。まず暴力の事実がある。その後、たとえばそれがニュースになって、ディティールが報道されていくと、われわれは想像で後からその暴力に色を付けていくだろう。とにかく序盤の二つの暴力はひとつは名前もそのままのレクトゥム(直腸)、もう一つは地下道の狭いトンネル、という袋小路的、内臓的な空間のなかで起こっている。どっちも血の色のような黒ずんだ赤のライティングだ。

さてレイプシーンから一つさかのぼると物語は急に平和になる。3人が闇に巻き込まれる前の時間にもどるのだ。画面は明るくなり、BGMは普通になり、カメラの動きも落ち着いて生理的不快感は消滅する。3人の会話のなかでアレックスがこの映画の本題にあたることをさらっと口にする。「運命はさいしょから決まっていて避けられなくて、予知夢っていうのはそれが見えてるんだよ」的なね。それと「時はすべてを破壊する」という最初のおやじの言葉。ノエは意外に親切に物語の構造をキャストに説明させるところがあって、次の作品の『エンター・ザ・ボイド』でも序盤にそういうシーンがある。シンプルに受け取れば失恋の後悔みたいな可愛いところから、新しい恋もどこかぎくしゃくしはじめ、衝動にかられて思わず危険な街にとびだし、悲惨な事件にあい、男はそこに巻き込まれて取返しのつかない暴力へ・・・というちょっとした積み重ねが「不可逆」に悲劇へ収斂してしまうという時間の無慈悲さが本題にも見える。
ただ、最後で急にクローズアップされるアレックスのお腹のあたらしい命、あれはどうなんだろう。実はレイプ犯は彼女のアナルだけを犯している。そして顔だけを攻撃して昏睡状態に陥らせる。残虐そのものなんだけど、彼女の母体としての主要器官には致命的な攻撃を加えていないのだ。この救いのない物語のあとには命の誕生があることを示唆しているようにも見える。アレックス以外の男たちはもれなく破壊し破壊される関係に落ちていった。それは何かを意味してるんだろうか。ううん・・・時の無慈悲な不可逆性に対抗してある、循環と再生の象徴としての母性・・・?ちょっとベタなテーマのような気もするが、でもそれを前面に押し出した映画を監督ギャスパー・ノエは次に撮ることになる。