パターソン



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ストーリー:パターソン(アダム・ドライヴァー)はパターソン市に住むバスの運転手。毎朝歩いて職場に通い、夕方には帰る。クリエイターになりたい可愛い奥さんとフレンチブルドッグが待っている。パターソンは1冊のノートを大事に持ち歩いている。日々、思い浮かんだ詩を書くのだ。パターソン市は高名な詩人ウィリアム・カーロス・ウィリアムの住んだ街。かれの1週間は淡々と続く....

ニュージャージー州、パターソン市。人口約14万人の中都市だけど、人口密度がすごく高く、2010年センサスで見ると、大都市の衛星都市を別にして善兵衞もとい全米なんと3位だ。1位はNY(10,400人/km2)、パターソンは4位のサンフランシスコとほぼ同じ(6700人/km2)だ。ちなみにNYは吹田市の人口密度とほぼ同じ、パターソンは茅ヶ崎市とほぼ同じだ。吹田市とマンハッタンの家賃の格差を考えるとめまいがするが、それはそれとして、茅ヶ崎市とほぼ同じならイメージ的には悪くない。
人口密度の高い都市はしばしばダウンタウンに移民や貧困層が集中する。工業都市でもともと各国の移民がいたパターソンは、メインの産業が衰退すると移民たちの小商いで経済をたもったという。全米でも屈指のイスラム信者の人口比が高い街だ。

この街、マップで見ると市の中心にPassaic riverという川が流れ、昔、街の産業の動力になったGreat Fallという滝がある。そう、映画に何度も出てくるあの滝だ。保全緑地の山林が中心近くにある。けっこう自然豊かなのかもしれない。でも、たぶん、中心街には高密度の集合住宅やスラムっぽいゾーン、郊外に行けば人口が流出してちょっとゴースト化してる場所だのはふつうにあるだろう。

で、本作はそんな場所はもちろん映さない。郊外風の一軒家から歩いて出勤する主人公は、橋を渡って角を曲がると中心部のバスターミナルに着く。時間ができると足を伸ばすのがグレートフォール公園だ。実際の自宅ロケ地はYonkersというマンハッタンの北の郊外都市。パターソンから40kmくらいだ。

主人公のまわりも社会的緊張の気配はない。バスの乗客たちはいろんな人種はいるもののお行儀がいいし、夜道でちょっとがらの悪い兄ちゃんたちが車から声をかけるけれど、主人公が連れている犬に興味を持っただけで世間話をすると去っていく。アダム・ドライヴァーも微笑むだけだ。『ノクターナルアニマルズ』や『狼の死刑宣告』みたいな災いは起こる気配もないのだ。

わざわざ断るまでもないけど、ジム・ジャームッシュが描いているのはドキュメンタリックなパターソン市じゃなく、いわば『海街ダイアリー』の鎌倉みたいな、理想化された、ややファンタジックな、「すてきな日常」の舞台としての地方都市だ。しっとりと、染み込むような、それほどフォトジェニックじゃない街の景色が主人公を包む。言いかえれば、「そういうふうに見る目をもてば、この街も(この生活も)あんがい上質じゃないか」ということだ。

本作は、でかい出来事は何も起こらない。でも監督は物語に動きがあるように微妙にフィクショナルに誇張する。画面の中に何組も双子が登場するのは絵的な面白さとして(エキストラの中に双子の少女がいて、監督がひらめいたらしい)、たとえば奥さんだ。表現者になりたい奥さんは、とりあえず日常の舞台をキャンバスにする。オリジナルのお菓子を作って青空市で売り出し、ギターを通販で買って練習を始め、家のカーテンや内装をどんどんデコレートしていく。このペースでデコレートすると、1年で室内の塗られていない部分は無くなるだろう。観客が昨日と変わっているのがわかるように変化の速度を加速しているのだ。

そんな平穏な生活の中で主人公にある喪失が起こる。詩人としての喪失。そこに日本人(永瀬正敏)が現れる。それまで主人公が対話したさまざまな人種の人たちと少し違う。英語で対話するけれどそこには不思議な、でも確固とした異物感があって、どことなくリアリティがない、寓話的な存在に見える。かれは主人公に働きかけるためだけにいる、天使めいた存在だ。なんでもない日常の喪失でも、立ち直るには天使が必要なの? いや言いがかりはやめよう。かれを主人公のもとに遣わしたのは、主人公が敬愛する詩人W.C.ウィリアムなのだ。詩が、詩にまつわる主人公の喪失を乗りこえるきっかけを与えるのだ。

主人公パターソンを演じるアダム・ドライヴァーは、ひたすらに受け止める演技で、じつにいい。役が決まると1人で教習所に行きバスの免許を取って撮影現場に現れたそうだ。奥さんはやってることはしょうしょうエキセントリックだけど、迷いなく旦那を愛する可愛い妻だ。だから旦那は奥さんの挑戦をすべて受け入れる。そこだけとっても上質だね、日常。