バーニング劇場版

 

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<公式>

ストーリー:運送のバイトをしていたイ・ジョンスはデパートでキャンペーンガールをしていたヘミに声をかけられる。2人は出身地の農村で隣同士の幼馴染みだった。ヘミはアフリカ旅行に行くから猫の世話をしてくれという。帰ってきたヘミは旅先で親しくなった男、ベンと一緒だった。何をしているのか分からないけれどリッチなベン。なぜか彼はジョンスに親しげだ。ある日ジョンスのぼろい実家に2人が来る。ベンは奇妙なことを告白する。ビニールハウスに放火するのが趣味だと。今日は下見に来たのだと...それを最後にヘミの姿が消えた。

本作は、村上春樹作品の短編『納屋を焼く』を膨らまして現代韓国を舞台にした。村上作品の映画化、当ブログでは『トニー滝谷』『ノルウェイの森』どっちも割と好きな作品だ。『トニー滝谷』はほとんど知られていないんじゃないかと思う、実験的な映画で、宮沢りえが半透明みたいなはかなげな女性を演じてすごく魅力的だった。

イ・チャンドンの作品はこれまで見たことがないからどんな作風か言いづらい。村上春樹作品ならわりと読んで来ている。そっちからはコメントしやすい。本作は、アダプテーションしながらも、原作小説の根底にある奇妙さの味わいはちゃんと残し、村上作品の読者ならおなじみのモチーフやアイコンがそこここに埋め込まれていて、映画化としてはすごく飲込みやすい1作だ。

作品のトーンはすごく抑えめだ。ぼくの中での韓国映画は(ごくごく限られているけれど)、たとえば最近作の『パラサイト』、『お嬢さん』『タクシー運転手』『Sunny』『怪しい彼女』など、作り手は違ってもある種共通して、すこし誇張してもエンタメ的な常套句に見えても、表現の「強度」を優先する部分がある。本作はこれらと較べるとじつに抑制的で、ストイックといってもいい語り口だ。

そもそも物語がミニマルといってもいいくらい出来事的にはささやかなのだ。主人公「ぼく」の前にふと魅力的な女性があらわれて、奇妙な男があらわれて、そして女性はとつぜん消える。「ぼく」は彼女の探索をはじめる。これだけだ。それと、物語全体として、登場人物への評価を保留している。称揚もないし断罪もない。

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物語は、前半はベンとヘミに誘われるまま、とまどいながら上流の暮らしをかいま見るジョンスがいて、中盤の映画的クライマックスをへて、後半は消えてしまったヘミを探すミステリーめいた展開だ。「主人公の前にあらわれた魅力的な女性がふと消える」村上作品おなじみのモチーフだ。物語は主人公の「探索」によって進んでいくけれど、あとに続くのは多くの場合「喪失」だ。一度失われたものは戻らない。

それ以外にもおなじみのモチーフ、たとえば「姿を消し、現れる猫」「涸れた井戸の底」「社会的・経済的には成功しているけれど何かが決定的に欠落している、身なりのいい男」あたりが、うまく使われている。

村上作品はしばしば、主人公=語り手の「ぼく」という1人称構造を取っている。本作もそうだ。探し求めるヘミも、ベンも、主人公ジョンスから見える部分しか観客には知らされない。1人称である以上、主人公の主観と物語内での客観はすこしあいまいなのだ。

後半は、そんな主人公の主観のなかで、1つの不吉な疑惑がだんだんとはっきりした輪郭を持ちはじめ、それを裏付けるようなサインが示されて、観客もしらずしらずにミステリー展開に乗せられるようになる。表面的には主人公はベンと会って普通に会話したりているけれど、低いBGMで静かな不吉さをただよわせる。

本作が原作にプラスしたのは、格差の構図だ。実家の家とトラックだけあって、なにも生業がないジョンスと、家を飛び出してカード破産しほとんど現金がないヘミ、対照的にポルシェ911カレラに乗って広いマンションに1人住まいするベンの底知れなさ。リッチな人々の飲み会に貧乏な2人も誘われる。ヘミはアフリカの話をきかせ、リクエストに答えてアフリカで見たダンスをしてみせる。独演会だ。

それを「お金持ちが退屈しのぎに興味もない芸も見る」様子として描く。すごく居心地の悪いシーンだ。しかもこのモチーフはあとで繰り返され、たまたまその時だけのものじゃないと分からされる。この格差の構図が、後段のミステリー部分の駆動力にもなっていく。だれも断罪はしていないけれど、どちらかといえば抽象的な原作の世界に、現実のひんやり感を加えている。

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 ロケーションは、ソウル市内と、30kmくらいはなれた、北朝鮮との境界に近い田園地帯、北朝鮮の宣伝音声が鳴り響くパジュが舞台。ロケ地情報がこんなサイトに乗っていた。パジュでの夕暮れのシーンが、さっき書いた映画的クライマックスだ。出来事はじつにささやか。ジョンスの家に車でやってきたベンとヘミと3人でリラックスした時間を過ごす。ベンが持ってきたワインや大麻でハイになったヘミが夕暮れのの光のなかで裸になって踊る。殺風景な田園地帯なのに、マジックアワーの美しい光の中で夢幻的な美しさだ。いい光の状態は一瞬だから、このシーンだけで撮影に一月近くかかったそうだ。

うまく説明できないけれど、『ノクターナルアニマルズ』が気に入る人は好きになる映画かもしれない。 ってふと思った。

■画像は予告編からの引用

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パレスチナ映画2本

新作映画はぱったりと止まった。製作のプロジェクトも止まるし、公開も延期・中止だ。苦しむ映画館のサポートキャンペーン、ごぞんじの方も多いと思う。ミニシアターエイドは全国のミニシアターを応援するクラウドファンディング。ぼくも収束後に劇場で映画が見られる「未来チケットコース」にささやかながら参加した。

ぼくが応援することにした逗子の小さな映画館でよくかかっているのがUPLINK配給の作品だ。劇場も持っているUPLINKはチケット収入がストップしたいま、配信で少しでも見てもらおうというキャンペーンを実施している。今回紹介するのはぼくも購入した「見放題60本」コースから2本、パレスチナ人監督ハニ・アブ・アサドの作品だ。

パラダイス・ナウ

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<公式>

トーリー:イードとハーレドの2人はイスラエルに占領されたパレスチナ自治区、ナブレスに住む若者。自動車修理工だった2人に指令が下る。テルアビブに潜入し自爆攻撃の実行者になるのだ。翌朝早朝に家を出て、アジトで殉教のポスターとビデオを撮影、爆弾を装着して境界線を越える。ところが想定外の展開になり、2人は離ればなれになってしまう....

2005年公開。アサド監督はイスラエル国籍を持ちイスラエルで暮らすパレスチナ人だ。自爆攻撃の実行者に選ばれた2人の若者の48時間を描く、とてもシンプルな物語だ。舞台のナブルスはヨルダン川西岸地帯の都市。撮影中もイスラエル軍攻撃で爆発があったりする危険な地帯だという。

映画は、自爆攻撃の計画が動き出してからのプロセスを描いていく。ある夜、顔見知りの組織の人間が声をかける。計画は翌日だ。その夜はいきなり別れの晩餐になる。もちろん家族にも計画のことは告げられない。朝早く組織のアジトに行き、撮影をし(かれらは市民たちの英雄になるのだ)、髪を刈って結婚式に行くようなスーツを着せられる。そして自分では外せない爆弾が体に巻き付けられるのだ。

そして用意された車で境界のフェンスを越えると、イスラエル領内にいる味方がピックアップしてテルアビブまで連れて行く計画だ。境界から海辺の街テルアビブまでは意外に近く、30〜40kmくらいしかない。

パレスチナの現状、ぼくは正直いって通り一遍しか分かってない。公式サイトの解説をまずは参考に。それからもう一つの『オマールの壁』の解説動画、日本のパレスチナ研究者のトークが生々しい。自治区というものの、実際は占領地で、圧倒的な軍事力と経済力の差はどうにもならないのだ。このNYTの翻訳記事をみるかぎり、パレスチナ側にはますます希望がない。

そんな中、本作は、急に指令が下る自爆攻撃に「いつでも心の準備が出来ている」若者の言い分をストレートに観客にぶつける。サイードが自分たちの絶望的な今と、攻撃に行くしかない思いを語るシーンが何度かある。パレスチナ人の中でももうひとつの意見として、モロッコから帰ってきた少し上流の女性、スーハがいる。彼女は非暴力でパレスチナ人の人権を訴える活動をしているのだ。自爆はかならず報復攻撃を呼ぶ。サイードに好意的だった彼女との言い合いのシーンもある。

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....ここまで書くと猛烈に重い映画がイメージされてしまうかも。でも実はそうでもない。監督は他にも商業映画を撮っている人で、本作も「政治的なメッセージを含んだエンターティメント」にちゃんとなっている。自爆攻撃に向かうかれらをヒロイックに美化することもないし、出口がなく死を選ぶしかない悲惨な日常として描くわけでもない。

作戦に向かって、一旦戻ってきてしまった2人....死の世界に足を踏み入れたつもりだったのに、断ち切ったはずの日常の空間にもういちど包まれてしまう。そんな揺れ動く思いの部分も丁寧に描写されているし、スーハがバランサーとしてとても効いていて、それから描写もすごく抑制されていて暴力的なところはまったくない。

スーハがサイードと話しているなかで「日本のミニマリスト映画みたいな日常よ」というセリフがある。これは青山真治の『ユリイカ』のことだそうだ。

 

■オマールの壁

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<公式>

ストーリー:オマール、アムジャド、タレクの3人は幼馴染み。タレクにはナディアという美しい妹がいる。パレスチナ自治区は壁と検問所で行き来がさえぎられ、検問所のイスラエル兵に理由もなく殴られる。ある晩3人は計画を実行に移す。イスラエル兵を狙撃したのだ。すぐに秘密警察が乗り込んできた。オマールは逃げ切れず捕らえられる。拷問を受けた後、かれは解放される。しかしそれはイスラエル側のスパイとしての任務と引き換えだった.....

原題は『Omar』。でもたしかに「壁」とタイトルに付けたくなるなるくらいに壁が印象的だ。ニュース映像でも見たことがあるコンクリートプレキャストの高い高い壁だ。トランプがメキシコ国境に作っているフェンスとも違う、まさに壁だ。物語の最初で、いきなりオマールがその壁をロープでよじ上り、向こう側に越えていく。

狙撃はされるけれど、ごくごく日常の雰囲気だ。友人のタレクに、その妹で相思相愛のナディアに会いにいくのだ。壁ってそんなに気軽に越えられるの?命がけじゃないのか。これも解説やインタビューに書いてある。壁は自治区イスラエル地域の境界にあるわけじゃないのだ。自治区の中に、さまざまな理由で、でもパレスチナの都市を分断する形で延々と続いている。直線距離では近くても、ふつうのルートで行くと何キロも離れた検問所を通らないといけない。しかも検問所でも時間の予定が立てられないくらい待たされることもあるのだ。だからかれは壁を越えていく。

本作は『パラダイス・ナウ』と較べて、一段と取っ付きやすい映画になっている。登場人物がストレートにメッセージを主張することはもはやない。壁の件も含めて、パレスチナ自治区の実情を細かく説明することもしない。映画としては、青春・恋愛映画でもあるし、スパイの内面を描くスパイものでもあるし、イスラム都市独特の、建物が密集して迷路のような路地が続く空間をつかったアクションムービーでもある。

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本作は、もちろんパレスチナ自治区の実情が基本になるけれど、「信頼と裏切り」のドラマとして組み立てられていて、むしろそっちが前面に出ている。抵抗組織の中のスパイの緊張感。友人同士、信じたい心情と疑念。結婚をのぞんでいる恋人たちの中にわき上がる不信。そして裏切りの構図を演出する知性を持つ敵。ストーリーはより複雑になっている。

オーディションで集めたという俳優たちも魅力的だ。3人の若者はみんな同じ坊主刈りだけど、オマールは2枚目の主役顔だし、リーダー格のタレクは頑固で誠実そう、アムジャドはその後の展開がじつに納得できる雰囲気の役者が選ばれて、キャラクターが明確だ。ヒロイン、ナディア役の女優も美しいし、敵役、イスラエル警察のベテランも、どこか信頼できそうな雰囲気のある人で、薄っぺらい悪役になっていない。彼だけはキャリアがある俳優だったそう。

でも製作体制は前作以上にピュアというか、パレスチナ資本だけで撮り、俳優もパレスチナ人だけだ。撮影は前作とおなじくナブルスとイスラエル領内のナザレだ。監督とおなじく主演の俳優もイスラエル国籍のパレスチナ人。

スパイと恋人のドラマでいえば『陸軍中野学校』があった。ああいう香りも少しただよっている。なんていうか、こういう映画は世界中の観客に自治区の問題と実態に関心を持ってもらう、入口としての意味がある。ちゃんと中が見える、開けやすいドアになっているのだ。

■画像は予告編からの引用

 

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怪しい彼女/あやしい彼女

『怪しい彼女』。2014年公開の韓国映画だ。『あやしい彼女』。2016年公開の日本版リメイク。オリジナルはシム・ウンギョン主演、『Sunny 永遠の仲間たち』、最近だと日本映画『新聞記者』で日本アカデミーの主演女優賞を獲得した。日本版は多部未華子がヒロイン役。

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<オリジナル予告編><日本版予告編>

ストーリー:73歳のおばあさん。若い頃に夫を失い、病弱な子供に満足な治療もできずに貧しいなかで育てた。口が悪くがさつなおばあさんの評判はあまりよくないけれど、若い頃から彼女を慕うおじいさんがいる。ある日、彼女は見慣れない古ぼけた写真館で思い立って写真を撮る。すると彼女は20歳の体に若返っていた。若い娘になった彼女は家を飛び出してあたらしい生活を思い切り楽しむ。ひょんなことから歌に出会い....

さいきん、女優の杏がギター弾き語りで歌う古いフォークの映像を公開した。もともと歌のうまさに定評がある彼女は、声もそうだけど、じつにタイム感が良くて、たとえばキリンジの『エイリアンズ』のカバー(Youtubeで見つかります)も、リズムが取れないと様にならない曲を歌いこなしている。この曲も反戦フォークの原曲を自分のリズムで淡々と歌いきって、なんていうんだろう、もはや人としての高みめいたものすら感じさせた。

感動しながら動画を見てると、関連動画で多部未華子『悲しくてやりきれない』に出会うのだ。ええとですねみなさん、今回紹介してる映画はおいといても、この2つは見ておきませんか(追記。多部未華子の動画はアンオフィシャルなので今は見れません。映画で見てね)。泣けます。はらはらと。こちらはドラマの1シーン風で、たぶん通しで1曲歌って撮ったんじゃないだろうか。歌う彼女は、感情が込み上げて最後は嗚咽しそうになっている。

それが本作『あやしい彼女』だった。今回見たのもそんな出会いがもとだ。オリジナル『怪しい彼女』はプロットがよく出来ていたせいか、アジアの数カ国でリメイクされた。各国の予告編集がこれだ。こうやってみるとオリジナルにわりと忠実そうで、笑わせどころも同じ撮り方だ。日本版も相当に忠実なリメイクだった。

www.youtube.com本作は若返りモノ、実際にはありえない荒唐無稽な話だからコメディーだ。ヒロインは若い娘だけど心がおばあさんのままで、最初は服装センスも古いし、言葉遣いもなんだか変だ。昔のことをいやによく知っているし、妙に人生経験豊かな説教を始めたりする。コメディーとしてはそういうヒロインのギャップ演技がキモになる。

おばあさんならではの、苦労して育てた子供や孫への思いや貧しかった時代の記憶が積み重なった人生が泣かせ部分のキモ。アジア各国でリメイクされたのも、「おしん」が各国で愛されたのと似て、このあたりの情感はだれでも飲込めるからだろう。

もうひとつのキモが歌だ。若返ったおばあさんは、町内演芸大会で頭角をあらわし、そこにいた孫と有望なシンガーを探していたプロデューサーの目にとまり、孫のバンドのボーカルとしてどんどん売れていく。懐メロをバンドサウンドに乗せて歌い、オリジナルの曲もライブで披露する。

オリジナルは、この3つのキモのバランスが取れている。コメディー面ではヒロインの演技がよりコメディー方向に振り切れている。おばあさんはもともと相当にがさつで口が悪い。20歳の彼女も下町のおばちゃん色がより強いのだ。シム・ウンギョンの芝居の雰囲気は日本でいうとちょっと前の上野樹里や、あとは、そう、能年玲奈の感じに近い。

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日本版の多部未華子はあきらかに可愛さよりだ。じっさい可愛い。コメディー的な変顔も魅力的だけど、おばあさんギャップは少し薄口だ。それにもともとのおばあさんが倍賞美津子なのだ。しばらく見ないうちにまごうかたなきおばあさんになっていたが、こちらも元々相当な美人女優だ。

泣かせ部分。じつはリメイクでは設定がおおきく変えてある。オリジナルではおばあさんの子は息子。大学教授になり、結婚し、男女の子がいる。おばあさんはきつい姑で、いろいろあって家にいづらくなるのだ。日本版では娘。小林聡美が演じる娘も夫がいない。母ー娘ー孫の3人家族だ。息子は母の前では純粋に息子だ。でも日本版では娘もまた母であり、女の人生を受け継いでいく、そんな話になっている。だからじゃないがクライマックスの泣かせセリフが少しありきたりに感じた。

そして、歌。ここは各国の観客にはご当地版が強いだろう。日本版はよく知られた昭和歌謡(1960年代)3連発。しっくりくる。韓国の懐メロも知ってる人にははまる選曲なんだろうけど、ぼくは知らない。多部未華子は相当レッスンを積んだらしく、じゅうぶん映画の魅力になっている。懐メロを聴かせたあと、彼女と孫のバンドはオリジナル曲で勝負する。ただ、そこで1つ問題がある。

本作で1番エモーショナルな歌唱シーンは、中盤の「悲しくてやりきれない」なのだ。物語のクライマックスはオリジナル曲シーンなのに、肝心のその曲(小林武史プロデュース、どことなくMyLittleLover味)がおどろくほどインパクトがないし、多部もバンドボーカルはさすがにいまいち様にならない。延々と聞かされても瞳は乾き切ったドライアイにならざるをえない。

オリジナルとリメイク、日本の観客でもどっちが好きか意見が割れるかもしれない。すごく正直にいうと、日本版は少し画面がしょぼく見えてしまう所がある。半分はねらいだと思う。全体をノスタルジー風味のささやかな世界に描いていて、墨田区あたりが舞台、家族の家も小さな建物だし、プロデューサーの自宅もなぜか戦前モノ風の一軒家だ。業界人が古民家趣味はいやに渋い。オリジナルはベタに高層マンションだ。

それ以外もオリジナルはちょっとダイナミックな見せ場を作ったり、望遠レンズと光の回り込みを上手くつかって、おじいさんおばあさんといえどもみずみずしく撮ってみせたりするのに、日本版はやや平坦なものを感じる。オリジナルも制作費は3億程度らしく、そんなにあるわけじゃない。日本版はさらに少なかったんじゃないか。

ただ日本版でちょっと気の効いたシーン転換とか、付け加えたエピソードとか、いい感じに効いてるところもある。あとは多部未華子が十分に魅力的だったから満足した。全体には好感もてる1作です。ただ一つだけ野暮な突っ込みをすると、おばあさんの回想シーンで娘の幼少期、計算すると昭和40年代くらいのはずだけど、なんだか戦後すぐみたいな雰囲気なのだ。あそこまでじゃなくない?

■写真は予告編(上:オリジナル、下:日本版)からの引用

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緋牡丹博徒 

緋牡丹博徒シリーズ。東映藤純子主演の女侠客モノだ。1968ー1972年に8本製作された。当時大映で当たっていた女侠客を東映でもやろうということになって、名プロデューサー俊藤浩滋の娘、藤純子をヒロインに企画。任侠系のプログラムピクチャーの1つだ。『仁義なき戦い』から始まった実録物以前、任侠道を何より大事にするクラシックなヤクザたちの物語だ。

 

■緋牡丹博徒<参考>

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シリーズ1作目。序盤で、明治中期、熊本人吉の矢野組の1人娘竜子の無邪気な娘時代から、決まりそうだった結婚が破談になり、父が何者かに殺され、組は解散、復讐を誓って博徒の道に入り、「緋牡丹のお竜」として知られるようになった所まで一気に説明される。

5年の修行を経て、お竜は賭場での腕も一流になり、口上もびしっとこなし、刃物を持ったチンピラに囲まれても小刀一つで切り抜け、度胸はだれにも負けない、そんなハイスペックな博徒に成長する。成長物語というよりはすでにヒーローとして完成した状態だ。

本作はまず、親の仇を討てるかどうかが本筋になる。とはいえ、物語のフォーマットは初回で固められている。だいたいこんな流れだ。

・旅するお竜がある土地に流れ着き、地元の組に世話になる。

・賭場で一モメあったり出会いがあったり。

・助っ人役の流れ者と出会う。

・世話になっている組と対立する組がいる。利権を物にするために汚い手を使ったり、抗争を仕掛けてきたり、とうぜん悪辣だ。

・何度かの小競り合いではお竜が先頭に立って敵地に乗り込む。「サイコロで決めようじゃないか」的な博打勝負シーンがはいる。

・やがて抗争がエスカレートし、敵が許しがたい一線を超える(大事な人が殺される)。

・お竜は組同士の抗争を起こさせないため、単身で敵の集団に挑む。いつの間にか助っ人が現れ、共にばったばったと敵を切り伏せていく…

本作ではシリーズものの重要なレギュラー陣も登場する。彼女を世話する大阪の女組長(清川虹子)、義兄弟の契りをかわす熊虎親分(若山富三郎)たちだ。本シリーズは一応世界観は連続していても、登場人物はだいたいリセットされ、高倉健は毎回違う役で出る。けれどレギュラー陣は別だ。

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この手の映画、あまり見てきていないからたいしてリテラシーも高くないけれど、とにかく様式の映画なので、すぐに飲込める。善玉は曇りなく善玉(ヤクザではあるんだけど)だし、悪役は多少共感できるところもあっても、クライマックスに向けて悪どさがエスカレートしていくので、成敗やむなしという気分になる。とうぜん悪役は成敗されてすっきりと終わるのだ。

観客は予定調和の世界に浸り、もとめるものは絵になる役者の立ち姿だ。藤純子は後年、富司純子化してからの方が記憶にあった。本作ではなるほどヒーロー/ヒロインものの主役にはまり切っている。上戸彩をほうふつとさせる一瞬もありつつ、甘さのない端正な顔、やや角張った骨格で凛とした強さを見せながら、黒目がちなつぶらな瞳で善玉感と女の可愛さも表現。

「女は捨てました」と言い切るお竜は、小刀だけじゃなく拳銃も持っていて、接近戦では柔術めいた体のさばきとこれらの武器で無敵級の強さを発揮する。もちろんそこは様式だからつっこみは野暮だ。そんな凄腕の博徒でありつつ、大多数だっただろう男の観客に受け入れられやすいように(企画も脚本も演出も男なわけで)、スター俳優の助っ人にはかいがいしく接したり、すがってみせたりする。

相手役の高倉健は当時30代半ば、本人はいつも同じ寡黙な侠客役ばかりで、やめたかったらしい。そうはいっても図抜けて絵になる立ち姿だ。あと彼女を支える熊倉組の幹部役、待田京介が気になる。この役者さん今まで知らなかった。ちょっと悪役風の人相だけど格好いい。

 

■緋牡丹博徒 花札勝負<参考>

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シリーズ3作目、本作の舞台は名古屋だ。世話になる組の親分は嵐寛寿郎、敵役の組長は小池朝雄、助っ人はまた高倉健だ。今回見た3作の中ではこれが一番面白かった。偽お竜との出会いから始まって、親分の息子がらみのロメオとジュリエット的恋愛騒動がはいり、偽お竜の目の見えない娘へのヒューマンなエピソードも絡む。

本作でいいのは敵役、小池朝雄だ。一足先に近代化してビジネスに進出するヤクザ。洋風の応接間がある屋敷で、親分衆の会合でもスーツを着ている。露骨な悪役顔じゃなく、顔を歪めたり、無駄に凄みを効かせるでもなく、淡々とした悪役だ。敵だからもちろんこちらがわの組の利権を奪いにかかるけれど、トラブルの一因になっているロメオとジュリエット的恋愛では、どっちかというと被害者なのだ。

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本作、明治時代の名古屋が舞台でロケも多い。街中というより旅の道中だ。西部劇テイストがところどころにある。荒野を馬車で疾走してると、馬にのった相手が現れたりする。登場する名古屋駅も、時代考証してるとは思うが(形は少し似ている)、ずっと本物より小さく、西部の駅みたいだ。黒澤明『用心棒』以来、時代劇にウエスタン風を入れるのはありになっていたけれど、唐突さが面白い。

助っ人高倉健との出会いのシーンも印象深い。鉄道の高架橋の下を舞台にして、傘を印象的な小道具に使う。高架橋では上を通る蒸気機関車の水蒸気が下方向に吹き出されてスモーク効果を出している。高架橋と傘はのモチーフは何度かくりかえされる。

本作の高倉健、雰囲気は第1作よりもう少し若そうな立場の流れ者だ。相変わらずシュッとしていて様になる。見ていて気が付いたけど、若い頃の高倉健、なにげに瑛太が少し面影が似ているね。

レギュラー陣では、大阪の姐さん、清川虹子が頼りになる親分として貫禄を見せ、若山富三郎はコミカルさと合わせて強さも表現。立ち回りシーンの中でよく見るとものすごくトリッキーな動きをしていて、評判の身体能力の高さをにじませている。若山の手下、待田京介もまたまた登場、集団戦シーンでは無双ぶりを発揮している。敵役では賭博のプロ、五十嵐が不気味な存在感でなかなかだ。

 

 

■緋牡丹博徒 お竜参上<参考>

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「シリーズ最高傑作!」的評価が多い本作はシリーズ第6作。世話になる組の親分はまた嵐寛寿郎、敵役の組長は安部徹、助っ人は菅原文太。ストーリーは「花札勝負」と繋がっていて、その数年後の話だ。たった4年間のシリーズだけど、お竜は23歳から始まって、そこそこの歳になっているようなのだ。

花札勝負」で世話した目の不自由な少女、お君をさがして浅草にやってきたお竜が、世話になっている組の芝居興行権を奪おうとする敵の組との抗争に巻込まれる。博徒の世界と芝居小屋、東京一の繁華街だった当時の浅草。そこにお君と許嫁のロメオとジュリエット的悲恋が挟み込まれる。

ストーリー的には敵役の悪辣さが3作中でも図抜けていて、組長役安部徹のシリアスな悪役顔とあいまって、じつに憎々しい敵だ。暴力や脅しや窃盗や実力者への根回しや、あらゆる手をつかって利権を奪いにかかる。そして悲恋を悲恋にしてしまうのも彼らだ。

本作はその映像美でかたられることが多い。3作の中で言うときわめて抽象度が高いのが特徴だ。「花札勝負」ではロケが多く、実在の鉄橋や橋や田舎道などの、画面の情報量が多かった。本作は室内セットを別にすると、大道具だけで背景は単色、という画面が多い。単に屋外セットを組む予算や時間がなかったんじゃないかという気もするが(屋外シーンは風景のひろがりがない)、独特の(とはいっても後年の時代劇でもときどき見かける)画面になっている。

明治時代の浅草が舞台となるとロケで雰囲気を出せる場所もそうそうなかっただろうから、そこは苦労の末のあの感じなのかもしれない。浅草のシンボル、凌雲閣(関東大震災で倒壊した)は、セットに映り込ませている。

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画面構成はすごく意図が見える。人の配置もありきたりじゃなく、前景や地面で画面をトリミングして片隅で役者が芝居するシーンもある。吉田喜重の『戒厳令』を思い出す構成だ。室内では高低差を生かした戦い方やシーンが多用されていた。それから橋が何度も出てくる。時代劇調の太鼓橋、永代橋のような鉄骨のアーチ橋、別れの舞台になったり、抗争の舞台になったりする。

本作の助っ人、菅原文太がじつに格好いい。『仁義なき戦い』『トラック野郎』とかの直情型で純情なキャラクターじゃなく、寡黙で抑えめな、影のある役だ。それがぴったりくるかはともかく、角刈りで黒っぽい着物に身をつつんだ長身の菅原はおどろくほどに引き締まった存在だ。レギュラー若山富三郎は1シーン活躍するが、あまりに唐突。

写真は予告編からの引用

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翔んで埼玉

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<公式> ←驚異的に情報量が少ない

愛しのアイリーン』と同日公開(ブログ的に)。こちらはあんまり書けることがないので、オマケです。おなじく漫画原作だけど、1982年だから40年近く前! 当時はたしかに「埼玉ダサい」の笑いはけっこうあった。23区をイメージでランキングしたり、たしか「地元が埼玉なのを知られたくないOL」みたいな漫画もあった気がする。

それをいま映画化し、しかも2019年でいえば邦画の中では興行収入8位、37億超で、実写では3位だから大成功だろう。地元埼玉でたしか10億くらいいってるはずだ。つまり「埼玉ダサい」ネタ、県民ネタは21世紀でもぜんぜんアリだったのだ。ぼくはそのあたり観客はピンと来なくなってきてると思っていたから意外だった。

東京への集中はたしかに進んでいる。でもイメージでいうと、渋谷でも新宿でも、例えばアパレルの店はテナントのビルに集中してきていて、どこのターミナルでも店舗はあまり変わらない、ってよくある。地方都市のターミナルもアーバンデザインも1980年代と較べると圧倒的に洗練されていて、だささは感じない。情報格差によるあこがれも今はもない。

作り手もその辺を承知で、「実写で描く漫画」的な、行き切った壮大なネタものに仕上げたのかもしれない。同じ埼玉モノだとしても、昔だったらもうちょっと登場人物の心情にそった地域コンプレックスとかをしっとり描くやりかたもあったかもしれないけれど、本作でははじめから「ありえないでしょ」と単純に笑える描写にしている。たしかにところどころ軽く吹くシーン、盛りだくさんだ。大小のネタをびっしりと詰め込んで画面内情報も多い。そして監督がいうように、キャストは1人もおちゃらけず、がっつり芝居している。だからよけいに可笑しい。

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そういう絵づくりだから各県の描写にCGも使っているけれど、主人公が通う超エリート校や豪邸、遊びにいく場所がいやに壮麗でリッチ感がある。学校なんてベルサイユ感あふれる堂々とした建物で、さすがにCGかと思ったらぜんぶロケなのだ。ここはわりと感心した(学校学校2講堂自宅遊びに行く所)。

建物は、ゴルフ場クラブハウスや田舎のテーマパーク的な「城」、文化財である県の講堂、それに結婚式場だ。そうか、こういうデコラティブな施設ってまだまだ作られていたんだなあ。そしてストックとして蓄積されているんだ。日本の映画の製作環境はとにかくお金がない。本作だってたぶん10億はとても行かないだろう。それでも富の残渣で絵になる虚構が撮れる。なんだかそこに軽く感動した。

主演の2人、二階堂ふみGACKTは見事な虚構性。そして第3の重要キャストが伊勢谷友介だ。『愛しのアイリーン』でもけっこう重要な意味をもった役だったね。

■写真は予告編からの引用