おとなのけんか


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これは面白い! シンプルに面白く、たいていの大人にはおすすめだろう。4人の大人が出てくるこのドラマ、あまりにも全員が突き放された視線で描かれているので、見ている方も誰かに自分を投影してひりひりと、みたいにさえなりようがない。新鮮な秋刀魚のキモを賞味するがごとく、苦みを存分に味わいつくせばいいのだ。演劇の映画化で監督はロマン・ポランスキー。(当ブログのこの監督作品は…
ストーリー:少年が同級生を棒で殴って歯を折ってしまった。なんとか穏便に話し合うために加害者の両親が被害者のアパートにやってくる。加害者は弁護士と投資ブローカーの夫婦。被害者は金物屋と書店員かつライターの夫婦。おたがいに知的で良識のあるアッパーミドルを自認する彼らだから見苦しく争いたくはない。けれど微妙な言い回しやちょっとした振る舞いに、だんだんとおかしな空気になっていき…
映画は最後まで1つの空間で、実際の時間経過と同じ、つまり80分という上映時間のうちプロローグとエピローグをのぞいた70数分のできごとを、時間をとばさずに1幕で描く。セリフがあるのは2組の夫婦の4人だけ。原題のCarnageは、「大虐殺」という意味でよく使われる。キャストは被害者夫婦のマイケル(ジョン・C・ライリー)、妻ペネロペ(ジョディ・フォスター)、加害者夫婦のアラン(『イングロリアス・バスターズ』でおなじみクリストフ・ヴァルツ)ナンシー(ケイト・ウィンスレット)。マイケルは商店主らしい気さくなおっさん風、ペネロペはどこからみてもリベラルでダルフール虐殺についての本を書いている。アランは弁護士で、薬害スキャンダルにまきこまれそうになっていてしょっちゅう携帯に着信があり、正直子供の争いどころじゃない。ナンシーだけ仕事の話がいっさい出てこない。この場を穏便におさめようとやっきになっている。
物語の序盤、それぞれの夫婦はペアでよりそって映される。チーム対チームでゲームは始まる。アランたちが帰ろうとしてエレベーターホールに行くと「コーヒーでも」ということになって部屋に引き返す。この「帰ろうとしてエレベーターまで行くと何かあってまた部屋に戻る」というのがくり返しギャグになっていて、3回繰り返される。ちなみに3回目のシーンで、言い争う声に隣人がそっとドアをあけて様子をうかがうシーンがある。一瞬だけ4人以外がちらっと映るところだけど、それがほかならぬポランスキーカメオ出演だそうだ。とにかく「帰ろうとするとまた部屋に」が繰り返されるうちに4人のポジションが刻々と変わり、3人が座って電話に夢中のアランだけが離れて立ったり、3人が画面の向こうを向いて、正面にナンシーが一人で立ったり(そのあと強烈なナニが起こり)、あるできごとを利用して夫婦同士がいったん別室になったり(とうぜん作戦ミーティングになるだろう)、かと思うとおっさん2人がならんだり(「このスコッチ美味いね〜」みたいになり)あるいはアランが壁際でへたりこんでみたり…と動きがなさそうな一室での会話劇なのにそういう印象がない。それ以外も手作り菓子や香水やバケツやドライヤーや携帯やスコッチや…という小道具が要所要所ででてきては変化をつける、まったくだれる瞬間がない映画だ。
監督はパリのスタジオに4人を集めて、何十回も通しリハーサルをさせたそうだ。俳優たちのインタビューでそんな話が出ている。おかげで細かい芝居のバリエーションや極端なやり方もすべて試すことができて、監督は演出をリハーサル中にほとんどすませてしまい、本番では撮影の仕方に集中できたんだという。

さてこの話、良識的な立場にたてば(ペネロペ的なね!)、「争いごとで得をしたやつなんて1人もいない、勝者のない不毛ないとなみだ」という結論かもしれない。じっさいそもそもの議題は一歩も進んでいないのだ。でもポランスキーがそういう風に描いているようにはどうも見えない。そんな視線でこの劇を描いておもしろいはずないしね。あえて勝者がいるということにしたら…結局それは最初は一番はなもちならない奴に見えていたアランしかいないだろう。事態はアランの世界観どおりになっていくんだから。
最初は妻に言われるままに穏健な良識派のふりをしていたマイケルは、途中でばかばかしくなり「酒でも飲もうや」となって、教養主義フ○ーーック的な身もふたもないおっさん風本音の世界に突入していく。ひたすら事態をエレガントに、丸くおさめるべく努力しつづけていたナンシーは、まっさきに腹の中をぶちまけてエレガントさを喪失し、やがて泥酔して子供じみたいたずらをしでかした後にいじめられる。平和主義を守り、リベラルな文化人のプライドにすがるペネロペは、感情がたかぶって、おそらくは彼女がもっともきらっていたはずの「くだらないことでぐちぐちいうバカな女」になってしまい(過去にアルコールで問題があったっぽいことまで匂わされ)、最後は平和主義もかなぐりすてて「フ○ーーック!!」と叫ぶにいたる。そんななか、最初から「どうせ友好的な関係なんてありえない、社会は闘争なんだ」といっていたアランだけは一貫して変わらない。途中何度かなさけない状態におちいるのだが、いつのまにか立ち直ってもとの冷笑的な男に復帰しているのだ。事態がどんどん悪化して乱戦の状態におちいっていくほど、そういう場所に適応し、そういう場所を愛するアランに居心地よくなっていく。見ている方も最初は嫌な奴だなと思っていたアランをだんだんと好きになる。いいぐあいに隙や愛嬌がちりばめられているし、なんとなく彼の言うことに説得力があるかのような流れになっているのだ。
映画の中で、すくなくとも1回、原題の「Carnage」という言葉が発せられるシーンがある。ほかでもないアランがいうのだ。彼はペネロペにむかって「僕はCarnageの神の信奉者なんだよ」とささやく。この1幕にかぎっていえば、こここそ彼の場所だったということだろう。ラスト、電話が鳴る。それこそ彼の勝利を告げる鐘だ。