六月の蛇


参考

塚本晋也の2003年の作品。
この作品を見てあらためて思うけど、塚本晋也は洗練を求めないひとだ。一見サイバーでSF的世界を追求しているものの、手作りの人間くささを大事にしているように思える。 ・・・この映画も、タイトルロールがなぜか筆書き(の縦書き)なのはともかく、モノクロの画面のなか、ライティングや極端なクローズアップ、ガラス窓を流れる雨ごしにライトをあててその影を映す手法など、古いアバンギャルド映画みたいで、クラシックな、それにどこか生硬なものを感じる。「時代」と無関係な個人的アバンギャルドというか、「作家」の匂いが強烈にする。
この映画、ストーリーだけを追おうとすると、よく分からない部分もあるのだが、ひとことでいえば3人の男女の「欲望」の形を描いている。---以下ネタバレ。
女の欲望は「肉体を見られること」で、男の欲望は「自分を消して、ただ見ること」だ。女と男の一人は夫婦だが、そこには肉体的にも精神的にもセクシャルな関係がほとんどない。夫は潔癖症で、肉体性を嫌い、窃視癖がある。純粋な「視線」としての性だ。妻は抑圧が強く、自分の欲望をさらけ出せない。ひっそりと自分の家で欲望を満たしているところを、第二の男に盗撮される。
第二の男は写真家だ。彼もまた「見る」こと「撮る」ことで女性を獲得したと感じる窃視者だ。彼は見るだけではなく、脅迫して恥辱プレイをさせ、女の欲望を無理やり解放させようとする。しかし姿はあらわさないし、決してそれ以上を求めない。女はもちろん怯え、怒り、相手を憎むけれど、やがて彼女が必要としていて得られなかった「視線」だったことに気がつき、男を受け入れはじめる。
男は夫にも働きかける(夫の前には姿をあらわすのだ)。彼が夫に睡眠薬を飲ませると、夫は窃視を象徴化したような装置を取り付けられ、幻想シーンの(としかいいようがない)お座敷ショーを見せられる。この覗き眼鏡風の「装置」塚本ならではの奇妙な金属製品で、はっきりいってこのシーンは意味不明なのだが、ファンがにやにやすることはまちがいない。
ある日夫はぐうぜん外出する妻を見かける。その瞬間、妻が窃視の対象になる。妻は今度は自分の意思で露出プレイをし、見られる快感を全面的に解放する。夫は妻が窃視の対象になった瞬間、目を離せないほどの魅力を感じて、後を追いかける。さいごに妻は人気のない空地で裸になって全身で快感にひたり、それを写真家に撮らせる。物陰で覗きながら、夫も体をちぢこませてオナニーせずにはいられない。・・・ラストで夫は暴力性にめざめ、夫婦ははじめて肉体的な愛を交わす(踊りのような奇妙な愛撫だ)。
この「欲望」の描き方、ペドロ・アルモドバルの「トーク・トゥ・ハー」を思い出した。男の欲望は女性恐怖が根底にあって、自分の肉体をさらして女に対面することができずに、自分の存在を消してオナニズムに埋没してしまう。監督は男を一人はハゲデブ・一人は末期癌とすることで、その肉体に対する対するプライドの可能性を排除した。女の肉体は美しく、自分をさらす勇気がある(まあ露出症といっちゃそれまでなんだけど)。ただ、どちらもオナニーの形であることは変わりがない。ラストのラブシーンはストーリーとしての完結性を重視したもので、すこしとってつけた印象がしないでもない。動きが珍妙なのも、監督の本来の欲望でないことをどことなく表現したかったのかもしれん。
映画では空はいつも暗く、一瞬もやむことなく雨が降り続ける。ひとびとを傘の下に押しこめる重苦しい雨だ。しかし女が解放されたとき、彼女は傘を必要としなくなり全身で水滴をあびる。そのシーンでは雨はもう重苦しいものではなくて、なにか清らかなものに見えてくる。妻役に黒沢あすか。女優としてはそんなに美人でもないけれど、地味な衣装の時と解放したときのコントラストはなかなかいい。夫役に神足 裕司。エッセイストだが、これが妙にはまり役でこのキャスティングは秀逸だ。写真家は例によって監督自身。特に声が情けない。はっきりいって、もっといい役者はいるはずだ。

結論。『どうしても監督が出演しなきゃならんのか!? と善兵衛疑問の声!!』