ビールストリートの恋人たち

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<公式>

ストーリー:ティッシュ(キキ・レイン)とファニー(ステファン・ジェームス)は幼馴染み。マンハッタンの貧しい家庭に生まれた2人はいつの間にか恋人になり、将来を誓う仲になっていた。木の彫刻アーチストを目指すファニーとデパートの香水売場で働くティッシュ。やがてティッシュは妊娠していることを知る。おそるおそるママ(レジーナ・キング)に、そして家族に告げる。パパもお姉さんも歓迎してくれた。でもそれを告げられたファニーは戸惑う。そう、彼は無実の罪で刑務所で服役中だったのだ.....

まず、邦題につまらない突っ込みをせずにはいられない。「ビールストリートの恋人たち」。さすがに違うだろう。だってビールストリートは2人が暮らすマンハッタンから1500kmも離れたメンフィスの繁華街なのだ。ブルース発祥の地とも言われるところだ。原題は『If Beale street could talk』、なぜか映画のプロローグでは「ニューオーリンズの通り」と言っている。これもちょっと不思議なはなしだ。

お話は1970年代、マンハッタンのハーレムが舞台だ。監督バリー・ジェンキンスが暮らしたというSt.Nicolas aveや、Minetta stでロケをしている。1970年代のハーレム。映画の中のそこはノスタルジックで美しく、道をいく住民たちも穏やかで小ぎれいだ。おなじニューヨークでも『ワイルドスタイル』の舞台になったサウスブロンクスの戦場みたいな荒廃ぶりとは全然違うのだ。

本作が紹介されるときはかならず言われるだろうし、見た人もほとんどが感じること、この映画のなかの世界はひたすらにうつくしい。ファーストシーン、2人が公園らしいところを並んであるく。ファニーはブルーのデニムジャケットに黄色いシャツ、ティッシュは黄色いコートの中にブルーのワンピースを着て、彼らの周りには秋の黄色い落ち葉が舞い散る(公式の予告編みてくださいね)。往年のフランス映画みたいだ。2人がデートする夜の街もやさしげなネオンが雨の路面に反射する。

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主演の2人も美しい。ヒロインのキキ・レインはデビュー作だそうだけど、なんというかこれはもうアイドル顔なんじゃないだろうか。スリムでちょっと幼い顔で、なんともお洒落に服を着こなしている。設定では「リベラルな方針を打ち出すため」に黒人を売場に配置してるデパートに雇われているから、それなりにちゃんとした収入はあるんだろうけど、まずしい地域のスタンダードという雰囲気じゃない。

ファニー役のステファン・ジェームスもなんともいえずいい顔だ。かれもアーチストを目指すもの静かな男役だから、ワイルドな感じではぜんぜんない。それからテッシュの家族たち。アカデミー賞受賞のお母さん、レジーナ・キングは初登場の場面から、「これはただモンじゃないな....」と思わせるみごとな面構えで、予想にたがわず、その後も家族と物語をぐんぐん引っぱっていく。

監督が小津映画の手法と同じ撮り方だといってるように、そして小説世界に入りこむみたいに観客にも(スペクタクルを観客席から見るんじゃなく)没入してもらうために、役者の正面カットの切り返しがすごくおおい。物語の「現在」である、刑務所にいるファニーと面会にいくティッシュの対話の場面はほとんどそれだし、他の対話シーンも基本的に正面だ。

技術的なことはよくわからないけれど、この映画では出演者たちもとにかく美しく撮るために色んなことをしているんだろうと思う。どアップでも生々しくない、若い黒人の光沢のある肌を彫刻みたいに撮る。街の風景だってたぶんそうだろう。同じ時期の同じ場所をドキュメンタリックに撮れば、もっと殺伐としていたり整備がいきとどいていない感じはいくらでも出せるはずだ。

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ストーリーはとてもシンプルだ。人種差別による不公正な公権力のせいで試練を受けている恋人たち。彼女は困難の中で子供を産む試練にも立ち向かわなければならない。でもそんな彼女を、そして彼女の恋人の裁判を全面的に支える家族がちゃんといる。物語はそんな現在と平行して2人が幸せだったころを回想しながら進む。

原作もほぼ同じ構成だけど、さらに回想の部分が厚みをまして、ファニーの家族が属する教会と、違う宗派のティッシュたちとの違和感みたいなところも描かれている。その辺は映画では2家族が集まったときの口論の場面でかいま見られるくらいだ。

話がシンプルになり、たしかに世界のどこにでもいる恋人たちのストーリーといえるようになったのかもしれない。原作はアメリ黒人文学の重要人物ジェームス・ボールドウィンの小説だ。原作を尊重すれば、どうしたって物語はある種の政治性をおびないわけにはいかない。監督はできるだけそれをヒロインの個人的な視点、個人的な物語として見せようとしたんだと思う。物語にでてくる白人たちも、ストーリー上必要な悪役をのぞけば、ニュートラルに描いている。

でも個人的には、前作『ムーンライト』、描く世界はものすごく小さい黒人コミュニティだけ、キャストも黒人だけ、ほとんどミニマルといえるストーリーのほうがむしろ普遍性があるみたいに感じた。

ちなみにプエルトリカンのチンピラ(でも根は誠実な男)役で1シーンだけ出てくるペドロ・パスカルは『キングスマン・ゴールデンサークル』の彼だ。彼にかぎらずちょい役で出てくる役者がいい雰囲気で、監督は「アカデミー賞を取ってよかったのは、こういう俳優が喜んででてくれる」と冗談ぽく言っている。

 ■画像は予告編から引用


 

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