止められるか、俺たちを&蜜蜂と遠雷

止められるか、俺たちを

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ストーリー:1969年、東京。当時33歳の映画監督若松孝二井浦新)が率いる若松プロダクションに参加した21歳の吉積めぐみ(門脇麦)。現場では監督に怒鳴られながら、いつの間にか助監督になる。仲間たちはいずれは映画作家として一本立ちを目指すか、そうでなければやめていく。ある日、若松は短いピンク映画の脚本にめぐみを指名する....

若松孝二、よく考えるといままで縁がなかった作家の1人だ。生涯で撮った約50本の作品のうち、たぶん『水のないプール』しか見ていない。でも映画の情報に接していれば、どこかで名前を見かける。反体制作家の代表格だ。亡くなったのが交通事故だったというのも初めて知った。2012年、享年76歳。

本作は若松プロに参加していた実在の女性を主人公にして、主を失って、2013年の遺作『千年の愉楽』を最後にほぼ活動休止していた若松プロが制作した映画だ。監督白石和彌をはじめ、主要キャストもスタッフも若松プロに所属していたり、作品に出演した人々。当然、映画の視線は若松孝二に向いている。

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でも主人公を若松にして、彼の活動と仲間たちを描いた伝記映画みたいにしたら、当時のファンと過去の作品に出会った下の年代(すごく限られた人たちだろう)しか見ないだろう。だいたい50年前とは違って「反体制マインドの表現者」ってあらゆる年代にウケが悪いし。「ワルいこと散々やってきた表現者」には一定のファン層がいてもね。作り手も十分わかっていて、主人公をほとんど知られていない吉積めぐみという人物にした。

物語は、彼女の映画人としての成長を描いてもいるし、同世代の夢見る若者たちとの青春群像にもなっているし、それ以上に彼女は若松監督以下、そこにいた人たちへの視線になって、物語世界への入り口の役目をはたしている。彼女は映画フリークでもないし、反体制マインドもそんなにない。最後まで、特に作りたい何かもなくて、でもだんだん「そこにいた人たち」になっていく。クリエイティブな現場にいたい人なのだ。じっさい無数のそういう人たちがあらゆるジャンルの現場を支えているんだろうと思う。

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舞台はプロダクションの事務所や、撮影現場の海岸や屋上や草原、何かというと飲みに行く新宿だ。でも若松プロは新宿じゃなくて原宿にあった。セントラルアパートという、ふた昔前の業界人の思い出話にかならず出てくるようなアパートだ。60年代って、たぶんその種の人が居心地がいい場所はすごく限られていた。麻布のキャンティとかね。だから数少ないそういう場所は聖地みたいになる。そんな場所が拠点だったのが少し意外だった。

若松監督役は井浦新。正直に言えば本人とはだいぶ雰囲気がちがう。喋り方を近づけて、豪快で割と荒っぽい雰囲気を出しているけれど、やはり役者の醸し出す空気と違うから、ものまね感がつよい。でもさっき書いたみたいな作品の成り立ちを考えるとこれしかないんだろう。座長みたいなものなんだろうと思う。

門脇麦は『愛の渦』で衝撃を受けてからそんなに出演作を見てきていなかった。本作の時代の雰囲気にすごく合っている。ぱっと見、太陽のように物語を一身で引き受けるタイプじゃないかもしれないけれど、本作みたいな物語世界と観客をつなぐ視線の役割はじつに合う。

 ■写真は予告編からの引用

 

蜜蜂と遠雷

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ストーリー:近年プレステージが上がってきた芳ヶ江国際ピアノコンクール。エントリーした4人、かつて天才と言われた亜夜(松岡茉優)、海外でキャリアを積んだマサル森崎ウィン)、年齢制限間近の明石(松坂桃李)、異端の天才、風間。コンクールの会期中、4人はどのように考え、変わっていきながら課題に挑むのか....

原作は恩田睦の長編小説。本作の物語については置いておく。長編の原作を思い切って刈り込んでいるわけで、確かに語るべき心理の変化がすっ飛ばされていたり、葛藤が簡単に解決したり、ボロボロの状態がいつの間にか完璧な演奏に完成していたり、そんなところはある。

原作も知らない僕がとにかく感心したのはプロダクションの質の高さだ。配信映像で見ているから、本来の何十分の一も味わえていないと思う。本作は音楽そのものが表現の中心だから、ホール環境で楽器ごとの録音、スペックの高いドルビーサウンドシステム採用など、劇場で最上級の音を聴かせる作りにしている。

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それでも画面の満足感がかなり高かった。日本のリアル系ドラマではあまりやらない色調の調整が印象的だ。分かりやすいところで言うとシャドウ部をブルーに振って、イエロー系を後ろに下げて、結果どことなく非日常感があってクラシックのコンクールにあった品格が感じられる。ライティングもめりはりがあるし、ちょっとしたシーンをグラフィカルな思い切りいい構図で撮ったりする。監督はまだ2作目の石川慶、撮影監督は監督が留学したポーランドの大学で一緒だったポーランド人だ。

音楽もいろいろ書かれている通り、ピアニストは若手のトップクラスのアーチストをキャラクターそれぞれにあてて、オリジナルの曲も説得力がある体制で作っている。制作体制は監督だけじゃなくプロデュース全体の力なんだろう。東宝の本気を感じる1本だった。

  ■写真は予告編からの引用

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音楽

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ストーリー:地方都市の高校生、研二(坂本慎太郎)、太田(前野朋哉)、朝倉(芹澤興人)の3人はヤンキーだ。研二はある日バンド結成を思いつく。バンド名は「古武術」。学校にあったドラムやベースでひたすら音を鳴らす。同じ学校のフォーク3人組「古美術」と仲良くなった研二たちは街の音楽フェスに出場することになる....

2020年公開。監督岩井澤健治がかなりの部分独力で7年間かけて完成したアニメーションだ。「最高すぎる」声は公開時からあったけれど、確かに最高すぎた。原作は大橋裕之の漫画『音楽と漫画』。

原作者には失礼だけど(試し読みしかしてないし)、プロットとしてはそんなに特殊でもない。「高校生バンドやろうぜモノ」だ。監督が「実写で撮ったらそんなに目立たなかった」と言ってるとおり、バンド青春ものはいくらでもある。『リンダ・リンダ・リンダ』『ソラニン』『日々ロック』....そのオフビート版になる。スキンヘッド高校生にわざとおっさん役者を当てて面白みを狙ったり。

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監督はそれをアニメーションとして完成させた。いわゆるアニメ好きが本作を見たらどう感じるだろう。高校生のバンドものアニメといえば少し前に『けいおん!』、高校生がジャズにはまる『坂道のアポロン』もあった。ああいうのと比べると本作の手触りはまったく違う。既存のアニメ業界から出てきていない、この手触りの違いと、それでもアニメーション独特の気持ち良さが、本作の魅力だろうと思う。

一見素朴な手書きアニメでありつつ、本作は実写的表現とのミックスだ。アニメと実写的表現のハイブリッドは珍しくない。日本アニメの多くが、画面の精緻さ方向に行くところが、本作では動きだ。人物の動きとカメラの動き。本作はロトスコープの手法で作っている。実写で人物を動かして撮り、それをトレースして作るアニメーションだ。僕はリチャード・リンクレイターの『ウェイキング・ライフ』を思い出す。これははっきり言って不気味だった。誰でも見慣れている(ある年代以上)のはA-haの『Take on Me』のMVだろう。

 

 

本作は上の2つとも違う独特の効果が出ている。キャラクターが超シンプルなのに動きがすごく自然なのだ。動画枚数も少ないから必要以上にリアルじゃない。でも歩いている時に体が左右に揺れる動きや、お互いの向き合い方、頭を動かすときの形、そんなのが自然で、冒頭から「あっこれはなんか違う」とすぐ分かる。音楽演奏シーンもそう。

日本のアニメは作画者がいかにいい演技を動画で作るか、を追求してきたところがある。リアル系で言えば思い浮かぶのは沖浦啓之とかだ。本作はそんな動画職人はいないけれどこの方式なら描ける。漫画家高野文子の名言「人体は、写実に描かないほうが話が良く動く」を思い出す。湯浅政明の初期の傑作『マインドゲーム』に寄せたコメントだ。本作がいい例だ。岩井澤監督が好きなアニメに『マインドゲーム』を挙げていてすごく納得した。

本作がすごいのは、人物だけじゃなく背景までロトスコープで描いているシーンがあることだ。カメラが移動撮影して人物を追い、背景が流れていくのを全部動画にしているのだ。これは「背景動画」といって猛烈に手間がかかる。3DCGで背景を作れる今ではそんなに特殊じゃないかもしれないけれど、例えば2016年の『百日紅』ではここぞというところで、監督入魂で手描き背景動画を使っていた。本作では動く背景は流石にシンプルな描線で、それでもダイナミズムは半端じゃない。走っているカメラのブレまで絵で再現されるのだ。

その代わりというわけじゃないが、本作は間のシーン、人物がアップで全く動かないシーンが結構ある。動かないどころかセリフもない。観客が落ち着かなくなるくらい引っ張る。動画枚数を節約しつつ、物語の緩急にもなる。

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キャラクターだけ見てると分からないけれど、本作は劇場みたいな大画面ならではの演出が時々入っている。広い背景の中で小さな人物の動きに集中させるみたいな絵作りだ。こういう時、普通のアニメだと人物も動きもかなり簡略化する。でも本作はアップから人物の解像度があまり下がらない。ロングでも細かく演技しているのだ。背景は水彩で、この絵もなんとも魅力的だ。

物語は、ある意味ファンタジックだ。3人はバンドやる癖に好きな曲、お手本にする曲がない。だから曲を演らない。ドラム+2ベース編成のミニマルミュージックを開始する。単一のビートにひたすら同じ音のベースが被る。歌もない。いきなりここに行き着く感性は、逆に相当いろんなものを通過していないとないはずだ。

そしてフェス。堂々たるステージングだ。ミニマルといいつつ8ビートの等間隔リズムをキープするのも簡単じゃない。あと研二の唐突なインプロビゼーションスキル...... とにかく最後まで「音楽を演れるようになる」プロセスはいっさい描かれないで、音楽を演るよろこびだけを描いている。

■画像は予告編からの引用

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街の上で

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ストーリー:荒川青(若葉竜也)は下北沢の古着屋で働いている。彼女の雪(穂志もえか)に振られたばかりで未練たっぷりだ。でも色んな女の子が彼に声をかける。古書店の店員冬子(古川琴音)、大学で自主映画を撮っている町子(萩原みのり)、映画サークルの1人イハ(中田青渚)それに名前も知らない女性たち。みんな「好き」と言ってくれるわけじゃないけれど、青の下北の日々はそれなりに....

なんだか久しぶりに幸福感あふれる映画を見た気がする。こんな日々のなか、それだけでも作り手と公開館にありがとうと言いたい気分だ。 どんよりした現実世界の中で描かれる楽しげな東京。タイプは違うけれど2011年の『モテキ』をちょっと思い出した。下北沢、大昔、服屋で店員バイトをしてたことがある。普通にふらっと大物ミュージシャンがやってきたりして、今も昔も下北は下北なんだろう。

 

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監督は今泉力哉。本作はとても小さな作品だ。下北沢映画祭から下北沢を舞台にした映画制作を依頼されて、オリジナル脚本で『愛がなんだ』の直後、2019年に撮られた。2020年公開予定が、コロナ禍で今年に延期になったのだ。制作期間は1年程度、室内も屋外も下北沢ロケ。そんな外形だけじゃなく、物語の世界もとてもささやかだ。

物語はスケッチ風で軽いエピソードの積み重ねだ。「青が町子の依頼で自主映画に出演する」というのが一応ストーリーの骨格になっていて、登場人物もエピソードも上手くそこに絡んで集まったり散ったりする。出演者それぞれに、感情の起伏やぶつかり合いもあるんだけど、コメディの中に回収されて、観客の心を逆立てたりしない。

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そのぶん役者たちはとても魅力的に撮られている。登場人物も、例えば女性はそれぞれキャラクターが描き分けられているけれど、物語上の役割類型というのじゃなく、「こういう人」という人物像が役者の雰囲気と一体化していて味わいがある。主演若葉竜也中村俊輔風の髪型で表情が掴みにくいのもあいまって、人物像も感情もじつに中間色的な演技を見せる。

正統派のコメディ演出も楽しい。役者の表情とセリフと間だけで笑わせて、サウンド効果も画面のエフェクトもハイテンション演技とかもない。独特の見せ方をする『勝手に震えてろ』『私をくいとめて』の大久明子とは対照的だ。

監督はセリフの上手さに定評があって、人物がうまく言えていない風のしょうもないセリフもすべて脚本通りらしい。予告編の冒頭にある青とイハの長回しトークはとにかく凄い。芝居のための長回しでは『ぐるりのこと』の夫婦の凄絶なシーンがあるけれど、本作はなんでもない、そんなに空気が変わっていくわけでもない対話が、ほとんどドキュメンタリックに見えるくらいに続く。

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それにしても、本作の幸福感はなんだろう。もちろん主人公が割と甘やかされているストーリーなのもあるし、ギャグ混じりの柔らかい語り口のおかげもある。でも何より本作は「いま」しか描いていない、それが1番の理由じゃないかと思う。少し視点を引いてみれば主人公青に明るい未来があるかどうか分からない。女性たちだって同じこと。ていうか今の日本で将来を考えると手放しに楽天的になれる人は少ないだろう。

本作では徹底して現在しか語らない。未来への視点はまったくない。過去もせいぜい男女の恋バナで出てくるくらい。例外は不在の登場人物、物語がはじまった時点で死んでいる古本屋の店主(冬子の愛人)だ。ひたすらに「今」なのだ。観客にもそれとなく分かっている。この物語は一瞬の素敵な時間のスケッチにすぎない。でも、だから、その時間は、丁寧にやさしく幸福なものに仕上げられる。

それでも本作はすでにはっきりと「過去」になっている。工事中の下北沢が映り込んでいて、2021年の今もう変わってしまった風景もある。「今」を繊細に撮れば撮るほどその作品がすぐに「過去」になってしまうのはしょうがないこと。監督は明確にセリフで青に言わせている。「街もすごくないですか?変わっても無くなっても、あった、ていうのは事実だから」。監督は2019年の下北沢の一瞬をそういうものとして撮った。だから「今」しか語らない。物語の中にノスタルジックな描写はなくても、見た後には強烈な懐かしさを感じさせるのだ。

そういえば冒頭、青が夜の街を歩いてラーメンを啜るシーン。なぜかその啜る音がASMR的に強調されていて一瞬ぎょっとした。あれは何だったんだろう。

■写真は予告編からの引用



 

 

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私をくいとめて

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ストーリー:黒田みつ子(のん)は31歳の会社員。1人暮らし、休日は1人で街歩き。温泉も焼肉も1人が一番、お1人様ライフを満喫する。最近、取引先の若手社員多田(林遣都)が家に遊びに来るようになった。恋に発展するのかしないのか・・・ローマに住む大学時代の友だち、皐月(橋本愛)の招待でみつ子は初の1人海外旅行に。1人の日々や旅の途中、耳元にささやきかけてアドバイスをくれるのは、脳内に住む相談役「A」だった...

原作:綿矢りさ、監督:大久明子。前作『勝手にふるえてろ』と同じ。主演で話題性を掴むのも、ヒロインの脳内世界とリアルを区別せずに描くところも、前作と似ている。主演ののん、一回は能年玲奈と本名を書きたい。『あまちゃん』ブレイクの後、声の出演も入れれば映画は7作目だ。自分の監督作や、コロナを反映した自宅撮影みたいな小品もあるし、話題になったのは『この世界の片隅で』と本作くらいだろう。

同年代ではトップクラスの知名度があって、作品より現実の彼女をみんなが見てきた(理由はいうまでもなく)。多くの人はたぶんどっちかといえば彼女を応援している。本作もそのパブリックイメージを最大限利用している。橋本愛をキャスティングするのも、演出上の狙いより物語の外で起こるエモーションを狙っている部分が大きいだろう。それと、当然だけど全体に画面映えするようにチューンしている。

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原作のヒロインは33歳近くで、もう少し落ち着いてもっさりしたキャラだ。名前からしてそうだ。みつ子。友達の皐月は純日本人的な顔で短髪、と書かれている。恋のお相手多田も、原作だと大柄で無骨なタイプだ。みつ子は雰囲気でいうと黒木華とか蒼井優とかがくすんで見せた感じじゃないか。

映画ではのんの実年齢に寄せて31歳設定にして、多田は「イケメンを生かしきれてない男」風になった。みつ子は会社でお局化しかかっていたり、多田に年上として接したりするけれど、年相応のどっしり感はない。やっぱりイノセントさ、言い換えれば幼さが彼女の持ち味なのだ。

特にセリフ回し。監督は脳内会話とリアルの会話をほぼ同じトーンで見せる。Aとみつ子の会話は一度対面で録音して、撮影の時はAの声をスタジオで流してみつ子が返していたそうだ。だから脳内会話でも彼女は口を動かして普通に喋っている。それだけ本人にとっては現実味がある対話だからだ。みつ子は外面は世間に合わせているけれど、内面がけっこう煮えたぎっている。のんの喋りもそこはけっこう強いトーンになる。意識して見てないと、白昼堂々大声でえぐいこと喋ってるけど大丈夫かこのひと、となりかねなくて、時々居心地が悪かった。

他人とのリアルの会話も、会社での世間話はどこかセリフっぽいし、多田とのやりとりは少年少女的なぎごちなさだ。飛行機恐怖症の彼女がローマ行きのフライトで揺れるとパニックになるシーンなど、「いくつだお前は!!」感はある。まあ原作がながながと描写してるとこなんだけど。

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本作はイマジナリーフレンドがテーマ。普通は子供特有で成長すると消えてしまうそれが(『インサイド・ヘッド』での別れ...)、成人したみつ子に現れて寄り添ってくれる。多くのイマジナリーフレンドは本人も架空だと分かっていて、暴走することもあまりないらしい。本作もまさにそう。みつ子はAに依存しているけれど距離感も付き合い方もそこそこ分かっている。だから外面は社会的なペルソナを維持できる。

原作で描かれているのは、多少孤独だけど豊かな内面世界でそれを補って、破綻しない生き方ができている大人の姿で、「いいじゃないの、そういうのだって」という声が聞こえてくる。のんが主演になったことでそのバランスは少し切羽つまった感じになり、未成熟な女性の物語になった。みつ子はセクシャルな関係にも拒否感、あるいは恐れがある。のんの一貫してセクシーな面を見せないキャリアもあって、観客はよけいにだぶらせて見るだろう。

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本作は撮影監督も女性だ。だからというつもりもないけれど、のんの映し方は、彼女の表情をある意味生々しく、でもとても魅力的に拾っていて、感情の起伏を表情で見せ切っている。豊かな表情が本作の魅力のけっこう大きな部分だ。ていうかのんさんやっぱり美しいのだ。

本作は撮影中にコロナ禍でイタリアロケが中止になった。ローマのシーンは和歌山のここ撮影みたいで、大都市というより地方の旧市街風だ。イタリア現地スタッフが撮った映像を挟んでいる。明らかに映像のトーンが違って違和感が隠せない。大変だったんだろうなと思う。あと、みち子と皐月がそれぞれの想いを吐き出すエモーショナルなシーンで、なぜか小津風にそれぞれのアップを完全に切り替えて(最後の方で2人同時に映った)狙いなのか何かの事情なのか不思議だった。

これから30歳をすぎて、イノセントなのんはどうなっていくんだろう。

 ■写真は予告編からの引用


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あの夜、マイアミで

 

ストーリー:1964年2月、マイアミ。天才ボクサー、カシアス・クレイはヘビー級タイトルマッチに勝ち、22歳でチャンピオンになる。試合を見に来ていた活動家マルコムXNFLスターのジム・ブラウン、シンガーのサム・クックが祝勝会を開く。クレイはマルコムの影響でイスラム教に改宗することを決めていた。祝勝会はモーテルの1室で酒もご馳走もない、対話だけの会だった。4人の話はだんだんとシリアスな雰囲気になっていく.....

本作もアカデミー賞、脚色賞や歌曲賞ノミネートだ。Amazon配信。メッセージというか立ち位置は『シカゴ7裁判』と同様はっきりしている。監督は『ビール・ストリートの恋人たち』でヒロインの母親役ですごい存在感を発揮していた女優、レジーナ・キング。初監督だ。ある一夜、モーテルの一室、時間も空間もぎゅっと凝縮し、対話の中で空気が変わっていくこの物語は、やっぱりというか舞台劇の映画化だ。

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本作は明確にフィクションだ。有名人である4人はじっさい友人らしいし、クレイがマルコムに心酔して改宗する(で将来のモハメド・アリになる)のは事実だけど、全員そろってじっくり語り合った事実はない。 マルコムXサム・クックを「白人にあわせて芸能活動してる」と非難する口論のシーンは脚本家のアイディアだ。

登場人物それぞれがなんとも苦い目にあうところから物語ははじまる。1964年の夏に人種差別を禁じる公民権法が制定される。物語はその前夜だ。キング牧師の有名な”I have a dream"スピーチは1963年。スーパースターといえども白人社会から見れば差別は当たり前のふるまいだったのだ。

本作はある意味、マルコムのイメージを少し変える映画でもあるような気がする。本国で彼がどんな存在なのか、正直僕にはよく分かっていないけれど、キング牧師とは違うだろう。人権活動家でありつつ過激な思想家、アジテーターだ。

本作での彼は、妻と娘に優しい家庭人で、生真面目で仲間たちにからかわれる存在で、友人クレイの勝利を笑顔で祝福するにこやかな人だ。でも、サムやジムを、もっと黒人社会のために活動しないのか、そうするべきだと非難して、スターたちをうんざりした顔にさせる。そんな、自分の思想に忠実な、真面目な頑固者、というキャラクターになっている。

モーテルの1室は割ときれいなセットで、落ち着いたカラーリングで撮られているから、あまり貧乏くさく見えない。でもスーパースターが祝勝会をするような場所じゃない。マルコムが泊まっている部屋だから仕方ないのだ。「黒人客が多いから安全なんだ」と彼はいう。団体のスタッフを護衛で立たせ、外ではFBI捜査官がこちらを監視している。そんな彼の恐怖も度々思い出させるような語りだ。じっさいマルコムはこの翌年に暗殺される。

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彼を演じるキングスレー・ベン=アディルはマルコムに似せていつつ、もう少し細身で、どことなくオバマ的な雰囲気もある。そんなイメージも少し頭にあってのキャスティングかもしれない。ちなみにクレイ役のイーライ・ゴリーは顔はどことなく似ているけれど、マッチョ過ぎて少しイメージ違った。クレイ=モハメド・アリはマッチョというよりしなやかな体つきで、スピードが武器だしね。

本作の元になった演劇はこの雰囲気。 1室だけを舞台にしてるタイプかもしれない。1室を舞台にした演劇の映画化といえばポランスキーの名作『おとなのけんか』がある。プロローグとエピローグ以外、高級アパートの1フロアの中だけ、4人の対話がどんどん転換していく超ミニマルな映画だ。本作はもう少し広げて、4人が集まるまでのそれぞれのシーンに時間をとっている。試合のアリーナやライブ会場のシーンも入るから、すごくミニマルという感じでもない。

という本作。BLM運動に直結するようなストレートな作品で、なんというんだろう、見ていて後ろめたさというか、「見たけど〈おべんきょう〉しただけだよなあ自分は」という感慨は正直ある。まぁそこ言ったらしょうがないか。もちろん知ることに意味はある。

■写真は予告編からの引用

 

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