ヴィデオドローム  マクルーハン思想をビジュアルにすると...

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ストーリー:ケーブルテレビ会社の経営者マックス(ジェームス・ウッズ)はセックスと暴力の過激コンテンツを探すなかでドキュメンタリックな暴力映像『ヴィデオドローム』にであう。映像は視聴者の脳に影響を与える力を持っていた。パーソナリティーのニッキ(デボラ・ハリー)も出演するために去る。映像と人体の拡張だと語る教授とその娘、映像の制作者だと名乗る男との出会いを経て、ヴィデオドロームにはまっていくマックス。幻覚とリアルが渾然一体となった日常になっていく....

デヴィッド・クローネンバーグ監督、1982年公開。アイコニックな〈脳味噌ぽーん〉超能力バトルムービー『スキャナーズ』の翌年だ。監督の初期代表作の1つで、イマジネーションが自分を侵食してくるクローネンバーグならではのモチーフと渾然一体となって、こちらも実写特殊効果の人体変容シーンが楽しめる。本作の特殊メイクは巨匠リック・ベイカーだ。

ところで、古い名作を見返すときの味わいは2種類ある気がする。1つはタイムレスな古典として当時の世界観込みで楽しめる作品。200年前の絵画を見るとき、古都を旅行するときと一緒で、完結した世界のある異文化との出会いともいえる。もう1つは時代を、あるいは後の流れを作ったマイルストーン的な作品。こっちは時々微妙だ。その作品の影響を受けた洗練された表現がいま当たり前に見られたりする。現在と地続きなのだ。僕たちは少々チープだったり荒削りだったり古臭く見えたりする映像を「こんな歴史的な価値が」と補完しながら楽しむ。『2001年宇宙の旅』がはるかにそびえる名作なのはその両方の価値を備えているからだ。

本作はどちらかに分けるなら後者だ。『スキャナーズ』が例えばアニメの古典である『アキラ』に繋がったみたいに、本作の、人体とメカの有機的な侵襲的な融合のイメージは、例えば塚本晋也が(かれもけっこう世界中の作家のアイドルだ)『鉄男』を制作するときの直接のインスピレーションになった。TVの映像が、物体性を、それどころか身体性を持つイメージも相当にあたらしい。だけど、作り手たちのぶっ飛んだインスピレーションが1980年代前半の映像技術の限界にしばられるのは、どうにも仕方のないことだ。

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(c)Universal Pictures via MOMA

本作の立ち位置はなんだか『ゼイリブ』(1988)に近く見える。メディアによる人間の無意識の支配。インターネット前だから主役はTVだ。『ゼイリブ』が『メディアセックス』を下敷きにしているのと同じように本作は監督と同じカナダの思想家マーシャル・マクルーハンのメディア論を発想のベースにしている。

主人公たちの精神(と脳)を支配し、人格を変えてしまう魔術的な映像は、見るからにアンダーグラウンドで撮影された、画質が低い拷問と殺人の記録映像だ。ローファイな映像の中のショッキングなシーン。見る側は、欠けたピースを補完するみたいに、情報量が少ない粗い映像から出来事を読み取る。本作以降も記録映像もの、ファウンド・フッテージものに受け継がれている感覚じゃないだろうか。

本作がその後も色々生み出されただろう「魔術的映像」ものと決定的に違うのは、その影響も、それどころか無機質なはずの映像の側も、ぬめぬめとした有機的な肉体描写を通じて描かれるところだ。幻覚にとりつかれた主人公の前で、ビデオカセットもTV受像機も体の一部のように膨らんだり脈動したりし始める。そして主人公の体には....そのイメージはのちの『裸のランチ』最新作『クライムズ・オブ・ザ・フューチャー』で再現される。

本作のテーマは予言的だとよく言われる。主人公が耽溺するビデオ映像は今ではネットに流通するコンテンツに置き換えられる。2024年初頭の今、ガザ地区の市民たちの正視できない映像が欧米系ニュースサイトを飛び交っているのは容易に想像できるし、暴力的映像じゃないけれど、日常的に繰り返して見てしまうポルノ映像によるいわゆる「ポルノ脳」もなんだか近い話だ。

ただ、たいていの表現者はメディアの支配を受けた人間を描くのに粘液っぽい描写はあまり使わない。監督の一貫した興味とモチーフはメディアそのものというより、テクノロジーに不可分になってしまった人間の肉体がどれだけえぐく性的メタファーたっぷりに変容するか、という1点だろう。

 

 

インフライト・ムービーズ2024

ひさしぶりに機内で見た映画特集。

 

🔷グランツーリスモ

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グランツーリスモのエリートプレイヤーたちを実車でトレーニングして勝者を決めるGTアカデミー。勝者はプロのレーシングドライバーの夢を叶える....ニッサンがバックアップするプロジェクトは2008〜2016年まで世界各地でチャンピオンを輩出した。本作は2011年アカデミーのヨーロッパチャンピオン、ヤン・マーデンボローがレースデビューし、2013年ルマン24hでクラス3位でゴールするまでの物語だ。監督ニール・ブロムカンプ。

マーデンボローは2011年にレースデビュー、ルマンに3度出場して、2016〜2020年は日本のSUPERGTで走っていた。ぼくはグランツーリスモもやらないし、レースもそこまで熱心なファンじゃないから、ぜんぜん知らなかった。国内レースファンにはお馴染みの選手だったんだろう。本作でも撮影時のドライビングを担当している。

映画は王道のスポーツ成長物語。引きこもり系の少年が実はとんでもない才能を秘めていて、それが野心的なプロジェクトと出会って一気に開花する。丹下段平系のベテランレースディレクターがいい感じの師匠となって、厳しくも暖かく彼の成長と挫折を見守る。話の流れで、マーデンボローはプロジェクト唯一のドライバーに見えなくもないけれど、3年前からアカデミー優勝者はいて、ちゃんと先輩プロドライバーになっていた。

主人公は非の打ち所がない好青年でプロジェクトリーダーたちもいいやつばかりなのでお話はするするとスムーズに進み、ドラマのような(しかし実話の)挫折を経てクライマックスに到達する。おっさん観客からするとレースシーンの映像的快楽、ドライバーやディレクターたちの一癖ある感じなど『フォードvsフェラーリ』の味わいにはちょっと足りず、ブロムカンプといえば思い出す『第9地区』のような独特さはないけれど、気持ちいい一作なのは確かだ。

https://www.sonypictures.jp/sites/default/files/styles/keyart_large/public/2023-10/1183995.jpg?itok=NuGxWwaq

(c)2023 sony pictures


 

🔷私ときどきレッサーパンダ

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13歳になった中国系カナダ人の女の子メイの変化と、それを心配しながらなんとか自分が思う道にはめようとする母のミンの物語に、厳しいおばあちゃんや母系の親族たちが代々受け継いできたレッサーパンダの伝説が絡んで、ようするに中国系母娘の相克が壮大なスケールとなって大爆発する...『エブエブ』がまさにそれじゃないか。お父さんが無害で包容力主体の存在になっているところも同じだ。

本作は監督・脚本ドミー・シー以下、女性スタッフ主体で製作されたそうだ。ドミー・シーは20代半ばで名作『インサイド・ヘッド』でストーリーボード(絵コンテ)を担当している。初めから超有望若手だったんだろう。『インサイド・ヘッド』も実在感がある北米の都市を舞台に、少女の心理的な葛藤を象徴的、それでいてポップに、まったく別の絵で置き換えてみせるという、ちょっと共通する感じのある作品だ。

ピクサーらしく、主人公とその友達全員、美少女キャラに陥ることなくそれぞれに愛嬌があって、もちろんキャラの描き分けは髪の色とかじゃなく個性的だ。彼女たちの目下の夢と情熱の対象がBTS的な(と言いつつ多人種構成の)ボーイズアイドルグループなのが、じつに今らしい。

ちなみにメイたちの家は、トロントの街中なのに瓦ぶきの門と塀で囲われた、庭のある寺院だ。トロントのチャイナタウンにはいくつも寺院があるみたいだけど、Googleで見る限りビル形式が多くて流石にそこまで渋いのはない。バンクーバーに少しそれっぽい寺があった。

 


 

🔷オールド

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M・ナイト・シャマラン監督、2021年公開。南国のリゾートにあるシークレットビーチに招待された家族やカップルに起こる異変・・・体をめぐる時間だけが急激に進み始め、帰ろうとしてもビーチからの脱出は不可能だ。やがて時間の進行に耐えられない者から死んでいく。主人公の夫婦と幼い姉弟の運命は...的な物語。

シャマランらしいというか、プロットはじつにユニークだし何やら象徴的だ。招待客には体に不調があるものがそれぞれいる。子供たちは少し目を離した隙に成長してしまい、物語の後半になるとすっかり大人になる。ぎょっとするアイディアだ。

ただ、撮り方やエピソードにどことなくB級感あるいは劇画感というんだろうか、アイディアの怖さを表現しきれず、ドラマっぽさを必要以上に観客に意識させ物語に没入させない何かがある。典型的なのはそれぞれの時間の進み方の表現だ。24時間で50年分進む設定で、子供たちは昼頃にはティーンエイジャー風に、夜にはすっかりアダルトになっているが、翌朝にはそこまで老け込んでいない。それから親たちは夜にはだいぶ高齢者になっているはずだが初老の雰囲気だ。セクシー美女は、顔だけシワメイクをされて象徴劇風の奇妙なルックスを見せる。確かに老婆の肉体にビキニを着せた映像はあまりにも容赦なさすぎるだろう(『ミッドサマー』じゃないんだし)。とはいえ、なんだか全体に計算があっていない感じなのだ。

やがて事件は不幸な偶然じゃなく、お馴染みの大企業の陰謀めいたものがちらつき始める。撮影はドミニカのプラヤ・エル・バジェというビーチ。

 


 

🔷スパイダーマン・ノー・ウェイ・ホーム

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これは流石に飛行機の極小モニターと騒音混じりの音響で楽しむ映画じゃないかもしれない。せっかくの歴代スパイダーマンたちが小さい画面でひょこひょこ飛び回っている感じになってしまった。それにしてもウィレム・デフォーはほんとにあらゆるタイプの映画に呼ばれる人だ。


 

🔷ワイルドスピード1

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『TOKYO DRIFT』しか見たことがなかった。第1作は「潜入捜査モノ」だったんだね。ジャパニーズ90’sカーのレース文化が、LAらしい超多人種グループで描かれる感じは当時新しかったのかも。本作の主人公、シリーズ途中で亡くなるポール・ウォーカーはどことなく妻夫木聡的存在感でありつつ(本人TOKYO DRIFTに出てるが)、ありがちな「他人種に大型新人的に受け入れられる白人」のステロタイプにも見える。その後ファミリーとしていい感じに馴染んでいったんだろう。日本車の締めが横綱級のSupraで、このあとシリーズの顔となるドミニクの「心の1台」として70’sアメリカンマッスルカーのダッジが出てくるあたりもいい。

映画の中のフィジカル RRR ・ベイビーわるきゅーれ・サンクチュアリ〜聖域・アフリカンカンフーナチス

◽️RRR

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S .S.ラージャマウリ監督、2021年公開。日本では興行収入20億円以上で国内洋画余裕のベスト10内、世界では200億円くらいで堂々の大ヒットだ。

日本でインド映画というと以前はラブ、アクション、ミュージカルシーン全部盛りの娯楽系、「たまにあの味欲しくなる」料理と同じエスニックの枠だった。インド国内では北インド系のボリウッド南インド系のトリウッドなど話す言葉も(たぶん役者の顔も)違って多様性があるんだろうけれど、たいていの日本の観客にとっては一緒だろう。割と振り切った表現も多くて、こんな感じの珍品を味わう存在だったりした。

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本作も大盛り娯楽大作なのは変わらない。見ていて顔がほころぶ突き抜けたシーンもそこそこある。しかし辺境の珍品扱いはもうだれもしないだろう。画面のリッチさや映像表現の洗練ぶり、史実を踏まえた第三世界的メッセージとストーリー、日本の大作を圧倒するメジャー感だ。

それでもキャストはインド系スターだからローカル感はちゃんとある。これを世界各地の観客が普通に受け入れてるのも最近の話だろう。アジア系もアフリカ系もインド系も、最近見る映画や配信作品の中ではいろんな人種がフラットに混在する画面を観客が見慣れてきた。インド料理が「変わったもの食べに行こう」じゃなく日常ランチのローテーション入りしたのと同じだ。

本作はアクションでもあるし、役者のフィジカル面の画面的押し出し力もまた十分メジャー級だ。そこはわりと必須だろう。この「ガタイのいい俳優はなんとかいっても見栄えがする」感覚は俳優たちの多様性が進んでも観客の間にしぶとく残っていくものかもしれない。

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◽️ベイビーわるきゅーれ

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監督坂本裕吾、2021年公開。これもアクションムービーだ。画面にかけた予算や役者の見た目のガタイなんかどうでも、キレがあって美しい動きを、すごい身体能力を上手く撮れば、十分映像として見られる、というのを分からせられる映画。日本映画らしく若い女性が主人公になっていて、マッチョなフィジカル志向からそもそも外れていていい。

この感じは、近年のハリウッドやヨーロッパ作品でも女性をアクションの主役級に持ってくるようになったのと同時代性を感じるし、それ以前に国内アニメが連綿と美少女キャラに戦闘させてきた歴史のせいで日本の観客がじつに自然に受け入れるという部分も思い出させるだろう。とはいえ、幻想の美少女みたいな演出はいっさいしていなくて、むしろ登場人物たちが美少女幻想をコスチュームとしてまとうメイド喫茶でのバイトシーンを持ってくるあたりがいい距離感でさわやかに見られる。

 

◽️サンクチュアリ -聖域-

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監督江口カン、2023年配信開始の全8話ドラマ。大相撲で成り上がる破天荒系力士の物語を角界の旧弊さや闇的なものと絡めながら見せていく。

スモウレスラー。フィジカルで劣る日本人の中で、唯一身体で圧倒しそうな雰囲気を醸し出し、同時に幻想の日本文化のアトリビュートに満ちた、他文化から見ればなんとも絵にしたくなる存在だろう。いまでもちょっとコミカルな「日本」の記号として、かつ強者の1バリエーションとしてキッチュ系の映画では使われる。『ジョン・ウィック』3でNYの殺し屋として出てきたり、最新作でも真田広之が指揮する殺し屋ホテルの戦闘員としてまげを結って和服を着て登場する。

本作ではスモウレスラー=力士の肉体の厚みを十分に表現してくる。格闘系の役者や元力士を選び、十分に体を作らせて、素人目にはまったく嘘くささがない映像だ。世界配信だから海外の幻想にもちゃんと応えて、異分子として入ってくる力士も、受け止める相撲界も全員日本人だ。ここ30年以上、フィジカルに勝る外国人が本気で参入してくると相撲界もドミネートされるんだ、ということは日本人観客なら全員わかっていることだけど、そこは持ち込まない。

外国人力士グループのストーリーやせめぎ合いも入るとまた話に複雑性が出たと思うけれど、本作ではまずは直球の成長物語に集中した感じだ。

 

◽️アフリカン・カンフー・ナチス

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2021年公開。ガーナ・ドイツ・日本合作。いわゆるトンデモ映画だ。第二次大戦でヒトラー東條英機が生き残り、アフリカ、ガーナに渡る。そして現地を支配して〈ガーナ・アーリア人〉として洗脳していた....善玉空手道場はこの悪の軍団に壊滅させられ、主人公は復讐のために秘密の特訓を重ねて彼らが開催する武術トーナメントに出場するのだ。時代はだいぶ現代に寄っているのに(DJセットも普通にある)ヒトラーも東條も若々しく武術の腕も衰えはない。

本作、日本在住歴が長いドイツ人が企画し監督・脚本・主演、ガーナに渡り現地のニンジャマンというアクションムービーの作り手とコラボして撮影。東條英機役は日本の便利屋、秋元氏が便利屋稼業の一環として請け負ったということになっている。

ニンジャマンというのもオールドレゲエファンからすれば、「いやいやこいつでしょ」ということになる。制作エピソードらしきものは監督インタビューで読める。なんだか全体になめてるな、という思いがじわじわ湧き上がってくるのだが、トラブル続きだったというガーナでの撮影エピソードも、ガーナ側が真面目に相手するのがバカらしくなっていた可能性もある。またはインタビュー全体が適当な思いつきトークである可能性も捨てきれない。

舞台がガーナなのでヒトラー東條英機以外は全員地元キャストで、ゲーリング役も巨体のガーナ人、もちろん主人公も戦う相手たちも地元民だ。本作がギリギリ見られるのは、ガーナ人キャストたちが武術のトレーニングをそれなりにこなしてきている感じで、かつ当然のように身体能力が高いのでアクションシーンが一応絵になっているところだろう。東條英機役の秋元氏はフィジカル的にはまさに典型的日本人中年男性でありつつ、役には違和感なく、VFXの力を借りて、最強戦士の1人として躍動する。

 

私がやりました 

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ストーリー:1930年代のパリ。若手女優マドレーヌと新人弁護士ポーリーヌはルームメイト、家賃も滞納する境遇だ。有名プロデューサーの殺人容疑をかけられた2人はあるプランを立てる。法廷は被告の美人女優+女性弁護士vs旧弊な男たちの構図になり、一世一代の弁明を行なったマドレーヌは無罪と名声を一度に勝ち取る。一気にセレブになった2人を老女優、オデットが訪ねてきた。彼女は自分こそが事件の真犯人だと言い出し.....

タイトル『私がやりました』。これ、正解だったのかなあ。原題はMon Crime(私の犯罪)、英題はThe Crime is Mine、邦題は英題の雰囲気をうまく言葉にしているとは思うけど、映画タイトルとしては普通の言葉の中に埋もれてしまいそうな気がするのだ。

監督はフランソワーズ・オゾン。初期の2作『8人の女たち』『スイミング・プール』しか見てない。この頃は独自の美学やスタイルに凝り、軽やかなコメディテイストにちょっとしたサスペンスをスパイス的にまぶす感じの作風だったと思う。どちらも女性だけ(といっていい)のストーリー、ベテラン大物女優と組むのも共通だ。

久しぶりに見たオゾン作品は『8人の女たち』にかなり近いプロジェクトだった。1930年代の戯曲(1937年にアメリカで映画化)をベースに女性をお話の中心に持ってきて、殺人事件がモチーフのサスペンスでありつつ語り口はコメディだ。撮り方も演技も、いかにも往年のスタジオ撮影風のクラシックな雰囲気。衣装もセットもパリの下町も「あの時代」的なこじゃれた空気に満ちている。

現代性もおさえている。殺された有名プロデューサーは配役をエサに若手女優に肉体関係を迫る。昔からあるストーリーでもあるし、もちろんMeTooの発端になったワインスタインを思い出させるだろう。容疑者と弁護士も、ベースは夫婦設定だったり、弁護士は脇役だったりしていたところを、同年代の女性同士が共闘するサクセスストーリーにして、シスターフッド感を出してきた。

マドレーヌの法廷での弁明シーンは、男性判事や陪審員、ドラマ的に誇張した検事たちの男性既得権益層ワールドのなかで、1930年代の社会に進出できていなかった女性の苦しみをここだけ割とまじめなトーンで語らせる。

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(c)Agence Cartel via Amazon.uk

とはいえ『プロミシング・ヤング・ウーマン』のようにシリアスな問題意識が前面に出ていたり、『燃ゆる女の肖像』『あのこは貴族』みたいに当事者的な感覚がみなぎっていたり、という映画には見えない。男性作家の反省と贖罪のビジュアライズのような『ラストナイト・イン・ソーホー』とも違う。

僕が見ている3作でいえば、オゾンの視線は登場人物の女性たちに少し距離感があるし、人物の設定もふるまいも物語に乗っかったもので、それをはみ出して何か強烈に訴えようとしていない。本作でも、社会的には無力な若い女性たちといいつつ「美貌」「演技する能力」「法廷技術」「ストーリーテリング力」を兼ね備えたなかなか強力なパートナーの、ピカレスクロマン味もあるサクセスストーリーなのだ。男性キャラは基本「旧弊な男性社会の既得権益に乗った間抜け」か「2人の意のままに動くお人好し」だけでストーリーを邪魔しない。

ただお話として圧倒的にうまいのは2人をかき回す役としてベテラン女優オデットを持ってきたことだ。イザベル・ユペールが昔の大女優をモデルに演じた彼女は基本的に愚かで鬱陶しく2人の可愛いストーリーを見ていた観客に軽い不快感をともなった異物感をあたえる。ところが『Elle』の主演、名優ユペールを配する以上、ただの鬱陶しいアホとして退場させるわけがないのだ。

エンタメ業界が求める〈若さ〉〈旬な感じ〉(と、多分〈富〉も)を失った彼女は主人公2人よりもある意味弱者だ。でも同じ道を先に歩いていた先輩でもある。昔の名声は十分にあり、人間としての厚みと誇りを見せていく彼女はだんだんと主役2人を軽く見せるくらいに比重を増していくのだ。いつのまにかシスターフッドは年代を越えて3人の間にも発生していくだろう。

犯罪ものとしては、いくら1930年代とはいえ刑事も検事も捜査が雑で間抜けすぎないか、とかこっちの男性キャラのお人好しぶりはなんなのか、とか、サスペンス・タクティクス部分にはそんなに快感はない。ただ展開は意外性があって(だから予告編や公式でツイスト部分まで知らせすぎの感はあるけど)、いかにもフランス女優という雰囲気の主演2人の魅力と、友情でもあり少しセクシュアルな香りも漂う関係の描写とか、クラシックな画面のウェルメイド感とかは十分味わった。

 

「歴史の闇」をエンタメにするとき−2 福田村事件

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ストーリー:1923年9月、東葛郡福田村(今の千葉県野田市)の村人たちはハイテンションになっていた。前日の関東大震災の後、国内の朝鮮人たちが狼藉を働いているというのだ。在郷軍人(元軍人)を中心に自警団が結成され、武装した男たちが検問所をつくる。近くでは讃岐出身の行商人の一行が足止めになっていた。しびれを切らして移動を始めた行商人の一行。見慣れない身なりと言葉の集団に村人たちの1人が「朝鮮人だ!」と叫ぶ......

本作が描くのは関東大震災直後にあった朝鮮人たちへの集団殺人・暴力、その余波として起こった日本人への誤認による集団殺人だ。『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』の事件と奇しくもほとんど同時代。事件の発生時には新聞記事にもなって、裁判で何人かは有罪になった。でも数十年後に被害者の関係者が解明を訴えるまではほとんど葬られていた。

本作は監督森達也とプロデューサー・脚本家チームがそれぞれに企画を進めていて、あるところでジョイントして制作、公開にこぎつけた。お互いに我慢しあってとにかく完成させようというところもあったのかもしれない。前にも書いたけれどアメリカや韓国では近過去の負の歴史をそれなりの規模の映画に仕上げて公開する、1つのジャンルがある。日本ではメジャーで公開される、ましてや制作されることは明らかに少ないだろう。本作もとうぜんインディーだ。事件の概要がわかるルポルタージュがこちらの本。企画協力で参加している作者は、たぶんプロのライターというよりライフワークとしてこの事件を時間をかけて掘り起こしたみたいに見える。

でも本作、そんな制作のエピソードやテーマから想像すると意外なくらい、ウェルメイド感すらあるよくまとまった作品だった。クライマックスはとうぜん事件そのものになるのだが、そこに絡む人々の群像劇になっていて、かれらの愛憎、プラス愛欲がこってりと見せられる。映像も例えば塚本晋也作品のようなミニマルな制作体制が想像できる風景じゃなく、きちんと古い村や街の景色がオープンセットで映り込んでいる。東映や松竹の協力で撮影所でも撮影しているようなのだ。集団劇に登場する人物たちの衣装もちゃんと準備されている雰囲気だ。

それ以上に、メジャーで活動している俳優たちの出演がおおきい。日本人観客じゃないとぴんと来ないけどね。『キラーズ・オブ・ザ・・・』が名優たちの共演でありがたみが出ているように、井浦新永山瑛太東出昌大田中麗奈豊原功補など見慣れた人々が映るとなんとなく映画自体メジャー感が香る。やっぱり役者って偉大だ。井浦新若松孝二トリビュートの『止められるか、俺たちを』でも座長格だったから骨のある映画を支えようというマインドがすごくあるんだろう。他の人々もベタな言葉だけど「役者魂」的なものを感じる。いまだと本作みたいな作品には腰が引ける事務所や俳優がいてもぜんぜんおかしくない。

https://www.cinewind.com/wp2019/wp-content/uploads/2023/07/ティザー_福田村事件_フロント.jpg

(c)福田村事件プロジェクト2023 via cinewind

そんな役者たちを使い、ドキュメンタリー専門で劇映画は初演出だという監督のわりに、なんていうか既視感があるくらい、日本の劇映画でお馴染みの描き方や演じ方で撮られていて、風景も美しく、全体に映画として異物感がない。観客には行商人、村人たちそれぞれの心情が無理なく飲み込める。そして本作はクライマックスで起こる悲劇が分かった上で見る映画だから、否応なく迫るカタストロフィに向けて観客はカウントダウンを強いられる。『この世界の片隅に』や『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』と同じだ。全体として、エンタメ性を高めて間口を広げた本作の作りは正解だと思う。作り手たちが「今の時代にこの事件に光をあてて人々に届かせたい」と思うならなおさらね。

ただ、これはほとんど難癖だけど、さっき書いたメジャーな俳優たちの集合が、昔風の格好に身を包んでいてもちょっと格好良すぎるところはある。井浦、東出、瑛太それにコムアイもみんな背が高く美しく整った顔で、戦前の村人風とはちょっと違う。村娘や行商人の男女もみなさんきれいめな俳優が多い印象だ。差別に苦しむ行商人と、凡庸な村人が突如凶暴性を帯びる怖さ、その辺りが絵面上いまいちどすんと来ない感がある。

その点1人リアリティがあったのが在郷軍人役の水道橋博士だ。小柄でずんぐりして軍服が少し滑稽に見えるあのバランス。戦前の軍人ってああいうバランスの人が大多数だったはずだ。当時の男の平均身長は160cmそこそこだからね。

まあここを嘆いても始まらないかもしれない。作り手は承知だろう。絵面を必要以上に地味に土着的にしても届きにくい。本作はエンタメなのだ。舞台の野田市利根川べりの風景だってロケはほとんど近畿地方だ。東出が演じる船頭がいる利根川の渡し、滋賀県の湖岸の公園で撮っている。すごく美しい水辺の光景だ。利根川河川敷の荒涼とした氾濫原は少し違う。実際の事件現場の今は下の写真の雰囲気だ。

事件の現場のいま

jiz-cranephile.hatenablog.com