ベルフラワー


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主人公ウッドローとその親友エイデンを見ていて、また思い出した。『トイストーリー3』のとこでも書いた、大島弓子の古典漫画『F式蘭丸』。奥手な女性高生の想像上の親友の話。ていうか、もっとわかりやすい例もあるか!…『ドラえもん』(まっ、あれは「いる」けどね)。
そんな感じなのだ。まるで孤独な主人公が自分をいやすために作り上げた架空の親友。だって、あんなに無条件に何もかも趣味指向が合って、しかもそれほどロクな奴でもない彼を無条件に受け入れ、しまいには苦労して作り上げたモンスターマシンを「これはオマエのだよ」とかいってキーを投げてよこすって、そんな親友はリアルではなぁ…え、いたぁー? 
ストーリーマッドマックス2の世界に憧れて、悪役ヒューマンガスをヒーロー視する30くらいの男2人。何して食ってるのかはともかく、日当りのいいフラットに住んで、火炎放射器を作って何かを爆発させたりして「ヒャッハー」と盛り上がる日々だ。そんな2人がいけてる女の子たちと知り合い、それぞれ仲良くなっていい感じになる。急にベストとか着てロングドライブに出たり、バイクを手に入れてみたり。ところが奥手な男に微妙に飽きつつあった女は、ある日主人公が家に帰ってみると、別の男(前の彼氏?)とすごい勢いで励みまくっていた。バカヤローと叫びながらバイクで走り出す15の夜。でもそれは10秒くらいしか続かなかった。すぐさま脇から来た車に激突して重傷をおい、ウッドローは心身ともにボロボロになる。エイデンはそんな彼を献身的に世話し、一緒に走ろうと手に入れたマッスルカーを改造し、「メデューサ」と名付ける。けれど彼女への思いと憎しみが高まっていくウッドローはだんだん妄想の世界に突入していく…

ミソジニー映画といってしまえばそれまでだ。まさに三十路のミソジニー。ヘタレ男にとって女性はあこがれでもあり恐怖のまとでもある。だから無理矢理「あんな奴らはどうせ!」といいながら男同士でつるむ。ダメ男友達は安心できる仲間だ。そういう対比を極端にすればウッドローとエイデンの関係もアリなのかもしれない。ミソジニーっぽい映画といえば『ボーイズ・オン・ザ・ラン』があった。あの映画では、親友の代わりに、いかにも日本らしいが、主人公がいる小さな会社がそれこそファンタジックなまでに、暖かく彼をいつも受入れる素敵な居場所、ってことになっていた。
とにかく主人公と親友は、本来の自立した男同士ならとうぜんあるはずの葛藤も軋轢のかけらもない。要するに形の上では2人だけど、未分化なこの2人は人格的には1人と同じことなのだ。2人のキャラがひとりの人間の二面性を表現するパターンもある(『ブラック・スワン』とかね)けれど、ここでは2人いるのに一面的だ。そこがこの映画らしさといえばらしさかもしれん。つまりこの映画は制作=監督=脚本=主演=編集+メカ類製作までやっているエヴァン・グローデルの一人妄想そのものだからだ。とうぜん2人のどちらもエヴァンの分身だろうし(モデルはいたとしても)、それをわざわざ書き分けて複雑な他者なんてここに入れる気も(余力も)なかったのかも、って思う。
世界の小ささもそういうことだろう。強烈なマッスルカーと火炎放射器で装備した、世紀末覇者にあこがれる野郎どもだが、このマッスルカーもわりと害のない人通りの少ない街路でリアタイヤをスキールさせて白煙をあげる、あとは落ち込んだ主人公をなぐさめるドライブでときどきボッと炎を上げてみせる、まぁ、いうたらその程度なのだ。だいたい車体にでかでかと「MEDUSA」ってペイントするセンスがすでに中2感あふれ過ぎだろう。「メデューサ」自体ミソジニーっぽい「けっ、女、おおー怖い怖い」という感じのキャラクター=神話だよね。とにかく画面のざらざらした質感やメカ描写から想像するワイルドな世界を期待するとそうとうスカされる。

そして、まあ細かい所ははぶくが、バイオレンスが高まるなかなかいい所で「妄想オチ」なんていうのもキメてくれる。彼の妄想そのものであるこの映画のなかでも、キャラを超えすぎる部分は妄想扱いにせざるをえないという、強固な自己認識の殻が愛おしい。「いやさすがに俺、いくらなんでもここまでワイルドにはなれないわ…」と脚本家でもあり主演でもある監督は自分を見てそう思ったんだろう。でもマッチョ指向ではあるんだよね。武器を作ったりショットガンぶっぱなしたりあの手の車ラブだったり。この辺りの区別は分からないな。オタク的趣味人のなかの、メカマニアの延長である銃器オタクと、鬱屈した人生の隠された攻撃性のパートナーとして銃器にはまっていく非マッチョな男たちと。後者の極北はコロンバイン高校の彼らだったりするわけだけど。