ソラニン


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いつの時代でも、その時の若もののためにつくられた青春と恋愛の映画というのがある。つくられた時代に関係なく共感される普遍的な物語ももちろんあるけれど、「ぼくらの時代の」という価値はやっぱりあるだろう。そんな、今、自分たちの時代の青春の物語をもとめている人たちのための映画。
おなじ青春と恋とを描いた映画でもたとえば『500日のサマー』はあらゆる年代にむけた作品だったと思う。ある恋愛とその中にある心の動きにとことんフォーカスした作りのせいで、年代に関係のない普遍性みたいなものが生まれている。その一方で独特なスタイルの描写が、恋愛そのものに没入しきれない観客にも「よくできた映画」を見る愉しみを与えるだろう。
ソラニン』は主人公たちに近い年代にささればいい、という作りに感じる。大学時代をバンドに賭けていた青年と、その「夢を追う」姿に自分を仮託していた彼女。バンドメンバーの同級生たち。もちろん恋愛が真ん中にある物語だ。ただそれは、社会人になったばかりだったり、これからなろうとしていたりという日本の23歳くらいの人たちに共通の、移行期にあるものの視線をとおして描かれていて、その時代をとおりすぎた者の回顧の視線でもないし、距離をもって観察する視線でもない。
ぼくはもう社会人になってからずいぶんたった。じっさい遠い過去だ。それでもその移行期の感覚をすこしだけ思い出せる。会社に入り一丁前にスーツを着ていながらも、その世界には入り切れていない自分を意識していたし、それが自分らしさを守っていることだなんて思っていた。けれど仕事のついでに渋谷に行き街を満たしているカジュアルな若者たちを見れば、ここにはもう属していないんだなあと感じたし。

主人公たちはその世界に入ることを拒否し、鮮やかな色彩にみたされた学生時代の世界の延長に生きるよろこびを見つけようとする。映画の視線もそれによりそっている。学生時代の仲間の結束が生き生きとあり(2年もたっていないんだから当たり前なんだよ実は)、みんなで集まればそのノリに帰っていけることが美しいこととして描かれる。社会人の世界はくすんだ息苦しいものとして描かれている。
前半はそういう空気で流れる。ディティールの描写もどこか既視感がある。芽衣子(宮崎あおい)のはしゃぎかたもちょっと型にはまっているし、口角をあげたプロっぽい微笑みはなんだかアヒルが出てきそうだ。仲間と海に行くシーンもそうだ。例によってバカな男たちは水をはね散らかしてはしゃぎ、女たちは「まったくガキなんだから(クスッ 」みたいに目を見合わせる。『はちみつとクローバー』でも似たような常套句的なシーンがあったね。
ただ中盤に近づいてだんだんと移行期の苦しみが主人公たちを追い込んでいき、ついに種田(高良健吾)が号泣しながらスクーターのアクセルを全開にすると一気に空気が変わる。秋の一日、寒気が降りて来て、あっという間に夏の空気が消えてしまうみたいにぬるい移行期の空気はどこかへ消え去る。そこからは音楽というものにむかって物語も主人公もまっすぐ進む。
宮崎あおいはもう少し太ってほしかった。せっかく同棲している23歳のカップルが猿化するところでも肉の感じがなさすぎる。欲情している見たいにみえなかった。いや決してエロいとこが見たいという意味じゃなくてだね、ここは欲情しているべきなんだよやっぱり。でもラスト近く、スタジオで真剣に練習する彼女はいままでになく美しくみえた。