ザ・クリエーター/創造者 & アド・アストラ

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ストーリー:今から50年後くらいの未来、LA中心部で核爆発が起こる。AIの攻撃と判断した米政府、西側諸国はAIの開発や使用を禁じる。いっぽうアジア諸国はAIとの共存を選び、両陣営は抗争状態になっていた。元特殊部隊のジョシュア(ジョン・デヴィッド・ワシントン)はアジアに潜入し、究極の開発者”クリエイター”の暗殺に向かう。そこで彼が出会ったのは兵器でもある少女型AI、アルフィーだった....

GODZILLA』『Rogue One/Star Wars Story』などの監督、ギャレス・エドワーズの監督・脚本作。専門家たちの声は「いま、オリジナル脚本で、シリーズものじゃないSF大作が作られたこと自体尊い」。賞賛のトーンとしては少し物悲しい。そういうものなのか、現代。「インディーズ的制作方法を大作に融合させた」というのもある。必ずでるのが、コンシューマービデオカメラSONY FX3で少人数クルーがアジア各地の風景をゲリラ的に撮影して、画面のベースに使っているという話。

ストーリーはそこまで独自という感じのものじゃなかった。「人類vsAI」というおなじみの対立は、「〈人間〉の境界は何か」とか「人間とAIとのコミュニケーションには〈心〉が介在するのか(または人間が勝手に相手の反応アルゴリズムに〈心〉を投影してしまうのか)」みたいな機微がテーマになりがちだけど、本作ではそこまで踏み込まない。アクションとエモーションが主体の物語だから思考実験タイプじゃないのだ。

前者は古典『ブレードランナー』の中心的テーマだし『her』『エクス・マキナ』『アフター・ヤン』それに新しい『ブレードランナー2049』は後者を描いている。本作でのAIは人型ロボットに人工知能が組み込まれた個体だ。一部は見るからにロボットで、かといって『Chappie』みたいな機械っぽいロボットに人間性を感じさせる演出でもない(ロボットのエモーショナルなシーンは1つだけあった)。この辺りのAI+ロボットの心や記憶や人との関係はNetflixアニメの『PLUTO』の方がだいぶ丁寧に描いていた(8話ドラマだからキャパシティが違うけど)。

登場人物として機能するのは〈シミュラント〉と呼ばれる、人間の姿をコピーしたロボットだ。『エクス・マキナ』の初期段階みたいに後頭部はわかりやすくメカ化されている。表情は人間と同じように感情表現できる。助演の子役マデリン・ユナ・ボイルズ渡辺謙はこれらだ。メカ的な制約は時々あるが、反応は普通の人間と変わらない。それどころかボイルズ演じるアルフィーは後半になると単なるいたいけな少女となり、いかにも泣いて欲しいところで涙を見せたりして、急速によくある大人と子供ストーリーの雰囲気になっていく。

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(c)2023 20th century studios via imdb

僕がいいなと思ったのは物語世界のデザインの方だ。ハイテック化するアジアと保守的な西側、という物語の対立軸も若干どうかと思うし、「アジア」のざっくりとしすぎたまとめ具合(ベトナムの農村風景や粗末な木造建築の漁村、唐突な仏教寺院風テンプル、東京的なカオスなハイテク都市...)も少々素朴すぎる世界観にも見える、というところはあるけど、映像としてはアジアンミクスチャー料理みたいな新鮮さはあった。

監督が『アキラ』も参照作にあげているように、そしてデザインソースに80〜90年代のSONYデザインをあげているように、プロダクションは既視感ありつつぼくらの見たかったメカのかっこよさを実現している。基地の扉一枚、ローカルの車両、雑魚キャラのAI ロボもそれなりの説得力ある造形だ。

ちなみにあらためてSONYのデザインを見ると、エモーション的要素が入らないハイテクデザインのキレの良さみたいなものを感じる。機能を形にするところで踏み止まり、よけいな面やラインを付け加えないのだ。AppleSONY 以上にミニマルなデザインを創るけれど、SONY より少し分かりやすくエモーションに訴える造形を入れてくる気がする。

もっとも秀逸なのは超高高度にいる巨大な空中要塞〈ノマド〉だ。攻撃対象を上空からスキャンし、その後圧倒的な破壊力を上空から浴びせる。物語の世界観にすごく効いている。上空の支配者イメージ、最近だと『 NOPE』のUFOがあったね。衛星軌道からの攻撃は『アキラ』にでてくるSOL。マンガでいうと『横浜買い出し紀行』という名作SFに上空から地上を観察する巨大飛行体が描かれていた。あと『未来少年コナン』のギガントにも形態的には近い。この無慈悲な存在が米国コングロマリットの象徴みたいに物語に君臨するのだ。

ところで〈シミュラント〉という人間そっくりAIロボの名称。人間の突出した顔認識力で、3つの点がいい具合に並んでいると嬰児でも顔だと認識する〈シミュラクラ現象〉を思わせる。いろんなパターンの中に顔を見いだす〈パレイドリア〉という能力の一つだ。

監督がいうにはシミュラントのデザインを考えるとき、顔と首の前側がないと人は生身っぽく感じてくれない(顔だけだとお面のように見られる)と分かって首の人体部分を残したそうだ。よく顔写真だけ切り抜いて親しみやすさ狙いのイラストみたいのが作られる(TV局の番宣素材とか)けれど、あれも首部分まで入れると急に生々しくなるということだろか。

 

◾️アド・アストラ

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こちらは特にAIと人間、というような話じゃない。人間同士の、というより父子の葛藤が宇宙スケールで展開するのだ。SF的描写は『ザ・クリエイター』と比べると今の宇宙技術の延長みたいなところがある。舞台は太陽系で、火星に基地があり、冥王星まで行くのが人類の到達点、くらいの世界だ。

出てくるガジェットも、実在の宇宙船や月面車両や、そんなものを思わせる、機能100%みたいなデザインだ。一番インパクトがあったのは、成層圏はるか上までの高さがあるタワーのシーンだ。事故が起こると人々は真っ直ぐ地上に落下していったから、重力圏は脱出していないんだろう。地上と人工衛星軌道をつなぐ宇宙エレベーターは技術的にそんなに夢物語じゃないという。タワーのイメージは新鮮だった。

そんな感じでブラッド・ピットもこの上なく抑えめの演技で、ストーリーも抑制的に続くのだが、途中のハラハラシーンで割とトンデモ風展開になってしまうので作り手がどこまでリアルに描こうとしているのかが見えづらくなっているきらいはある。

 

 

 

東京流れ者 & ジョンウィック・コンセクエンス

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ストーリー:東京の極道、倉田組が解散し、通称不死身の哲(渡哲也)はカタギになる。しかし親分(北竜二)が始めた不動産業をライバル組織大塚組があの手この手で妨害し、ついに人死にが出てしまう。抗争に絡んだ哲は庄内の親分の所へ世話になるがそこでも抗争、流れて佐世保にくると、また命を狙われる。ついに東京へ戻った哲は....

1966年、日活、鈴木清順監督。英語タイトルはTokyo Drifter。下で紹介している『ジョン・ウィック』もオマージュを捧げている、ちょっと変わったモダンヤクザ映画だ。だいぶ前にレビューした『殺しの烙印』と比べると、ヤクザ映画のフォーマットだからそこまで抽象的じゃないが、現実感無視の画面効果最優先の室内セットや色彩構成、ライティング、そしてスタイリッシュな画面の中の様式的な銃撃戦や格闘アクション....なるほど87Elevenがやろうとしていることの原型なのはよくわかる。

本作は当時デビュー直後の若手有望俳優、渡哲也売り出しの企画で、タイアップで映画と同名のレコードが発売されて、38万枚となかなかにヒットしている。だから本編でもテーマ曲として流れるし、ヒロインも同じ曲を歌い、というか本編中何度も何度も流れて、時には哲也が口笛で吹き、若干冗談めいたくらいに本作を聴かせるのだ。営業的要請に応えたとも言えるが「流せば文句ないだろ」と逆手にとってやりすぎ感を出しているようにも見える。

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ストーリーはカタギになっても義理に厚く元親分を助ける主人公、まっすぐすぎる生き方であちこちに衝突しつつも慕われる、しかし不遇の身の上の中でついに怒りが頂点に達して...的な任侠クラシックでお馴染みの展開だ。正直に言ってストーリーも台詞回しも大して面白くない。義理人情もそんなに染みてこないし、裏切り展開もそれほどスリリングじゃない。あと、これは僕の個人的好みだけれど、主演の渡哲也、当時としてはかなりの長身で、一見して主役感は半端ないのだが、流れ流れる元極道の哀感というにはまだ童顔でどこか少年っぽいのだ。

もはや伝統的任侠映画は合わないこの時代、本作では今風の風俗を見せながら、ヤクザもスタイリッシュに撮っていく。舞台は赤坂や表参道、ヤクザが経営する店もモダンデザイン(というかピアノとカウンター以外何もない)インテリアだったり、ゴーゴー的な当時のダンスを踊る店だったり。ヤクザはギャング映画風にツイードのコートを着てアメ車に乗る。哲はライトブルーの爽やかなスーツで走り回り、彼を助ける兄貴的男(二谷英明)は鮮やかなグリーンのジャンパーで銃を構える。

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(C)日活

漂泊の主人公を追いながら、映画のトーンも章構成の作品みたいに場面ごとにがらっと変わる。プロローグはモノクロの港湾地区暴力シーン、港湾鉄道があって芝浦ふ頭あたりに見える。そして東京オリンピックの新しい高速道路や代々木体育館を写して、おしゃれな東京編になる。哲が旅立つ庄内編は実際は新潟県十日町ロケで、江戸時代の渡世人屋敷と変わらない和風の家に雪景色、鉄道の、王道任侠映画風の舞台だ。そして佐世保は米軍や愚連隊が出入りする狂騒的なクラブが舞台。セットでド派手なドタバタ乱闘シーンを撮る。ロケ部分は景色が似た横須賀ドブ板通りだ。

とまあこんな感じで、基本はスター映画だから、若い渡哲也や松原智恵子に魅力を感じればそれで十分だし、ぼくは当時新鮮だった都市の風景や、あとは鈴木清順独特の、低予算な中でのミニマルかつトリッキーな画面を楽しんだ。

 


◾️ジョン・ウィック・コンセクエンス

<公式>

ストーリー:伝説の殺し屋、ジョン・ウィックは、殺し屋世界を支配する主席連合の中で成り上がった男、グラモンに命を狙われる。グラモンはジョンの旧知の友、盲目の殺し屋ケインを差し向ける。どこにも安住の地がないジョンは、砂漠から大阪、ベルリン、そして最終決戦の地、パリへ向かう.....

トム・クルーズと並ぶエイジレスアクションヒーロー、キアヌ・リーブスのシリーズ、まあこれも『ミッション:インポッシブル』同様、何か語るべきことは特にない。無心に映画館の椅子にもたれ、アクションの連打を浴びて、整えばいいのだ。作り手は観客に奉仕するためにあらゆるアイディアと労力を投入して、キラキラとカラフルで、世界各地の風景が高クオリティで写し取られ、色彩もセットもライティングもアーティスティックで、それでいて戦うキャストたちの肉体性は十分に堪能できる高品質な3時間の体験を今回も作り上げた。

ファンは承知の通り、全く笑わない主人公ジョンが引っ張るこのアクション大作シリーズの基本トーンは「過剰」を重ねることで笑いをよぶコメディだ。所々にある悲しみや哀感は記号的なもので、観客をクールダウンさせるパートだ。今回は過剰さがさらに増し、若干ホテルバイキング的な膨満感すら発生しているようにも見える。

"アーティスティック”と書いたし、さまざまな評の中でこの言葉が見られる。ただしその方向性は「高級なキッチュ」だ。

 

フェイブルマンズ 

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<公式> 本公式が消えてこれが残った・・・

ストーリー:サミー・フェイブルマンはエンジニアの父とアーチスト気質の母と、3人の妹と暮らす。初めて見た映画『地上最大のショウ』の列車激突シーンに魅せられた少年は8mmでオリジナル映像を撮りはじめる。高校生になったサミーは同級生たちとエンタメ作品を撮るようになっていた。ある夏、サミーは家族と父の友人とのキャンプ風景をカメラに収める。しかし編集したフィルムには口に出せない家族の秘密が写っていた....

公開から半年たって公式サイトも消えて...いまさらながら配信で見た『フェイブルマンズ』。よく言われるように、ここ数年監督たちの自叙伝的映画は多い。本作はその中でも「映画作家としての自分』の見つめ方は群を抜いていた。スピルバーグの若い頃のエピソードはよく知られていて、本作のエピソードが実話なのは観客も承知のはずだけど、あえてノンフィクションの体にせず「フェイブルマン」という架空の一家にして、柔らかい映像で少し現実感をやわらげた。おかげで中心になる「映像作家になること」がまっすぐ入ってくる作りだ。

フェイブルマンという名字、実在するんだろうか。こんなサイトで検索してみると、ほんの少し記録があるみたいだ。とはいえ『ザ・ファブル』と同じFable(寓話、お伽噺)を込めた名前だから、「実話だと分かっていると思うけど、少し距離を置いて見てね」というようなことだろうか。ディティールも両親のビジュアルもかなり再現性は高いんだから。

お話はじつに見事に整理されていてするりと飲み込める。外形は少年の成長ストーリーであり、時間と共にいやおうなく変化する家族の物語だ。そこに映画人である自分の原型を作ったエピソードを入れていく。家族や学校生活のエモーショナルな出来事は、すべてが同時に映画の、映画作家の怖さを学んでいくステップにもなっている。辛い出来事も楽しい思い出もかれの作品として昇華するのだ。

そんな作りだから、周辺にいる登場人物はそれぞれに映画作家サミーを形成する役割を持っていて、民話とかに出てくる(あるいはRPGに出てくる、でもいい)キャラクター的にも見える。大事なお告げをしたり、象徴的なアイテムを残していったり、物語の進行に効率よく奉仕するのだ。

たとえば、ある夜に突然訪問してきてサミーに映画作家になることの宿命を告げる老人がいる。彼は亡くなった祖母の兄なのだが、なんとも唐突に現れ物語のテーマとさえ言える預言を残して、あっさりと去っていく。あとは、高校で彼をいじめていたジョック(学校のスター的スポーツマン)。かれはサミーが撮る高校生活ドキュメンタリーの主人公になる。ただのイケイケに見えた彼は突然高度な洞察力を持ち、サミーの作品の恐ろしさを一瞬にして悟るのだ。

それに偉大な老監督もいる。偉大な老監督との出会いは有名な実話エピソードで会話も実際にあったものらしい。でも物語的にはファンタジーに出てくる老賢者そのものだ。そんなファンタジックな経験があるのがさすがとも言える。予告編でわざわざ「これはメタファーではない」なんて言っているのは、自分でも寓話的にうまく作りすぎられてる自覚があるんだろうか。

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[c] Storyteller Distribution Co., LLC. All Rights Reserved.via Empire Theater

サミーは初めから映像センスがある。最初、幼児のサミーが映画の影響で鉄道模型のクラッシュシーンを撮る時、どう見てもプロのライティングでドラマチックに撮られているのは笑ったけれど、その後もアイディアは次々にあふれ出る。高校時代の映像は今も残っていて、初めからスペクタクルや映像のイリュージョンに関心があるのがよくわかる。

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そんな彼が映画の恐ろしさを知るエピソード。1つは「撮る」ということの暴力性、対象物の何かを奪い取って記録の中に封じ込めてしまう性質が描かれる。盗撮ってそういうところがあるでしょう。撮られたほうは奪われた気持ちになるし、撮る方は何かを我が物にする快感でやっていると思う。その一方で被写体に惹きつけられてしまう自分もいる。

もう1つは「編集」によって自分がちょっとした世界の支配者になれる怖さだ。撮られた人物は編集者がカットを選び、順序を変えてつなぐことでその世界の住人として閉じ込められてしまう。そして編集者は思うように観客の感情をあやつる力も持ってしまう。いじめっ子はそのことに気づくのだ。

それにしても宮崎駿のところでも書いたみたいに、スピルバーグもクリエイティビティを素直に伸ばしていける恵まれた環境にいたんだとつくづく思う。カメラを貰えるのも撮影仲間がいるのもそうだし、特に描かれてはいなくても、アーティスティックな母親やテック系エンジニアの父親から与えられたいろんな文化資本もあるだろう。

語り口は、全体をとおしてカメラワークといい、シーンのつなぎといい、ため息が出るような気持ちよさで、小気味よいひねりやアイディアが贅沢に盛り込んである。サミーが撮影しているシーンではカメラを動かすサミーを動くカメラで追ったり(同じ被写体をサミーと別のアイディアで撮っているみたいでもあり)、なんとも憎い技の披露ぶりだ。

 

カード・カウンター&ラスベガスをぶっつぶせ 〜カードカウンティング映画2作

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ストーリー: ウィリアム(オスカー・アイザック)は、対テロ戦争の頃、軍の収容所に勤務し刑務所で服役していた帰還兵。家族も定職も持たず、ポーカーで稼ぐギャンブラーだ。カード・カウンティングの技で確率をあげ大勝ちしない。そんな彼が1人の若者と出会う。若者は彼の元上司、残忍な収容所のボスへの復讐を誓っていた....

監督ポール・シュレイダー、2021年公開。シュレイダーはスピルバーグやルーカス、デヴィッド・リンチとかと同世代、マーチン・スコセッシ監督の『タクシー・ドライバー』や『レイジング・ブル』などの名作の脚本家でもある。本作プロデュースはスコセッシだ。十分ベテランだけど、本作はいかにもな回顧モノや過去のリサイクルとかじゃない。とはいえひたすら抑えたトーンの枯れた感じは、若い監督ともやっぱり違うかもしれない。

ミニマルな映画で、ちゃんと人格を感じる登場人物は4人くらいしかいない。他に何度か出てくるキャラクターもいるが背景みたいなものだ。主人公は各地のカジノで仕事をしてモーテルに帰る。ポーカーのシーンも派手な大勝負みたいな撮り方じゃなく、「目立たずに生きたい」という主人公の願望そのままに淡々と進む。シュレイダーお馴染みのラストの暴力的爆発も本作では非常に抑制的で情報量を絞りに絞った描写になっている。

この感じの理由は「予算がない」もそうとう大きいはずだ。予算額は不明だけれど、そもそも世界興行収入が7億円くらいの小規模映画だ。スコセッシが声をかけてなんとか資金を集めたインディー作品で、しかも撮影時にコロナが直撃。それもあって撮影自体、何度もリテイクできずに1〜2テイクでどんどんOKしていったそう。クリント・イーストウッドなみだ。

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(C)2021 Focus Features. A Comcast Company.

物語は収容所時代に犯した罪と心の傷を封印して静かに生きる主人公に、収容所のボスへの復讐のパートナーになって欲しくて若い男が近づいてくる。主人公は復讐の虚しさを教えたくて彼を付き人みたいにギャンブラーの旅に同伴させる。老成した主人公と未熟な青年の物語はイーストウッド的な擬似父子感のあるロードムービーとして進む。

主演オスカー・アイザックは際立って枯れて抑えめなキャラクターだ。白髪混じりの髪をオールバックにしていつもと違う人のようなスタイリッシュさ。過去の犯罪歴や暴力性を隠して静かな殺気みたいなのを見せる、渋めの「元ヤクザ映画」的人物だ。ただ高倉健ぽいそういう人物像にどこか神経症的なトーンを混ぜることで独特な雰囲気になる。

で、タイトルになっている肝心のカード・カウンティング。ポーカーでのカウンティングは場の出札を覚えて自分や相手の役ができる確率を計算するという、理屈は分かるけれど自分ではできる気がしない。映画ではタイトルにもなっているわりに、ポーカーでカウンティングしている描写はあまりなかった気がする。というかぜんぜん記憶に残ってない。物語では主人公はアメリカのポーカーの一大イベント、WSOP(ワールドシリーズ オブ ポーカー)に出場する。そのシーンもぜんぜんキラキラさせず沈鬱ともいえる描写の中で世界大会は進むのだ。

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🔲ラスベガスをぶっつぶせ

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ストーリー:ベンはMITの数学科学生。ハーバード大医学科へ進学が決まったたけれど、学費と生活費で30万ドル必要だ。数学的な才能があったベンに注目した教授は彼をブラックジャックのチームに誘う。頭の切れる学生を集めて「カードカウンティング」を駆使してカジノで荒稼ぎするのだ。ためらっていたベンだが参加するとすぐにエース格になる。毎週大金をゲットして浮かれるベンたち、カジノのセキュリティは密かに目をつけていた....

本作、好きなテリー・ギリアム作品『ラスベガスをやっつけろ』に邦題が寄りすぎていてなんだか腹が立つので見てなかった(まあどっちもロクな邦題じゃないんだけど)。原題は本作が『21(原作タイトルは Bringing down the House)』、ギリアム版は『Fear and loathing in LasVegas』で本作は原作タイトルに近い感じだ。

ブラックジャックのカードカウンティングはポーカーよりポピュラーらしい。場に出ているカードを3区分して-1, 0, +1のスコアを付けて合計し、スコアから残りカードの有利不利を判断、それに合わせて勝負するというもの。映画ではカウント役がスコアを仲間に暗号で教えて、有利な場にプレイヤー役が入って稼ぐ。イカサマじゃないから大勝ちできるかは分からない。勝率を上げて全体として勝つイメージなのかな。映画ではカウンティングがバレたプレイヤーがセキュリティに殴られ脅かされているけれど、非合法じゃないし、出禁になるくらいだそうだ。

モデルになったMITの学生、中国系アメリカ人のジェフ・マーはチームを結成、カジノでで数億円稼ぎ、だいぶ経ってから面が割れたそうだから大成功だったんだろう。映画ではイケメンのイギリス人俳優(とブロンドのヒロイン)を主役に持ってきて、典型的ホワイトウォッシュの批判も浴びたらしい。青春の挫折と野望と成功、みたいなわかりやすいストーリーにしている。

まあ特に入り込む話でもないし、おっさん観客に刺さる苦味や切なさや繊細な視線があるというタイプの映画でもない、時々アメリカ映画にある「スマートな男子が調子にのる」モノだ。その時代の青春映画を見たい観客に正しく消費されるタイプの作品というかんじかな。

アステロイド・シティ  

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ストーリー : 1955年、アメリカ。南西部の砂漠の街アステロイド・シティは隕石で出来た巨大なクレーターが名物だ。街で開催する優秀科学少年少女表彰式に人々が集まる。4人の子供を抱えるシングルファザーの写真家(ジェイソン・シュワルツマン)娘を連れた有名女優(スカーレット・ヨハンソン)、ミュージシャン、児童を引率する若い女教師....ところが、授賞式に突如UFOが着陸し、コミカルな宇宙人が現れる。街は軍に封鎖されて....

ウェス・アンダーソン2023年作品。いつもながらのどこか人を食った微妙な笑いが風景にもセリフにも登場人物のデザインにもあって、あれこれみたいな、子供や少年少女がお話のわりと中心にいるストーリー、キャストもお馴染みのジェイソン・シュワルツマンエイドリアン・ブロディティルダ・スウィントンウィレム・デフォーなどがいて、画面は当時のカラーフィルムをイメージしたポップな色彩で、要するに「いつものウェスのアレ」を期待した観客が裏切られることはない。

でありつつ1950年代アメリカのTVドキュメンタリー、舞台、映画、演劇スクールをモチーフに、ショービジネス全体に対する思いがわりとシリアスに描かれ、かつここ何作かで特に目立つ、お話の中にお話が入って....という入れ子構造がより複雑になっている。「ここは劇作家を描くTVドキュメンタリーです」というシーンは舞台劇風のモノクロ、逆に「ここは作家の書いた舞台です」という(映画のメインストーリー)シーンは普通のカラー映画として見せるのだ。建物や背景の山など見るからに舞台装置風にしているけれど、舞台みたいに画角を限定しているわけでもないし、カメラは自由に動くし...観客からすれば混乱する作りだ。

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©2023 Pop. 87 Productions LLC ; Focus Features LLC.

ウェスの映画はふつうに人気だけど、ある種の映画ファンはいつまでも冷淡な気がする。ハードでリアルでバイオレントな「オレたちの」映画が好きなファンは、どこかおもちゃっぽい、きれいな画面でエモーションが薄めのウェスの映画を「あぁ、おしゃれですよね」「ブランドとのコラボも多いし」的に昔からあるファッションオリエンテッドな枠に入れがちだ。

たしかに今回もさらっと見ると『フレンチ・ディスパッチ』『グランド・ブダペスト・ホテル』で感じた印象はある。手っ取り早く観客に打ち込まれるエモーションもないし一発で記憶に残るインパクトのあるビジュアルもない。監督はがんとしてそういうところへ行こうとはしないのだ。他の作品では強烈な撮り方をされることがある名優たちもスタティックな画面の中で収まりよく写る。

「オレたちの」系映画を尻目に、監督はこの世界をひたすらに極める頑固なまでの作家になっていくようにも見える。「巨匠」になるには不利な戦い方で、膨大な労力と能力を注ぎ込んで誰にも近づけない世界を作り込むのだ。Youtubeで、いろんな名作をウェス風に撮ってみた動画のシリーズがある。同年代の他の名監督だと、作品ごとにルックも変わるから、ちょっと作りにくいはずだ。ウェスにはそれがしやすい一貫性があるのだ。

監督は撮影前にアニメ化したストーリーボードを作るという。俳優は自分がどう収まるか理解して、自分の演技をつくっていく。枠にはめられそうな気もするけれど、名優たちが集まるんだからただの監督のコマじゃない充実感がきっとあるんだろう。確かにニュアンスは十分に豊かなのだ。『グランド・ブダペスト・ホテル』のストーリーボードはこんな感じらしい。

撮影はカメラマンの肉体性みたいなものがあまり感じられない。即興性のある手持ち撮影なんて記憶してる限り見たことないし、俳優たちの動きとぴったりとシンクロしたドーリーのカメラで、ここでもどこかアニメやCG的な完成度を見せる(でもCG背景は使わないのだ)。初期からずっと組んでいる撮影監督のRobert Yeomanとオペレーターたちが1作ごとに完成度を上げていっているんだろう。

ひとことで言ってしまうとウェスは「何を語るか(=メッセージ)」よりも画面の中に自分だけの世界を作り上げて観客にその別世界を提供する、そういうタイプに見える。その世界の完成度に監督はなによりも誠実なんだろう。ただ、うっすらと感じるのは前作や前々作にもあった公権力が何かを制約する展開が今回も出てくる(軽く、ユーモラスにだけど)。お話のアクセントとしてちょうどいいだけかもしれないし、どこかそういうものへの反発や危機感を持っているのかもしれない。初期作品にすごく色濃かった「自分をかえりみない親に傷つく子ども」のトーンは少しずつ薄れていっているように見える。

ロケ地はマドリッド近郊のChinchonという街。Googleで見ると平坦な農地だけど、映画では砂漠風だ。撮影用に一面の砂にしたんだろう。メイキングでも映っている。

 

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