ニンフォマニアック


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ストーリー:渋い街に1人で暮らす初老の男(ステラン・スカルスガルド)。近所の路上で倒れている女を見つけ、家にあげて介抱する。ひと息ついた女、ジョー(シャーロット・ゲーンズブール)は男とおしゃべりするうちに自分の過去を語りだす。それは子供の頃からのエンドレスなセックスライフだった。男は対抗するようにインテリめいたトリビアやたとえ話をくり出し、ふしぎな対話は続く....

本作はトリアー作品の中では、長さを別にすれば(前後編でひとつと思うと4時間超だ)、気軽に見られる方の一本だと思う。公式でも「喜劇」っていってますしね。「作家系エロ」の古典『欲望のあいまいな対象』と似ていて、主人公の告白で話は進む。罪の告解みたいでもあるけど、それとは違う。口承文学、つまりまさに〈物語〉だ。主人公ジョーはときどきメタ的な存在になり、自分の人生について語っているのか作者のかわりに物語について語っているのかあいまいになってきたりする。
観客からすると語り手があいだに入る分お話そのものと距離があって、生々しさも減る。聞き手に教養ある童貞老人をもってきてるのでますます寓話っぽい。人物配置としては古典的だよね。古典だとこれは修道士や聖職者の役だったりする。男が理屈や教養の側で、女がウィルダネスの側にいるのは監督の前の作品『アンチクライスト』でもおなじみだ。

トリアーの笑いというと「人間存在の愚かさをあざ笑う」「ひどすぎてしまいに笑える」系のような気がするが、本作はもう少し語り口に愛嬌があって、語り手ジョーのお話をグラフィカルに絵解きしてみたりする。実写映画では日本だと中島哲也あたりがときどき使っていた手だ。ようするにヤッターマンの「解説しよう」のおしゃれ版だ。
エピソードでもっとも笑えるのはジョーに惚れた妻子もちの男が、彼女のでまかせを真にうけて家族を捨てて転がり込んでくる話。じつは近所だったらしく、妻(ユマ・サーマン)が幼い兄弟をダシに連れてついてくる。そうこうするうちにジョーが約束していた別の若い男も夕食にやってくる。なぜかみんなで食卓を囲んで、妻が芝居っ気たっぷり(フィクションの中でね)に泣かせモードで旦那をなじるのだ。ここはふつうに艶笑コメディの一幕だ。

もうひとつお話が深刻になりすぎないのは、ジョーを、ニンフォマニアである自分を完全に肯定する存在として描いているからだ。自分のありあまる欲望を罪とか病としてとらえない。おまけにちょっとスーパーなくらい強い女なので、どんな無茶をしようと観客は彼女が壊れていくんじゃないかとあまり心配する必要がない。途中で性依存症のセラピーに参加するエピソードがある。プログラムにしたがってセックスをがまんし、反省のお話会に参加した彼女だけど、結局「冗談じゃないわ、あたし病気じゃないし」とキレてやめてしまう。しばられないアウトサイダーであることに誇りを持っているのだ。パンキッシュなまでに爽快である。ひたすらに陰鬱な性依存症の話『シェイム』とトーンは違う。

トリアー作品で、セックスはいつも女性側の問題で、しかも自己破壊的に描かれてきた。『ダンサーインザダーク』ではどうだったか忘れたけど、『奇跡の海』で自分を犠牲に〈聖なる娼婦〉になる妻、『アンチクライスト』のセックスの果ての文字通りの自己破壊、『メランコリア』の鬱がこうじて自分の結婚式なのに知らん男としてしまう主人公、ろくでもない男たちのはけ口になる『ドッグヴィル』のヒロイン。女性がセックスの喜びをえることはないのだ。主人公に近い男性が、ヒロインとちゃんと愛を交わすことは(最初はあってもかわし続けることは)これまたない。
そして今回のこれは。ジョーははじめからセックスと愛を切り離している。でも自己破壊的じゃないし楽しんでいる。彼女は自分から狩りをする冒険家なのだ。たいていの人が踏み込めないところを日常的に踏破できる人だ。聞き手の童貞老人はもちろん、いったん結婚した男もその冒険に参加する資格はない。見ているだけになる。こじつけかもしれないけれど、作り手の視線はあまり変わらない気もする。なんていうかな、作り手は妄想の中でも当事者から排除されていて、どことなく女性の性にたいする恐怖の視線がある。

それにしてもシャーロットさんはまたまたムキ出しの演技だ。若い頃のジョーは別の女優(ステイシー・マーティン)にまかせて、ヌードシーンのビジュアル的魅力もある意味彼女担当という状況のなか、いまのジョーを演じるシャーロットさんだけど、「格」がありつつここまでやりきってくれる女優はそうそういないんだろうね。