ハスラーズ

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ストーリー:高級ストリップクラブの新人デスティニー(コンスタン・ウー)はトップダンサーのラモーナ(ジェニファー・ロペス)の妹分になり、苦しかった生活からやっと抜け出そうとしていた。そんな彼女たちを直撃した2008年のリーマン・ショック。再びどん底に落ちそうになったデスティニーにラモーナが声をかける。「経済危機の犯人のウォール街の連中から奪えばいい」ダンサー達は計画をスタートする....

2019年公開。監督ローレンス・スカファリア。実際のストリッパー達による詐欺事件のノンフィクションがベースの物語だ。制作体制を見るとメジャーではないんだけど、興行的には十分成功作だ。製作費の10倍くらい稼いでいる。

ざっくり言えば痛快犯罪モノで、能動的なキャラクターは全員女性。見る側からの雰囲気で言えば『オーシャンズ8』と似てる。ただし彼女たちほどゲーム的じゃないしそれぞれ特殊能力があるわけでもない。

詐欺事件というのは、ビジネスマンをターゲットに、女性たちが数人でそれとなく飲みに誘い、クラブに連れて行って泥酔させ、客のカードで超高額の支払いを勝手にしてしまう。本人認証のためのキーワードや支払い履歴は主にデスティニー(のモデルの人)が上手く聞き出していたらしい。そんなに出来のいい犯罪とも思えないけれど、しばらくは上手くいっていた。

物語の舞台になるストリップクラブはこんなところだろう。実話の彼女たちもこの店、’Larry  Flynt's Hustlers  Club’で働いていた。名前からして老舗なんだろうという気はする。場所的にいうと川沿いでマンハッタンの中心じゃないけれど車ならウォール街から20分くらいだ。映画の中では若いお金のありそうなサラリーマンが集まって、スターダンサーが出てくると紙幣が紙吹雪みたいに舞い散る。

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主人公たちのモデルはそれぞれいて、デスティニーのモデルはカンボジア系移民のRoselin Keo、ラモーナのモデルはSamantha Barbash。この辺で感じはつかめる。計画に絡むダンサーたち、それぞれに大変なのね...という事情が丁寧に描かれて、割とシンプルに彼女たちに思い入れられる作りになっている。

最初は紙幣をまき散らし、後半では金を騙し取られる金融ビジネスマンたち。彼らは全員大した人格はないただの「エロい客」「間抜けなスケベ男」でしかなくて、誰がだれかもよくわからない。被害者は「被害者」以上の人格は与えられていないから、無駄に同情する必要もない。

本作はme too以降の一連の「女性エンパワーメント映画」の一つに入れていいと思う。男の性的欲望に奉仕する業界の女性たちを主人公に持ってきて、そんな彼女たちが決して男や男的社会システムに媚びたり、押さえつけられたり、むしり取られるんじゃなく、逆に手玉にとって自分たちを幸せにしていく姿を見せる。女性たちだけの柔らかくてハッピーなパーティーの場面も何度も出てくる。

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キャストと映像のゴージャスさ、グラマラスさも本作をすごく見やすくしている。まずは誰もが称賛する大姐御、ジェニファー・ロペスだ。『オーシャンズエイト』ではサンドラ・ブロックケイト・ブランシェットが受け持っていた、セクシーで格好良くてそれでいて包容力もある、フィジカル的にもでかい姐さんだ。数ヶ月のトレーニングでゼロからマスターしたポールダンスもあいまって、店1番の売れっ子役にも納得感がある。

『クレイジーリッチ』では高学歴会社員を演じたコンスタン・ウーは妖艶なアジアン・ビューティー風と生活感あふれる東洋人を演じ分ける。それ以外のダンサーたちもいい。特に序盤のイケイケ時代のストリップクラブのダンサーたち。ありのままの丸々とした体型を誇示するリゾ、本人も元ストリッパーだったカーディ・Bなどの女性ラッパーたち、トランスジェンダーのトレイスとか、(僕はほとんど知らなかったけれど)よく知ってる人たちにとってはすごく面白いキャスティングだろう。

■写真は予告編からの引用

 


 

 

 

 

 

 

 

クリスティーン

ストーリー:1978年、カリフォルニア。いじめられっ子の高校生アーニーは、学校の帰りに廃屋めいた家で売りに出ている壊れかけた車に魅入られる。両親の反対を押し切って車を買ったアーニーは車を再生させ、やがて恋人より親友より、その車、クリスティーンに病的にのめり込んでいく....

ジョン・カーペンター監督、1983年の作品。原作はスティーブン・キング。ジャンルで言えば青春+ホラーだ。そんなに怖くない。当時のレーティングで”R”にするには暴力シーンが不足で、レートを上げるためにわざわざ汚いセリフを連発させたくらいだ。付け加えれば青春のみずみずしさとか切なさもそんなにない。ヒロインもイケメンも校内一のワルもみんな型どおりのキャラクターで、かつ1970年代の後半らしい野暮ったい仕上がり。主人公アーニーも漫画的ないじめられっ子ルックだ。

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この映画の魅力はそこじゃない。本作のキモは心理ドラマでもサスペンスでも描写のエグさでもない。圧倒的なフェティシズムだ。光沢のある金属の曲面、動きと光で一瞬ごとに表情を変える...車特有のフェティッシュな魅力にフォーカスした映画だ。ホラーという枠を使って1台の車を描き切った。

1958年型プリムス・フューリー。それほど知られた車でもない。こんな感じだ。

フルサイズセダンだから全長5m超、全幅はほぼ2mある。5000ccのV8エンジンを搭載し290馬力を発生する。あの時代ならではの無駄なテールフィン(車体後部の羽)が勇ましくもアホらしい。ダッシュボードの真ん中にはAMしか入らないラジオがビルトインされている。エンジンをかけると巨大なV8エンジンはドロドロした低い排気音を発する。

監督は撮影のために25年前のこの車を何台も集め、惜しげもなく壊しまくった。愛好家はそれを知って悲憤したらしい。本編を見て貰えばわかる。曲面が美しいボディーは、他の車に激突し、車幅より狭い路地に突っ込み、建物の壁を突破し、その度にベリベリと歪み、剥がれ、裂ける。監督はそれをなめるように撮る。痛々しく傷ついた外板。車をぶつけたりこすったことがある人なら、車体が傷つくとき自分もなんとも言えない痛みを感じたのを覚えているはずだ。

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でも満身創痍の車は.... その度に復活する。作品中最高にシンボリックで美しくて恐ろしいシーンがある。それは修理工場のガレージの中で起こるのだ。そしてここが本作がホラーであるゆえんだ。車に〈クリスティーン〉の名前があるのもただの持ち主の愛着じゃない。車は意志を持ち、暴力へのためらいがない怪物的な「彼女」なのだ。

本作の大事なモチーフがもう一つある。音楽が好きで自分でバンドもやっていたカーペンターらしい、1950年代のロックンロールだ。それまでユースマーケットがほとんどなかったアメリカ音楽産業で初めて生産された「若者をターゲットにした音楽」だ。ある種青春をシンボライズする音楽が、濃厚な死の香りを持って鳴り響く使い方をしている。初期のロックスターは何故か続々と悲劇的な死を遂げた、そんな死の影を思い出してしまう。本作でも早世したリッチー・バレンスやバディ・ホリーの曲を使っている。

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ふと思い出すのが漫画家望月峯太郎の古い作品『バイクメ〜ン』だ。バイクが主役とはいえ、車とロックンロールと死をモチーフにしたこの漫画、1989年の連載だから本作の影響をもろに受けていてもおかしくない。この作品もバイクが自分の意思で走る。

ちびでひ弱なアーニーがボロボロの車にのめり込み、車がいかした姿になると別人みたいにイキりだすところも哀しい。車はなんといっても拡張自我なのだ。エンジンのパワーがそのまま自分の戦闘力に加算される、モビルスーツ幻想をゆるす商品が車だ(『ベイビー・ドライバー』参照)。お話ではアーニーの変身もモンスターによる人格支配みたいにも読み取れる。でもモンスターがいなくても彼はそうだったかも知れないのだ。

■写真は予告編からの引用 

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Mank / マンク

ストーリー:1940年代、アメリカ。ハーマン・J・マンキーウィッツ、通称 ‘マンク’ は新進気鋭の監督オーソン・ウェルズの新作の脚本を書くため田舎の一軒家に缶詰めになっていた。メディア王ハーストをモデルにした、トラブルの種になりそうな物語だ。1930年代のハリウッドで、メジャースタジオに所属し、扱いにくい性格ながらも脚本家として働いてきたマンクは、いかにしてそれを書くことになったのか....

ぼくは「今の現役監督で〈巨匠〉になるのは誰だろう」とぼんやり妄想するのが割と好きだ。そもそも巨匠の定義が曖昧だから妄想くらいがちょうどいい。歴史に残る代表作があって、作家性があって、映画史の話に死後も名前が出てくるような人。ポランスキーやスコセッシ、スピルバーグたちはもう枠に入ってるとして、クローネンバーグ、タランティーノコーエン兄弟、下の世代だとノーランやポン・ジュノポール・トーマス・アンダーソンも候補に入れたい。で、作品数は少ないけれど、デヴィッド・フィンチャーも巨匠候補だ。

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本作はそのフィンチャーが監督、ウェルズの古典的名作『市民ケーン』を題材にしたドラマだ。アメリカ映画近年の「良作」枠に多い実話ベースの物語でもあるし、過去の映像スタイルのパスティーシュ(例えばこれ)的作品でもある。『市民ケーン』制作の背景を『市民ケーン』を思わせる構成や映像で描くという、人によってはすごくとっつきにくいだろう映画だ。だからメジャー制作会社では作れず、Netflix制作・配給ではじめて実現したんだろう。

配信メインの公開になって何度も見返せるのはいい点だ。めくるめく映像体験モノとか気軽な快楽を得られるエンタメとかじゃなく、噛み締める系の作品だし。ただし作品の魅力が相当部分映像の美しさにあるから、本来なら劇場、配信でもできるだけ高解像度の大画面で、いい音響で見ないとつまらない。

予告編でわかる通り、昔風の画面にして、フィルム風の傷やマークやテロップをわざわざ入れ、画面はモノクロームだ。その階調が素晴らしい。シーンはしばしば逆光で撮られている。窓や奥の部屋からの光が正面から差し込む室内シーンが多いし、撮影現場のシーンではわざわざこちらに向いているライトを入れたりする。たぶんものすごく繊細なライティングをしているんだろう。クラシックなモノクロ時代の名作みたいに、暗い部分の微妙な濃淡がなんとも美しい。暗い室内シーンと窓の外で遊ぶ子供を同時に見せるような、『市民ケーン』オマージュの一つだろう。

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冒頭は、主人公が執筆用の一軒家に連れてこられる黒い車列のシーンだ。ぼくは最初手近なモニターで見始めたけれど、冒頭で「これは...!」と急に姿勢をただして大画面をセットして最初から見直した。別にカーアクションでもない、このシーンに魅力を感じられるひとは間違いなく本作を楽しめる。ていうかまあ、本作を見るひとはフィンチャーがそれなりに好きだから心配いらないか。

映像だけじゃなく、音響も、そして芝居も昔の映画風だ。特にマンクのセリフ回しは聞いているとちょっと違和感がある。いま自然に聴こえるイントネーションじゃなく、トーン高めで語尾を下げる口調だ。黒沢清が『スパイの妻』でやっていたことをさらに徹底した感じだ。うごきも多少そんなところがあるだろう。

フィンチャーの最近作らしく『ゴーン・ガール』で「まるで高級サルーンにのって高速をクルージングしているみたいな映画」と形容したような、映像の上質感は揺るぎない。ただ、テイク数が異常に多いことで有名なフィンチャー作品、本作も例外じゃないから、さりげないシーンも、100回撮り直して作り込んだ映像の集積か....なんて考え出すとだんだん息苦しくなってくる。その辺りはいったん忘れて没入したい。

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物語は、わりと正面から「映画を作ること」の矜持ときびしさを描いている。この時代から映画会社はもちろん経営が第一だし、資本家である経営者は保守政党を応援していて、メディア王とも繋がっていて、時には政治的意図をもった映像を流す。マンクはアルコール依存症の皮肉屋で、やる気を失い一度はノンクレジットの脚本執筆に合意したけれど、映画という表現への思いは持ち続けているのだ。モデルにされたハーストの圧力で、作品も監督ウェルズも以後不遇になった『市民ケーン』の歴史を前提にした物語だ。実在事件の知識が前提の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』とそこは同じだ。

主人公マンク役のゲーリー・オールドマンは、上で書いたみたいな複雑なキャラクターで偏屈な老人風にも見える。マンクは執筆時点で40代、60代のオールドマンは実像より老けていて、弟や若い女優が演じる腐れ縁の妻とのバランスがやや奇妙だ。あえて特殊メイクは避けて、たたずまいや演技力を優先したんだろう。ワイルドさと繊細さとおっさん的哀愁が絶妙にブレンドされ、シュッとした役者でははまらない。ヒロインは、ハーストの愛人で実力不相応に推される女優、マリオン(アマンダ・サイフリッド)。誇りを持ちづらい立場だけど、主体性がある魅力的なキャラクターになっている。

■写真は予告編からの引用 


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2020書き漏らしいろいろ

 ダイナマイトどんどん

ストーリー:昭和25年、北九州小倉。対立するヤクザ組織の抗争に頭を痛めた警察は、それぞれの幹部を呼び、野球の試合で決着をつけるように命令する。勝てば盛り場のシマをものにできるのだ。加助(菅原文太)はチームリーダーになり、元プロ選手(フランキー堺)をコーチに、野球ができる組員を集めて練習をはじめる....

1978年、大映東映。監督は岡本喜八菅原文太の代表作、超絶ヒットしたシリーズ『仁義なき戦い』公開の数年後だ。本作も戦後混乱期が舞台のヤクザ集団劇、しかも文太主演だからイメージ的には重なる。企画自体、最初から文太主演で進んでいて、本人も乗り気で加わっていたらしい。

とはいえ、舞台は似ていても話のトーンはリアル志向で殺伐とした『仁義』シリーズとは全然違う。主人公の加助は純情で一本気で喧嘩っ早い、むかしながらの任侠映画のある種の主人公タイプだし、ライバルの豪腕ピッチャー銀次(北大路欣也)は、雇われの凄腕剣客風だ。警察署長(藤岡琢也)も無数のドラマで見覚えがあるようなキャラ。

岡本喜八作品の中で言うと、ドライなアクション+集団喜劇タイプに入る。伝説のアル中ピッチャー役の田中邦衛などは完全にギャグの演技だ。そこに分かりやすい極道の純情恋愛エピソードをかまし、全体は『がんばれベアーズ』タイプの、ダメなチームが成長していくストーリーで仕上げる。殴り込みで怪我した体で全力プレイ的な熱い展開もある。

けっこう力が入った企画だったらしいけれど、残念ながら興行的にはあまり成功しなかった。70年代後半だと新鮮味がなかったかもしれない。ラストに向けての大騒ぎといい、今の視線で見てしまうと、ちょっとドタドタしている。

 

太陽を盗んだ男

ストーリー:中学校教師の城戸(沢田研二)はひょうひょうと生きる男。でも自宅の団地の一室で、盗んだプルトニウムを原料に原子爆弾を完成させていた。原爆を使って日本政府を脅迫するのだ。交渉相手は警視庁の山下警部(菅原文太)だった。脅迫といっても特に思想も目的もない城戸は意味のない要求をくり出していく....

1979年公開、本作はたぶん、前年の『ダイナマイトどんどん』と比べるとだいぶ新しく見えたはずだ。このすぐ後から、日本映画も次世代のつくり手が目立ち始めて、SFやロックや漫画で言われてた〈ニューウェーブ〉めいたムーブメントになっていった。監督の長谷川和彦はその後映画を撮っていないけれど、彼らのリーダー的な存在だった人だ。

本作、まずはやっぱり熱い。いや主人公は醒めた男だ。でも『新幹線大爆破』と似た画面内の熱気は確実にある。関連の記事を見ると色々出ているように、撮影自体超アナーキーで(『新幹線』もなかなかだけど)、スタッフは逮捕覚悟で皇居や首都高や日本橋東急(今はない)あたりの市街地ロケを敢行し、カーアクションやスタントは今見ても「ぬうっ」となるところが結構ある。

主演沢田研二は当時ポップスター全盛期で、『TOKIO』あたりの衣装やステージに凝りまくってTVに出ていた頃だけど、本作では無理に格好良く撮っていない。ぬぼっとして生気がない教師で、妙に行動力がありつつ思想はない、独特の人物造形だ。旧世代代表が菅原文太で、こちらは割と型通りの無骨な刑事役。ただ独特なのは異常なまでの生命力を持ち、ヘリから落下しても何発銃弾を撃ち込まれても戦う戦闘力を持っている。ちょっとのことでは打破できない堅固な旧体制のシンボルみたいだ。

サスペンス要素もあれば、当時の青春映画らしい、行き先の見えないちょっと湿っぽいロマンチシズムもあるし、当時の先端メディア人=ラジオDJが大衆の欲望を可視化して、それが主人公と重なるあたりはこの時代の視点かもしれない。

画面の中の1970年代後半の東京、今と風景が続いているところもあれば、完全に昔風に見えるところもある。

 

■ミス・アメリカーナ

2020年。テイラー・スイフトのドキュメンタリーだ。当ブログでもいくつかミュージシャンの伝記やドキュメンタリーを取り上げてる、それと比べると彼女は際だってクリーンだ。子供の頃からほぼ音楽一筋で着々とキャリアを積み上げてきた彼女には、貧しさからの脱却も、家族との軋轢も、ドラッグやアルコールの問題も、ドロドロの私生活も、そんなものはない。

まあ、現役真っ只中だし、そういう方向の掘り下げが目的じゃないのだ。カニエ・ウエストにディスられた時もそうだったように、自分の意見を押し殺して可愛い女の子でいさせられた若手の時期、悪評=reputationまみれで疲弊した時期、カントリーの世界では特に難しい、女性のエンパワーメントや政治的な意見表明に踏み切った今、という〈成長と解放〉風に描かれる。

そんな彼女だけど、映像でうつされるステージの衣装は常に、やっぱりセクシーだ。そこはどんな風に感じているんだろう。自分のセクシーさをマスに対して表現する、彼女の中では、昔ながらの〈男性中心のエンタメの中で消費されるセクシーさ〉とは違うとらえかたがあるのかも知れない。

  

日本沈没2020 デビルマン・クライベイビー

2018、2020年、Netflixのオリジナルアニメシリーズ。どちらも監督は湯浅政明。『日本沈没』はもうすぐ劇場版公開だ。Netflixが日本でもオリジナルのアニメを作り始めた時、「製作委員会スタイルの日本の環境と比べると、潤沢に資金があるしタブーも少ないし、こりゃ黒船化するぞ」的意見がけっこうあった。

実情は知るよしもないけれど、この2作を見る限り、潤沢な予算を感じる緻密な作品という感じじゃなかった。オリジナル(漫画や旧作、小説)からの脚色の方向性は、市場を考えてのことだろうし、意識のアップデートぶりには抜けの良さもある。

げんなりしたのは動画のしょぼさだ。2作に共通するのはヒロインが陸上の短距離選手というところ。その共通点は面白いんだけど、デビルマンなんか特に、大事なはずの疾走シーンはほぼ真横から見ただけで妙に記号的なのだ。それ以外も視覚的快感が乏しかったなあ。

日本沈没」ではキャラクターのカリカチュアは抑え目で、そこはいいとして、「ここどこ?」レベルの70年代アニメを思わせる風景描写や、単純過ぎるCGモーションで走る車など、リアリズムに基づいたスケール感は正直感じなかった。1家族にフォーカスした物語だとしても、ディザスターものなら背後にそれを感じたい。

湯浅監督は漫画家みたいに自分の絵柄がある人じゃないが、基本的にシンプルな絵を漫画的誇張込みでダイナミックに動かして(音楽のリズムとのシンクロも得意だ)楽しませる。2作とも、その魅力もあまりなかった。

ちなみに彼の過去作品の『ケモノヅメ』(これもNetflixで見れる)は基本設定が『鬼滅の刃』に割と(かなり)似てます。雰囲気は全く違う大人の話だけど。

 

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ハーフ・オブ・イット

ストーリー:エリー・チュウはワシントン州の田舎町の高校生。中国からの移民だ。エンジニアの父は英語が苦手なのでちゃんとした仕事に就けず、田舎の駅の見張りをしている。勉強はできてもクラスの片隅にいるエリーに同級生のポールが声を掛ける。片想いのアスターにラブレターを渡すから、いつもクラスメートの作文を代筆しているエリーに書いて欲しい。しかたなく引き受けたエリーだったが....

前回の『ブックスマート』と同じ女子高校生の青春ものだ。『ブックスマート』に比べると、たぶん本国では地味目な存在だったと思う。パラダイス的な明るいクラスを描いた『ブックスマート』も楽しかったけれど、ぼくには少し憂いを帯びた本作の方がしみた。ただ、人種のフラットな描き方や、ルッキズムを外した語り口は、どちらも共通した今の感覚だ。監督・脚本は中国系のアリス・ウー。

本作のレビュー(本国)で「高校生がこんな風に喋らない」というのがあった。文学的すぎるのか、今風じゃないのか、残念ながらぼくにはわからないけれど(『ブックスマート』のマシンガントークも普通の高校生には見えなかったし)、本作は確かに主人公同世代を中心に狙ってる作品じゃなく、〈あの頃〉を振り返って感慨にふける観客が多いタイプに見える。ちなみに物語の中で高校生たちと絡む音楽も、アコースティックギターの静かな歌か、なぜか1980年代のブルース・スプリングスティーン風ロックだ。なぜ高校生が?

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物語は言ってみれば3角関係ものだ。序盤で主人公エリーは同性のアスターを遠くから見つめ、ちょっとした会話でどぎまぎする。そこへろくに話したこともないポールにアスターへのラブレターを頼まれて「えっ」となってしまう。でも手紙の対話が弾みはじめるとポールのキャラクターを無視してアスターとの対話を楽しむのだ。同士であるポールとの距離も縮んでいく。

でも3角関係から想像するようなラブロマンスが中心じゃない。タイトルがプラトンによる愛の解説をもとにしているように「愛」についての物語ではあるけど。主人公たちは自分がはまり込んだ愛をそれぞれに見つめて「愛ってなんだ」と思いをめぐらすのだ。どっちかというと愛をきっかけにした自分の発見の物語だろう。

本作のセリフ回しはとても間が多い。時には居心地悪くなるくらい。エリーは思ったことははっきり言うけれど、黙って耐えるタイプだし、ポールは口下手でアスターの前に出るとろくに喋れない。そしてエリーの家族では父は英語がたどたどしいから自然と無口になる。『ブックスマート』みたいなテンポのいい早口セリフの応酬みたいなシーンは発生しようがないのだ。

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風景もそんな寡黙なドラマにぴったり合っている。というより作品の雰囲気を、世界を決めているのは、ワシントン州の田舎、という設定の寂れた街だ。エリーと父が働く駅は、1日に何本列車が通るか分からない、誰も乗り降りしないような場所。学校へは森の間を自転車でいく。クラスのイケメンボーイは地元の唯一の産業、砕石生産の会社のあととり息子だ。

ポールの家は昔からのタコス屋で、ポールも自動的に高卒でそこで働くイメージ。アスターはアートに興味があるけれど、家族ぐるみでイケメンボーイと付き合っているから、そのまま結婚するルートが見えている。エリーは成績がいいから先生には大学進学を勧められても、父をおいて街を出られる気がしない。

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そんな田舎の閉塞と、閉じられてしまったように見える将来が主人公たちの出発点なのだ。そして密かに文学を、音楽を、映画を愛するエリーが初めて見つけた、同じ話ができる相手がアスターだった。まったくその手のことに興味がなかったポールもだんだんと物を考える人に変わっていく。

物語はこのジャンルの定番、いろんな葛藤や出会いやあれこれを経て卒業の時を迎え、それぞれに一歩成長した3人は物語がはじまる前の閉塞感から、外への可能性に気が付く。そんな後味がいいお話だ。後半になるとそれぞれがちゃんと語るようになっていく。

舞台になる、少し寒々しい田舎町がすごく魅力的だ。設定ではシアトル近くの北西部だけど、ロケは実はNY州。エリーとお父さんが住む駅舎兼(?)住居はここだ。

通学路は例えばこの辺りも。 ポールがアスターとデートする、多分町で一軒しかないようなダイナーはここだ。日本の信州や東北と似た、東部の森林の風景が、この物静かなストーリーによく合っている。物語の中でそれなりに季節は巡っているけど、一貫して少し肌寒そうな景色だ。実際には田舎町ではほとんどみんな車で生活しているだろうけど、この物語のキモはあえての鉄道。ここも独特なセンチメンタルさがわきあがる。

■写真は予告編からの引用

 

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