<予告編>
青山真治のいわゆる「北九州3部作」の2作目。2000年公開。第1作『Helpless』第3作『サッド・ヴァケイション』と地続きの世界だ。『Helpless』は、はじめから失われていたり、失っていったりする物語だった。『ユリイカ』は最初に徹底的な喪失が描かれて、登場人物はほとんど「ただ生きているだけ」にまでなってしまう。そこからの再生の物語だ。そういう言い方でいくと『サッド』は主人公にとっての世界が多様に、複雑になっていく、「増えていく」物語だ。
ストーリー:梢(宮崎あおい)直樹(宮崎将)は福岡県の田舎にくらす兄妹。いつもの通学バスがバスジャックに遭う。犯人は乗客を次々殺して駐車場にたてこもり最後は刑事に射殺される。生き残ったのは二人と運転手の沢井(役所広司)だけだった。生き残っても何かが決定的にそれまでと違ってしまった3人、それぞれに家庭が崩壊して2年がたった。放浪から帰ってきた沢井は、兄妹が口をきかなくなり、学校にも行かないで二人だけで暮らしていることを知る。居場所がない沢井は2人の家におしかけておふくろさんじみたことをはじめる。兄妹の親戚・秋彦(斎藤陽一郎)も保護者役であらわれて同居生活にくわわる。そのころ町では若い女性が切られる連続殺人が発生し、沢井も容疑者として取り調べられた。容疑ははれたものの、妻と完全に別れ、身体もおかしくなりだした沢井は、あるときおんぼろのいすゞのバスを買ってみんなで旅に出ようといいだした。気乗りのしない秋彦もけっきょく折れて4人は南へ向かって走り出す…
『ユリイカ』は映画と青山監督自筆の小説とがある。映画と小説がちがうところはいくつかある。一つは後から書かれた小説のほうが希望と救いの色が濃くなっていることだ。映画は、ラストで彼らがやっとバスジャックの呪縛から解放されたことを暗示して、希望の入り口くらいのところで終わった。小説はそこに蛇足とも思える人情話エピローグをつけて「その後、万事いい方向にいっているんだよ」と念を押す。ダークサイドに落ちたように見えたある登場人物にも多少の救いになる新事実をあたえている。
もう一つのちがいは映画の中で奇妙に影が薄かった母親たちの存在感がすこし濃くなっていることだ。映画の中の女性たちは、兄妹の母も、沢井の妻も義姉も姪も、職場の同僚も、彼らを受入れることができない。あるものは受入れられずに去り、あるものは暴力によって消え、あるものはそういう自分を責める。3人を受入れてくれる女性はこの世界にいないから、沢井や梢はときどき、ほんのささやかな母性みたいなのをお互いに与えあう。小説では登場人物にとっての母の姿がもうすこしていねいに描写される。微妙に受入れる女性の姿もある。この変化はなんだろうなとふと思う。前の『Helpless』は母親がそもそも不在だった。この後の『サッド』ではそれこそ母親が巨大な山脈のように主人公のゆくてにどっしり腰をおろし、主人公はそれにあがくのだ。
映画と小説はすごく補完的だ。小説だけにあるプロローグは、映画を見てキャラクターにおなじみになっていないとひどく飲込みにくい。でも全体に小説はとても説明的だ。すべてを見渡せるものの視点で書いている。登場人物同士ではわからない心理のひだや、ちょっとした出来事の真相も、映画ではわからなかった裏設定も、読者にぜんぶ説明される。正直いうとなんでそこまでもれなくケアするの?とも思った。行動やセリフで想像させればいいじゃん、とね。映画が分かりにくいかというと、ぜんぜんそんなことはない。むしろ親切に状況や心理がわかるカットを重ねてるように見える。たしかに説明的に内面を吐露するセリフは少ない。でもそれがやたら多いのって下手な演出でしょう? ふつうに見ていればそんなに誤読したり解釈が広がりすぎる映画じゃない。でも小説ではシーンすべての「意味」を明確に、わるくいえば限定するのだ。
さてこの映画、ヴィム・ベンダースへのけっこう露骨ともいえるオマージュがいくつかある。『さすらい』に似ているという話もあるし(見てないからわからない)、それから『都会のアリス』。ポラロイドでやたらとスナップを撮る人、おっさんと少女のロードムービーというそもそものプロット、それにラスト。2人の姿がわかるくらいに寄った映像からぐーっと引いていって雄大な風景へワンカットでつながっていく空撮。やっていることはまったく同じだ(あとラストは『ベルリン 天使の詩』を思い出すよね)。どちらも美少女の子役をひたすらに可愛く見せる。アリスは9歳のわりにおしゃまで、だめ男の主人公よりしっかりしたところもあるキャラクターなんだが、梢はもっとずっと演技っぽさのうすい「たたずまい」的存在感だ。過酷な運命にある少女ものでいえば、ベルギー映画『ロゼッタ』を思い出した。主人公はいわゆる美少女じゃなかったが、それでいて性の対象にもなってしまう存在だった。梢は、もちろん設定としては過酷な運命にさらされているけれど、映画でも小説でもひたすらにいい子として描写されていて、物語全体のおひめさまとして汚れやネガティブなものから慎重に保護されている。なんだかガーリーな衣装でモデルみたいに座ってみたりして、どことなくファンタジックですらある。
ロケ地は前半が福岡県の久留米市・朝倉市・甘木市あたり。沢井の家の近くの駅はJR久大本戦の善導寺駅。博多から快速に乗って1時間くらい、まわりを500mくらいのおだやかな山地に囲まれている平たい水田地帯だ。 後半のロードムービーの行き先は阿蘇山。 かれらの家から100kmちょっと。その周辺を何日も回る旅なのだ。1日海辺にいく大事なシーンがあってそこだけ福岡市の海の中道だけどすべてが終わって最後にまた外輪山の大観峰にやってくる。阿蘇外輪山には日本最大級の草原がある。雄大な自然というと高山以外はたいてい森になってしまう日本ではめずらしい。純粋に自然な草原というわけじゃなく放牧や野焼きといった人間の手も入って1万年以上維持されてきた、非日常感もある風景だ。
それはいいんだけど、正直に言うと「旅なのにずっと同じ土地なんだ?」と思わないでもなかった。少し足を伸ばしてそのへんに逗留する感じでいいの?土地にしっかり結びついた事件に呪縛された三人が解放されるには、できるだけ遠くまでいかないとだめなんじゃないの?とね。 でもだらだら行けばいいっていうものじゃないのかもしれない。どこを走っていても、そのうち地域性もないロードサイドの光景になって、そのうち次の街についてイオンでお買い物するはめになってしまう。残念だけど日本にはフロンティアも無限の荒野もないからね。