グラン・トリノ


<公式>
アメリカのおじいさん。
肉体は衰え、その代わりに自分を守ってくれる社会的ステイタスも得られなかったおじいさんは、プライドとセルフ・イメージと、弱者となった自分の実像との乖離に苦しむ。彼が住むのは年長者だから敬ってくれるような文化圏でもなく、弱者をいたわる余裕のあるコミュニティもない、衰えつつある町。そんな彼がヒーローでいられるのは、もちろん彼自身のマッチョ性もあるが、やはり武器によって守られているからだ。
銃、車。それも護身用の拳銃ではなくて軍用ライフル。燃費重視のコンパクトカーではなくて、ごついピックアップトラックとフルサイズのマッスルカー。普通の文明国で個人が所有できる最大級の武器が銃と車だろう(まあ銃については「普通」の範囲が狭いが)。主人公ウォルト(クリント・イーストウッド)はその二つを肌身離さずもつことで老人になってもオフェンス側にいることができる。道具の力を借りてでも自分で自分の身を守れる立場でいること、それが古典的なアメリカ人の美徳なんだろう。
ウォルトの住む街は自動車産業ベッドタウンで、中〜高級住宅街として発達した町。白人中産階級のコミュニティが崩壊し、マイノリティの若者たちが覇権を争っている。歩道に人気はなく、徒歩で移動するものはかならず災いにあう(そういう描写をしている)。ダウンタウンから避難してきた余裕のあるアメリカ人たちが住んだ町。彼らのほとんどはそこも見放してさらに郊外に避難した。見放した側にとっても少し胸が痛む町の光景かもしれない。ウォルトは荒廃した町で家と敷地を守り続ける。もっというと保守しつづける。彼のガレージにはいつでも使えるよう工具類が綺麗に整理される。家だけじゃなく、車もぴかぴかに磨く。描写はないけれど、多分銃だって定期的に分解してよく手入れしているはずだ。こうした彼の姿は、周り中に悪態をつく描写とはうらはらに、彼がアメリカ的な意味での模範的なモラリストであることをしめしている。自分を守ると同時に、自分の環境を保守すること。それができるライフスタイルが終焉を迎えつつあるという予感はたぶんアメリカ人たちにもあるだろう。このスタイルを支える何本もの柱は次々に折れた。
そんな彼の対比としてあらわれる隣人は、古きよきアジアのコミュニティを保ち、物質的なゆたかさよりも大勢の人々が支え合う生き方をつづける家族だ。長いキャリアの中で、さまざまな非白人を映画に写しとってきたイーストウッドは、東南アジアの山岳民族、モン族系のアメリカ人たちを上手にリスペクトを込めて描写する。主要キャストの一家をのぞけば、アジアンリゾートのビデオみたいに、柔らかい光のなかで、静かにエキゾチックな言葉をささやき合う、優しげな人々の群像として写す。そこには「東洋の叡智」を体現する占い師もいる。オリエンタリズムと突っ込みを入れるのはここではやめておこう。ただし単純にそちらが「もうひとつの道」で、アメリカ人もそっちに行こうという話ではない。そんな話がアメリカのマジョリティに評価されるはずはないのだ(『アバター』がある!?)。ウォルトとモン族をつなぐ姉弟は、アメリカ人観客が感情移入できるくらいにアメリカ化した若者として描かれる。自分を支えてきたアメリカの物質文明を受け継ぐ相手として、ウォルトは弟の少年を選ぶ(ただし一つの要素はのぞいて)。つまり彼らがこちら側にくるのだ。「アメリカ市民」として。その価値観を引き継ぐ者なら人種を問わずアメリカ人として受け入れる、もうひとつのアメリカの美点が観客に希望を残すだろう。そして少年に引き継がなかった一要素がもっとも明快なメッセージになる。

脚本のテーマ、モチーフが、『許されざる者』『ミリオンダラー・ベイビー』などとあまりにも重なるから、てっきりイーストウッドの製作、主演を前提にして書かれた脚本だと思っていた。プロダクションノートによればそうでもないらしく、若手脚本家の二人のデビュー作となっている。それにしてはイーストウッドが描いてきたことが繰り返されている。見事に一つの作品の流れになっているのだ。特にクライマックスで描いていることは『許されざる者』で描ききれなかったことの決着としてきれいに裏返しになっている。
えらく簡単にひとりごとで状況説明してしまったり(といってモノローグのナレーションでもなく)、ワルが絵に描いたような不良だったり、妙なギャグが入ったり、確かに経験の浅い脚本家っぽいところもあるが、それはそれで取っ付きやすいし、こまごまとした人種を配置したバランスもすごく取れている。