トニー滝谷 

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村上春樹はその作品の評価に較べて、映画化・映像化された作品が極端にすくない。作家自身がなかなかOKを出さないというのも大きな理由だろうと思うけれど、読者もまた、それを歓迎していないような気がする。たとえばmixiコミュで映画化についてのトピックスが立つと、「映画で小説の世界がこわされるのがいやだ」というネガティブな反応が多くなる。
村上春樹の小説の世界。
実験小説みたいな複雑なスタイルでもないし、ふつうに物語に入り込めるタイプだと思うけれど、でも、この世界の主人公は、物語の登場人物ではなくて、結局それを語っている「作家そのもの」のような気がする。他の作家にくらべても特にね。極端なたとえだけれど、人間は作家だけで、あとは精巧なマリオネットのようだ。
主人公である作家が語る声の魅力にファンの多くはとらえられる。だからそこから物語と登場人物だけ抽出して、だれかが別の声で語ってもファンは何も感応できなくなる。物語も登場人物も、作家が糸を離してしまうと一人歩きできないのかもしれない。
監督の市川準は、原作の小説を「魅力的だが人物達から『表情』が読み取れない、極端に言うと『顔』のない物語のようだ」と書いた。だからリアルに描くと小説の世界を表現できないと思い始めたと。たぶん、監督もその「声」こそが物語を支配していることに悩んだんだろう。結局はその世界をうけいれて、「声」を主人公として扱った。西島秀俊による「声」は、原作のテキストに忠実なナレーションとなって物語を語り続け、登場人物たちは作家の創造物としてふるまいながら物語を演じる。彼らはリアルな肉体を持った擬似の実在を演じるのではなく、どこか半透明な存在になる。リアリティを出そうとしない抑えた演技、彩度とコントラストの低い画面、抽象的なセット、それらは監督の意図どおりに統一されたひとつの「世界」になった。

けれど、その世界にはまりきらなかった主要なパーツがひとつあると思う。ほかならない主演のイッセー尾形だ。宮沢りえはみごとに透明に見えた。ときどき痛々しく見える細い体も、肉体性のない役にはぴったりだ。イッセー尾形はそれとくらべると透明度が低い。彼は役になりきり、自分を消すという意味では透明な俳優だ。妙な脂っけ(生命感?)もない。それでも、画面の中の彼の顔はすこし「味」がありすぎた。監督がいう「顔のない」世界にするにはね。
でも、宮沢りえが特別に世界にあいすぎていたのかもしれない。祝、サーファーとの結婚。 イッセー尾形のかわりに誰がそれをやれたのか、といわれると、確かにわからない。端正なクセのない俳優では、あまりに薄っぺらいイメージビデオみたいになりそうだ。加瀬亮あたりがもう少し歳をとるとはまったのだろうか。
たしかにこの演出のスタイルはむずかしいんだろう。

結論。『そうはいっても善兵衛が控えめにいって喝采!』