8人の女たち


<予告編>
ストーリー:その屋敷にはリッチな夫婦と、妻の母・妹、それに娘とふたりのメイドがすんでいる。イギリスに留学していた上の娘が帰って来た雪の日、夫がベッドの上でナイフに刺されているのが見つかった。大雪で身動きが取れないし、電話線も切られている。犯人はどうやらここにいる女たちのうちのだれかだ。不安な顔を見合わせる7人に、もう一人、夫の妹が家にやってきた。素人探偵よろしくおたがいに犯人探しをするうちに、それぞれの裏の顔がだんだんと見えてくる……
この映画けっこう特殊だ。はまる人には、ほかにない特別な一本かもしれない。フランス監督による50年代アメリカ映画テイストのパスティーシュ。当時のテクニカラー風色彩やライティング、古い生地を使ったカラフルな衣装、全編いかにもスタジオらしい大仰なセット、どこか類型的なユーモラスな演技…...いまの映画にはない独特のテイストをびんびんに感じる。テイストを再現といいつつデジタルで絵は高精細すぎ、とかのありがちじゃなく、きっちりとらしさが出ている。パスティーシュ的映画は、すぐ思いつくだけでも、ティム・バートンや(『エド・ウッド』とかさ)、フィルム・ノワールを再生する『ブラック・ダリア』とかいろいろある。
この映画はそれを他文化のフランス人監督が撮り、フランス人女優が演ずるという、微妙な気恥ずかしさもふくめて「企画」の色がはっきりした映画なのだ。インタビューによると、監督は『The Women』を最初にリメイクしようとしていたけれど、権利関係で断念して、古い舞台劇の脚本をとりあげることにしたそうだ。ダグラス・カークの映画を参考にしているんだという。このコンピレーション風映像を見ると、ああなるほどと思うシーンがいくつかある。
8人の女優をあつめたキャスティングも特別感がある。よく集まったよね。巨匠ならともかくこのときのオゾンはまだどっちかといえば若手だ。いろいろあるんだろうけど、作品のコンセプトの面白さが効いているんじゃないだろうか。テイストとキャスティング。これと似た作品をつくろうとしても、後追いの二番煎じになるだけだろうという気がする。めぐりあわせも含めて、文字通りユニークな1作だ。三谷幸喜がたぶんやりたくてしょうがなかったことをやり切っている。ところで急に思い出しけど、三谷があこがれそうなこの映画に先行するなかなかおしゃれな日本映画といえば『黒い十人の女』があった!さすが市川崑じゃないか。市川も『The Women』を見ていたのかもしれない。

さて、映画。オープニングのタイトルロールでけっこう度肝を抜かれた。「これつくりものですよ!」といわんばかりにスタジオセット風の家や庭が映って、キャストたちの名前は、それぞれのイメージにあわせた花のアップを背景に、あざやかなピンク色の筆記体の文字であらわれる。ロココ調っていうのか、ひょっとしてクリスチャン・ラクロワってこんなイメージだったんだろうか(よく知らずに書いてます)。どうどうとやって見せるところがある種の宣言みたいだ。
それとやっぱり女優の力だね。この映画は、女優たちを育てて、ワールドワイドなスターにしてきたフランスやヨーロッパの映画界の伝統のうえにある。存在感ある女優に、それぞれ過去のスターをモチーフにして役づくりをさせているわけで、それってそうとう豊かな伝統の蓄積がないとできないはなしだ。役づくりのネタにしたってあるていど観客がわからなければ意味ないわけでね。三谷が悔しがるとすればそこだろう。
ブギーナイツ』を見て思ったけど、特別な俳優は、それが「素材」であるだけに、才能ある作り手より、へたをすると稀少な人的資源なのかもしれない。一作品ならともかく、テーマもキャラクターも違う作品に出続けて、オーラを発することのできる俳優はやっぱり限られていて、当たり前だけどスターがスターなのはそれだけ稀少だからだろう。英語圏の映画でさえ、ある役柄はわりいつもとかぎられた俳優がでてきたりする(ビル・マーレイや最近死んだフィリップ・S・ホフマンなんてその典型だ)。
この映画も、ぼくが知っていたのはカトリーヌ・ドヌーヴエマニュエル・ベアールくらいだけど、8人だれひとり見劣りしないんだよね。監督は全員をきっちり描き分けるために、かなり戯画化した、誇張したキャラクターにしている。それぞれの見せ場と、「こうなるにも理由があるのよ」的説得と、歌と踊りのおもしろさに乗って、最後はほぼ全員に魅力を感じさせる。ドヌーヴの貫禄と完成度は当然として、それとガチでぶつかる、淫らで自由な妹役ファニー・アルダンにほれた。女優にしてこの威厳に満ちた顔。この二人の大女優になんとレズシーンをさせるのがオゾンで、体的にも立派な二人が巨乳を押しつけあってころがるシーンは、あまりのゴージャスさに笑えてくるくらいだ。

あとはエマニュエル・べアールの「ワルな女」感。だんだんとメイドの立場から女主人を逆転していくところがやけに格好いい。彼女もまた秘めた思いをぶちまける見せ場がある。もうひとりのメイド役のフィルミーヌ・リシャール。オリジナルの舞台劇では白人だったのがどっしりした黒人に変えられている。さっきのカークの映画にもあるけれど、ある時期のアメリカ映画ではメイドは母的おもみがある黒人というのが定番だった。とうぜんその再現なんだろう。それからジョーカー的役割の一番年下のリュディヴィーヌ・サニエ。まだ愛憎の世界に足を踏み入れていない分、おとなたちの混乱から距離をおいている設定だ。ひとりあっさりしたパンツスタイルでボーイッシュなキャラみたいなことになっているが、さきに『スイミング・プール』のセクシーぶりを見てしまっているのでおもわず「ボーイ?いやいやいやいや」といわずにはいられない。
レズシーンに代表されるセクシャリティの微妙な過剰さが、すくなくとも三谷にはないところだ(思うにそこが突っ込めないところが三谷の弱みというかぬるさのもとなんじゃないか)。原作の戯曲がそうだというわけじゃないらしい。監督は戯曲の基本ストーリーや設定を残して、細部はかなり書き替えたという。殺された主人を中心にした男女関係がつぎつぎ明るみに出てるのにプラスして、女同士で複雑にからみあう、ときにはセクシャルな関係がいくつも横糸になって、それこそくもの巣みたいな複雑で敵味方がはっきりできない関係がうまれてくる。そして金や過去のダークな因縁がだんだん掘り起こされてくるのだ。
ただし。この作品、殺人事件やら恐ろしい過去やらがネタなわりに、まったく不気味でも恐ろしくもない。ラストまで賑やかな風刺劇のふんいきだ。殺人は、一見平和な家族の仮面の下にあった女たちの関係を一気にあぶりだすためのきっかけとしてあるだけ。『スイミング・プール』でもそうだった。基本的に明朗で後味がいい。これは監督の作風なんだろうか。2作だけじゃなんともいえないですかね....