ベイビー・ドライバー


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ストーリー:無口な青年ベイビーは街のギャング、ドク(ケヴィン・スペイシー)の強盗チームの1員。犯人たちを逃がすのが専門のドライバーだ。両親をなくして養父と2人暮らしのベイビーはドクに負債を返済するまではこの仕事をやめられない。いきつけのダイナーであった少女デボラに心をよせるベイビーは犯罪から足をあらって出直したいけれど彼の腕がほしいドクは彼を離さない。あたらしい仕事は郵便局の預金強奪。決行の前日、チームのメンバーたちには不穏な空気が漂う…...


まずは赤いスバルが格好いい! この代のインプレッサは妙なフロントデザインだと思ったけれど、こうやって映るといいね。『チャッピー』でギャングが乗っていた真っ黒なインプレッサも格好よかった。
映画監督のギレルモ・デル・トロは、本作を賞賛するコメントの中で、この映画をfableだといっている。寓話ってことね。同時にrock'n rollだとも。物語はありふれたおとぎ話でもそこにマジックがある。たしかにお話はジュヴナイル的、というより中2男子の夢とさえ言って良さそうな世界だ。主人公の少年は人づきあいが苦手。ケンカだって弱そうで、黒社会どころか学校でもいいポジションになれるタイプじゃない。案の定いじめっ子タイプのギャングに小突かれる。でもクルマに乗って音楽をかければ天才だ。カーアクションは派手で格好いい。『ドライブ』みたいな静と動の入り混じった走りじゃない。ひたすらアクションだ。ヒロインは登場から好意的で音楽オタクの彼とばっちり話が合う娘だ。アワアワする彼にあきれることもがっかりすることもなく、一直線に「あたしついてく」っていう感じになる。主人公は犯罪にコミットしているけど、ドライブするだけで暴力はきらい、じつはやさしい子で、やさしくされた人たちもそれを分かってくれる。ひたすらつごうがいいのだ。
そして終盤のマッチョな盛り上がりではジェームズ・キャメロンばりの「最強の敵、倒したと思ったら....また出た!!」式の『エイリアン2』みたいなくどい展開のあげく、車相撲というべきアホらしい大勝負がはじまる。しぶいクライム・ムービーにある、善悪の境界が...とか、オレの中に巣食うどうしようもない暴力性...とか、ゲーム的な頭脳勝負...とか、そのへんを楽しむ映画じゃない。

つまり、そこはいいのだ。だいたい車って若い男にとってそういう部分ある。自分の弱さが嫌でたまらない男もグズな男もパワフルな車に乗れば路上のマッチョに、スピードキングになれる。いままでも無数の映画で描かれてきた。ジョン・カーペンターの名作『クリスティーン』はホラーだけどそれがテーマといってもいい。そうなろうとしてなれずムダに吹き上がるのが『ベルフラワー』だ。
『クリスティーン』『ベルフラワー』と違うのは、主人公にとって車はパワーをくれるけど相棒じゃないところ。彼は盗んだ車をどんどん乗り換え、アシが付きそうなのはスクラップにしてしまう。映画の視線もそうで、車そのものに思い入れや〈ホーム感〉は見せず、主人公が逃げ続けるために遠慮なく壊していく。カーアクションのパイオニアブリット』で主人公の乗るムスタングはもう一つの主役だけど、そういう感じじゃない。

これは物語上の必然でもあるし(同じ街で強盗を繰り返してるからね)、車種が変わることでカーアクションの種類が変わる、見せ方上の効果もある。アクションに合わせる曲のトーンも毎回違うわけで、というより順序としてはかけたい曲があってそこからアクションを発想してる場合だってあるかもしれない。本作のなかの音楽はそういう存在だ。映画でいいたいことは劇中の音楽の中にある。アクション以外のシーンの雰囲気もすべてかかる曲とのマッチングで表現されるし、セリフもそこにある曲から引き出されるし、シーンのリズムは曲のリズムだ。
主人公は死んだ母(シンガーだった)の歌をずっと胸に抱いているけれど、聴く曲は無数の(盗んだ)iPodにある無数のヒットチューンで、しかも自分でも日々サンプリングした音で曲を作り続けている。ドライブと同じで、彼が大事なものは一つの固定化したなにかじゃなくアティテュードともいうべきものなのだ。そんな彼が固定的な人とのつながりに向かう、ようやく大人になろうとするところで話はシメになる。

ガーディアンズ オブ ギャラクシー』『オデッセイ』とカセット+カセット時代の音楽が物語のトーンになる(そしてこれ見よがしに前面に出る…ん?オデッセイは違うか?)作品が続くけれど、この物語は20歳そこそこの若者だから子供時代の思い出のデバイスiPod。それでも自分でつくるオリジナル音源はなぜかカセットに録音して、大事なコレクションになっている。一番大事な音源もカセットだ。そういや『シングストリート』もカセット時代の音楽映画だね。このあたりのマニフェスト的な前面への出方はなんなんだろう? エドガー・ライトの場合はほんとうに自分が音楽を聴きはじめて、はじめて自分で音をコレクションしはじめた時代の手触りを絵にしたかったのかもしれない。
たしかに映画の最後にでてくる家電のSONYのロゴは、アップルマーク以前の感度の高い若者にとって、どこかへのドアの取っ手だったんだろう。