シチリアを征服したクマ王国の物語 & 失くした体

シチリアを征服したクマ王国の物語

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ストーリー:昔々、山奥にクマの王国があった。王レオンスはとつぜんいなくなった息子トニオを探すため、人間が住むシチリアに向かう。それを知った人間の大公は軍を向かわせる。しかしクマの軍団は強かった。幽霊や化け猫にも怯まず都に到達したレオンス。クマ王国はシチリアを平和的に征服、レオンスは王として統治する。でも話はそこで終わりじゃなかった。クマの長老が語る続きは....

2019年、イタリア・フランス制作のアニメーション。原作はイタリアの作家、ディーノ・ブッツァーティの童話だ。

監督ロレンツォ・マトッティイラストレーター、コミックアーチスト。彼の初期のコミック作品『FIRES』だけ持ってる。対象を単純な幾何学形態に抽象化するやり方と色彩感覚はちょっと似た作家が思いつかない。BD(フレンチコミック)やアメコミは専門のカラリスト(着色の専門家)がいて、美しい色彩も分業というパターンがほとんどだけれど、本作は色彩も含めて彼だろう。画材で描いているからね。

FIRES, Lorenzo Mattotti Penguin Books

そんなマトッティが監督するとどうなるだろう....と見たら、非常に見やすく呑み込みやすい画風になっていた。原作は作者ブッツァーティが絵も描いている。映画も絵本らしさが残っている。人物は古典的な漫画調だったりおもちゃみたいだったり、背景も分かりやすい。ただポスター画像でもすぐに目に付くように、風景がなんともいえない感じで抽象的な形にされている。それに色彩。この辺りは監督の作風をほうふつとさせるし、ついでにいえば主人公のクマは見事に幾何学形態だ。

https://kuma-kingdom.com/images/ogimg.jpg

 kuma-kingdum.com

映画の語り口は、ストーリーを語り部が聞かせる口承文学の形に変えられた。語り部役の父と娘がいて、さらにもう1人出てくる。物語に額縁がつくことで距離感ができる。ストーリーは何かのメタファーというより寓話感が増した。さらに人間のヒロインと若いクマのジュブナイル要素も足された。ちなみに娘(兼ヒロイン)のキャラクターは最近のフランスのアニメで共通する人物造形だ。ルッキズムから意識的に距離をおき、自立心と行動力を前面に出した少女像。

悪い君主の追放と征服とか、支配層の堕落とか、原作の発表年(1945年)を考えると現実のメタファー的なところが見える部分はある。人間世界を征服するクマは西欧文明を征服する(彼らから見れば)野蛮な文明そのものだ。原作者が別の作品で書いているタタール人の襲撃みたいなね。あるいは今戦争を巻き起こしている大国とかだ。

映画はその辺り深刻に描かない。戦いも漫画的に処理するし「死」は描いても、柔らかな救いを用意している。征服者かつ野蛮なはずのクマたちはのんびりとした平和な力持ちで、王は十分に思慮深い。数少ない悪役が、「征服した人間の文明や文化に染まったクマ」というところも分かりやすい色分けだ。お子さんも安心して連れて行ける、それでいて画面は美しい、そんな作品だった。

クライマックスのアクションは、実はこれが最大の不満。ここだけ画風が変わってしまう感じがあって、出てくるもののデザインも他とテイストが違って、悪い意味で記号性が目立ち美しくない。なんでああいう流れになったんだろう。

トッティが今後また映画を作るのか分からない。次作がもしあれば、作家の美学が思い切り表現されたものを見てみたい気はした。

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■失くした体

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ストーリー:1990年代のフランス。病院の冷蔵庫に保存されていた、切断された手がとつぜん動き出した。手は病院を脱出して、街中を動きまわる。いっぽう、青年ナウフェルの物語が語られる。不慮の事故で孤児になった彼は希望もなく孤独だ。そんな彼がピザの配達中に出会った女性、ガブリエル。彼女に心を惹かれたナウフェルは....

2019年、フランス制作。配給はNetflix

いやしかし、このイマジネーション。体の一部が人体を離れて自律的に動く、たぶん幻想文学とかで描かれてきただろう。頭が独立する話や、手が勝手に動く話も昔からある。でも手首から先だけの手が意志と知性と視覚をもち、けっこう動けるくらいの筋力もある、というね。ここには理屈はない。

古い楳図かずおのギャグ漫画『まことちゃん』の1エピソードが急に記憶に甦った。汚い話ですみませんが、幼稚園児まことちゃんがハイキング先の屋外で大便を放出、その便が意志と動く力を持ち、川を下って道路を伝って(旅の途中で家族までつくる)、生みの親であるまことちゃんの元へと冒険するのだ。

物語装置としての「動く手」。手の移動シーンは小人や虫の冒険モノと同じスリルを与える。ちょっとした空間が移動経路になり、居場所になる。小動物が猛獣となって襲ってくる。でも私たちの手でもある。傷を追えば、自分の手が傷ついたみたいな痛みを共有する。そして手は元は一緒だった大きな何かから切り離されて、孤独で欠落した存在になっている。主人公ナウフェルと同じだ。その哀しみの表現はクライマックス近くで十分に時間をとって語られる。でも観客は簡単に思い入れるわけにはいかない。なにしろ直感的に姿が気持ち悪い。観客はその感覚を克服しなければいけないのだ。

主人公の青年ナウフェルは、元は豊かな芸術家の子だったのが救いのない境遇になる。彼もまた全く美化されない。手と同じく、ビジュアル的にもあえてのデザインだ。しかもライトモチーフとして常に蠅が彼の前にいる。彼のふるまいは1970年代の青春映画みたいに痛々しく、心を惹かれたヒロインへの態度も色々と間違っている。それでも生への何か、表現したい何か、大事に持っていた何か...見てるとそれを感じないわけにはいかないのだ。

図書館司書のガブリエルがナウフェルに渡す本がある。『ガープの世界』。なぜこれなんだろうね。登場人物たちには、ナウフェルと逆のことが起こる。

絵はラフな線の手描きに見える。CGでモデリングしたものをベースにしてると思う。物の向きが変わるときの変形とか顔の角度による見え方とか、その辺りが不思議な収まりの良さだ。

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