ザ・スーサイド・スクワッド ”極”悪党、集結 &  ハーレイ・クインの華麗なる覚醒

■ザ・スーサイド・スクワッド ”極”悪党、集結

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DCもの・MCUものは単発の作品と違って壮大な物語世界をふまえ過ぎている感はどうしてもある。その中では本作はわりと爽快に楽しめた。ストーリーはシンプルなので略。自分の中では『デッドプール』と同じタイプの楽しさだ。あえて命を極限まで軽く扱うことの風通しの良さみたいなことだろう。この手の見栄えはどうしてもアメリカでしか作れない。役者も含めてダイナミックさがね。

悪役軍団スーサイドスクワッドのキャラクターは過去コミック参照なのは分かるけど、最後に出てくる着ぐるみ特撮感(=円谷感)が最高潮のモンスターも過去コミックにあったのはちょっと意外だった。『ガメラ2 レギオン襲来』にもすごく近いイマジネーションだ。

映画のカラーに合わせて日本版公式サイトでもDCヒーローっぽさは出さず、ポップさと「悪役軍団モノ」を前面に出している。監督ジェームズ・ガンの紹介に商売敵の名作『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』の名前を出してるのも面白い。キャンセルカルチャーの餌食となってMCUを追放されたガン監督だけど縛りが解けてオリジンの香が濃くなっている。

監督の出身、トロマエンターティメントは『悪魔の毒毒モンスター』や日本ロケの『毒毒モンスター東京へ行く』とかが公開当時わりと親しまれていて、けっこう好きな人はいた。見たことない人も予告編でだいたいの世界はすぐわかる。

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中盤のクライマックスで「悪の塔」みたいなところで巨大水槽が爆発して大量の水が高層建築の上から激流になって襲ってくるシーンがある。最近見たなと思ってたら湯浅政明監督『きみと、波に乗れたら』だった。源流はパニックムービーの古典『タワーリング・インフェルノ』かも知れない。

そんなわけで「極悪」スクワッドのメンバーたちは実はぜんぜん倫理的だし、メッセージはストレートで、同じ悪趣味系ヒーロードラマ『ザ・ボーイズ』の国家・巨大企業に抵抗するチームと近い存在。主人公たちは相当色々考えない限り、わりと抵抗なく感情移入できる人たちだ。

それにしても同じシリーズネタの『JOKER』とは違うユニバースなんだよね?確かにこのコミック世界のふところの深さはすごい。

 


ハーレイ・クインの華麗なる覚醒

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スーサイド・スクワッド』の中心人物、ハーレー・クインをさかのぼって見た。シンプルに楽しめるアクションムービーなのは当然として、本作は向いてる方向がこれ以上ないくらいはっきりしていて、DCものであると同時に、近年のハリウッドの意識改革で続々と作られるようになった「多様性を目指した」作品の一つだ。

まあ、映画業界も前以上にSDGs的な公正な企業姿勢を見せないわけにいかなくなったということだろうけれど、見てる側からすれば、ヒーロー象もアクションのアイディアも色々になって、明らかに豊かになったと思う。

本作は物語の構造としては相当単純化している。ヒロインは依存していたジョーカーと別れて戦闘能力の高い女性チームと段々と団結していくようになる。敵は女性嫌いのギャングだ。初めは敵対していた女刑事も署内で男の刑事に功績を上手く持っていかれて昇進できない。女性の敵キャラはほぼいなくて、男性の味方キャラもほとんどいない。

たぶんその辺りはあえて思い切りシンプルにしたんだろう。華麗な動きのハーレイ・クインと仲間たちが鈍重でマッチョな男たちを1秒1人くらいのペースで倒していく映像をとにかくポップに見せるのだ。マーゴット・ロビーはどの程度アクションを自分でしているのか分からないけれど、『アイ・トーニャ』でもフィギュアスケートをかなりマスターしていたそうだから身体能力が高いんだろう。

身体能力だけじゃなく企画そのものにも深くコミットしていてプロデューサーの1人だ。スタッフ編成やキャスティングも彼女の考えが反映している。今年公開の『プロミシング・ヤング・ウーマン』プロデュースといい、他の出演作といい、シャーリーズ・セロンと双璧感すら出てきた。役者としていうと顔にわりとクセがなく本作のコミック的作り込みの収まりがいい。

メンバーの1人クロスボウメアリー・エリザベス・ウィンステッドタランティーノの『デス・プルーフ』で悪役凶悪ドライバーを撃退するチームの1人。女刑事役ロージー・ペレスは名前を知らなかったけれど『デッド・ドント・ダイ』『悪の法則』古くは『ドウ・ザ・ライト・シング』にも出演してた人だ。

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ドライブ・マイ・カー

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ストーリー:俳優・舞台演出家の家福(西島秀俊)は脚本家の妻、音(霧島れいか)を突然失い、車の赤いサーブだけが残った。2年後、家福は広島に向かう。俳優を募集し、チェーホフの戯曲『ワー二ャ叔父さん』を上演するのだ。そこに妻と親しかった高槻(岡田将生)も参加する。主催者につけられた寡黙な運転手みさき(三浦透子)にサーブのハンドルをまかせ、2人は少しずつお互いの過去を語りあっていく....

かなり沁みた。というか残った。見ている時の感動や興奮より、後から効いてくるタイプの映画だ。香水のトップノートみたいな表層のストーリーやメッセージ、ビジュアル以外の、ミドル、ラストノート的な下の層が断然に豊かで、驚かされるレベルなのだ。カンヌの脚本賞もそれを生成させた映画の構造に対してなんだろうと思う。

原作は村上春樹の2013年の短編で『女のいない男たち』というオムニバスの1作だ。主人公家福が妻を失って、愛車のサーブを運転手みさきに託す、そして俳優、高槻と対話する....というプロットに、映画では他の2つの短編のエピソードを足している。広島のエピソードは映画オリジナルだ。

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原作を読み返して思うのは、本作は、監督が原作の枠組を使って、繰り返し自分が描いてきたテーマや手法やモチーフを詰め込んだ、ある種ここまでの集大成的な「濱口作品」だということ。同時に、3時間まで膨らませて、そこになかったテーマまで載せた物語の入れ物になりうる原作の容器としてのでかさだ。

原作はスケッチ的なふっと終わる短編で、女性の描き方など今の視線でみるといらなくないか?と感じる描写もあったりして、そんなに感銘は受けない。でも物語の土台としての強さがあるのかもしれない。エピソードは映画で少しずつ強化されている。温度低めの原作を少しずつドラマチックに、エモーショナルにしているのだ。家福と妻のエピソードも喪失も、みさきの過去も、高槻も、それから車も。

車、サーブ900は原作通りだけど、たぶんより古く、色は印象が強い赤になった。映画では30年前の完全に旧車だ。最新のSUVの間のサーブを正面から撮ったシーンでは旧車ならではの小ささで、絵本『小さいおうち』みたいだ。サーブは映画では長旅の仲間にもなって、それ自体アイコン的、主人公的な存在になった。

お話は喪失と悔いとそこからの....の物語だ。エモーションを強化された物語に、そんな経験がある人は(大人なら何かある)響くものがあるだろう。これが上で書いてるトップノートだ。

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ミドルノートは監督が探求し続けてきた、例えば「カメラに映る演技と真実」「言葉によって引き起こされる意味」という映画作りそのものあり方みたいなものだ。見た人ならすぐ分かるだろう。物語の中ではじつに色んなレベルで言葉が語られる。

・物語内での「素」の喋り(または生活の中でのちょっとした演技)

・物語内でセリフとして他者に聞かせる言葉

・自分が生み出す物語を聞かせる喋り

・物語内でセリフを朗読している音声

「素」の喋りは基本的にトップノート(表面のストーリー)を観客に伝える。下の3つは映画でプラスしたもので、物語内で練習し演じられる戯曲『ワー二ャ叔父さん』のセリフや、脚本家の妻が紡ぎ出した奇妙な物語だ。それぞれ理由があって演技として発せられるのだが、セリフや物語の持つ意味が自立して何かを語り出して、ストーリーを受け取る観客に影響し始める。

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濱口監督はインタビューで「ラストの着地がしっかり決まっているから物語のスタートは色んな振れ幅でも観客は納得できる」という意味のことを言っている。もちろん映画はストーリーが持つエモーションをちゃんと伝える作りだ。でもぼくにはどことなくそれらと監督が距離があるように見えた。それは偉大な作家の作品を原作にしたときに避けられない重みのせいかもしれない。

ストーリーの大事な部分は、原作の文章に忠実なセリフで語られる。見ていて「大事なことをセリフで語りすぎじゃないの?」と時々感じた。まるで観客に「今、俳優がセリフを読んで演技し、あなたに伝えています」と思い出させようとしてるみたいなのだ。

同じことを村上作品の映画化『ノルウェイの森』でも感じた。主人公を演ずる松山ケンイチとヒロインの1人水原希子の、やっぱり原作に忠実なセリフのシーンだ。村上作品の会話はそもそも日常語とは少し違う。やっぱり作家のレトリックの一部なのだ。だから実際に喋らせると必ず不自然になる。もう1つの村上作品『トニー滝谷』では、監督は原作のテキストを全てナレーションとして朗読させた。それを担当したのは今回の主演、西島秀俊だ。

主人公である演出家、家福にとって、言葉を受けとることがとても大事なものとして映画は描く。亡き妻とも、ある意味では身体のつながりよりも大事なものとして抱き続けてきた。言葉を紡ぐ職業の妻は、自分がいなくなっても言葉を残し、家福は受け取ることができる。でも言葉は彼を呪縛するものでもあったのだ。だからとても大事なあるシーンは、主人公が言葉の呪縛を解いてもらっているように見える。

ラストノートは、物語を肉体化する役者たちの姿、実景をゆたかに写し込んだロケーション(車の走行シーンは特にそうだ)が「物語を作り出すドキュメンタリー」のように生々しく感じられる部分だ。本作は撮影後の作り込みはあまり前面に出てこない。それよりいかに印象的なシーンを最適な場所のカメラで記録するか、がなかなかにリッチだ。色んなところで絶賛されている岡田将生の長いセリフのシーンは、伝えようとしているものより、伝えようとしている役者の演技が「出来事」として映しとられているみたいだった。

■写真は予告編から引用

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タイムループ3本その2・3 パーム・スプリングス&ハッピー・デス・デイ

■パーム・スプリングス

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ストーリーカリフォルニア州パームスプリングス。ナイルズ(アンディ・サムバーグ)はガールフレンドが司会する結婚式に出ている。知り合いでもないのにマイクを奪ってちょっといい話をしたり、新婦の姉に声をかけたり。初めは変な顔をしていた姉、サラ(クリスティン・ミリオティ)もだんだん意気投合して2人で式場を抜け出し、いい感じになったところでアクシデントに見舞われる。それが2人のタイムループへの入り口だった.....

イムループものの最新バージョン。制作費5億くらいのコンパクトな作品だけどなかなかのヒットだ。まあタイミングもあるんだろう。新作大作映画が止まった2020年の公開だ。基本的にはタイムループラブロマンス、『恋はデジャ・ブ』と同類の定番ジャンルだ。違うのはカップルが2人ともループの世界にいること。

上のストーリーではちゃんと書いていないけれど、アクシデントでタイムループに放り込まれたのはサラ1人、ナイルズは話が始まるだいぶ前からループの世界の中で暮らしている。しかももう1人、ナイルズの巻き添えになってループの世界に閉じ込められたロイ(J・K・シモンズ)もいて、その恨みからナイルズをたびたび襲撃する。

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本作、『恋はデジャ・ブ』で書いたタイムループ4つのお約束をきっちり取り入れている。眠るか死ぬかすると翌朝同じ結婚式の当日に目覚める。死がものすごくカジュアルになるのがこの設定の特徴だ。そしてみんな繰り返しの記憶を蓄積していく。毎日は少しずつ違うバージョンになっている。

ただし主人公の成長というところはちょっと違って、ナイルズは基本的に成長しない。彼はあまりにも長い間ループの世界に生きてきて、お調子者の仙人のようになってしまい、完全に順応してしまったのだ。色々無茶は試してきたらしいけれど、もはや飄々とした存在だ。

だからストーリーを動かすのは新しくこの世界に入ったサラの方だ。サラは脱出を何度も試み、その一方でこの世界ならではの無茶も満喫する。最近の物語らしく、ヒロインのサラが一貫してアクティブで、ナイルズはサラへの思いもあってそれに付き合う。「毎日変化も展望もないけれど生活に苦労はないから」...という保守的な男と、「こんな世界じゃ生きる意味があるの?」ともがく女の、つまりリアルワールドでもありそうな対比だ。

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イムループのメカニズムは一応説明される。詳しくは忘れてしまったけれど、量子力学的な、多元宇宙的な。後半、物語はそのメカニズムへの挑戦みたいな方向へ進みだす。多元宇宙=マルチバース、昨今映画界で氾濫している。MCUものはマルチバースを理由にいくらでも設定をリセットして新作を出してくる。『スパイダーバース』はともかく、他は物語上の必然はほとんどないんじゃない? ともかくこの概念、観客にも急速に馴染みが深まっている。昔はもうちょっと夢幻的・思索的SFのネタだった気もするけど....

物語は一貫して楽天的だ。主人公たちは不老不死で、いくら金を使っても翌朝には財布に戻ってるし、どんな失敗をしても(本人は覚えていても)引きずることもない。パラダイスなのは間違いないのだ。極楽だって変化のないタイムレスなものだろう。繰り返す日々を悲惨なものに変えれば一挙に地獄になる。のんびりした砂漠のリゾート地で、ハッピーな結婚式の日を繰り返せる彼らはタイムループの囚人の中ではかなりラッキーな方なのだ。ナイルズが順応するのも無理はない。それでも生きる意味を求めて脱出しようとするサラ。

制作・主演のアンディ・サムバーグは『ブリグズビー・ベア』の制作チームにも入っている。なんとなく西海岸の砂漠の景色が似ている。とはいっても『ブリグズビー』はユタ州、本作はカリフォルニアだ。それにしても『サタデイ・ナイト・ライブ』出身者が絡む良作は『ブルース・ブラザース』の昔から連綿とある。吉本どころじゃない。日本にいるとピンとこないけど、単なるお笑い番組というより一種のプラットフォーム的存在になっているのかもしれない。

 

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■ハッピー・デス・デー

ストーリー:女子寮で暮らす女子大生のトゥリーは今日が誕生日。昨夜初めて飲んだ大学生カーターのベッドで目が覚めた。性格の悪さが売りの彼女は傍若無人に1日を過ごした後、マスクをつけた殺人鬼に殺される。目が覚めるとそこはカーターのベッド、誕生日の朝だった。ループするトゥリーの毎日が始まる....

イムループをこれまた定番ジャンルの「マスクを付けた殺人鬼と犠牲になるビッチなブロンド」ものと一体化した作品。好評だったらしく同じヒロインで次作も制作されている。本作ではヒロインが死ぬとリセットされる。目が覚めて、お泊まりした男子寮から出たヒロインはキャンパスを一回りして毎回同じ出来事にあう(で、少しずつ変わる)。そこから1日が始まる。彼女は毎回死ぬ運命で、脱出するためにはとにかく生き延びなければいけない。ループものとしてはなかなか大変だ。しかも記憶だけじゃなく殺される時のダメージも少しずつ蓄積されるらしいのだ。

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ヒロインは遊び人風だけどお間抜けというより気が強くて攻撃的で性格が悪い美人の設定だ。どちらかというとヒロインの敵役になりがちなキャラ。『ヤング≒アダルト』の主人公にちょっと似ている。もちろんこれは『恋はデジャ・ブ』の公式通り、最初は嫌な奴だった主人公がループを繰り返すうちに成長していくストーリーだからだ。

イムループでありつつスラッシャームービーでもあり、ヒロインは殺人鬼に対抗しなくちゃならないので、戦うタフな女性にも成長していく。この辺りも最近の映画らしい展開だ。スラッシャー部分は控えめ。決定的なシーンは映さないし、殺人鬼も血塗れが大好きというわけじゃなさそうだ。

ロケ地の綺麗な大学はニューオーリンズにあるLoyola Universityだ。

■写真は予告編からの引用

 

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タイムループ3本その1 恋はデジャ・ブ

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ストーリー:お天気キャスターのフィル(ビル・マーレイ)は大してメジャーでもないのにスターぶっている男。ある街の年中行事の取材にブーブー言いながら出張だ。仕事を終え、帰ろうとすると吹雪で道路が封鎖になり、仕方なくもう1泊する。朝6時、目が覚めて外に出ると、どういうわけか世間は昨日とまったく同じ。そう、彼はタイムループの世界に閉じ込められてしまったのだ....

1993年公開。監督は1984年のヒット作『ゴーストバスターズ』のハロルド・ライミス。本作、なかなかの名作扱いだ。『ナイトオブザリビングデッド』がゾンビもののテンプレートを確立したみたいに、本作は近年のタイムループものの元祖かつ基本になっている。大体こんなフォーマットだ。

①主人公は1日単位で繰り返される世界に閉じ込められる。

②主人公が寝るか死ぬか、意識を失って目覚めると全てリセットされて、同じ朝が来る。

③ループの中で身体は年を取らない。でも記憶は積み重なる。だから今日を初めて体験する人と比べるとどこか世の中を見通している感じになっていく。

④主人公は初めはろくでもない人物だけど、段々と自分を見つめ直して成長していく。

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イムループの世界は人生の「あそこ、やり直せれば...!」という願望をミニマルな形でかなえる。今日が明日を制約し、どうしようもなく未来へ突き進んでしまうこの世界からの離脱、という願望の実現化でもある。でも、そういう因果律からの解放はけっきょく生きる意味を失わせる牢獄なんだ、という教訓めいた語りにもなる。

本作もそのフォロワー作も、全般にポジティブな物語だ。人生何度でもやり直せる、という感じ、繰り返される毎日を精一杯生きる大切さ、何をやっても無意味に見える世界の中で生きる意味を考え始め成長していく姿....いい話にしやすい。本人の記憶はリセットされず積み重なる、というところがキモだ。毎日は繰り返しでも成長することができる。

本作は元々ロマンチックコメディーとして構想されたのもあって、タイムループに陥る理由とかメカニズムは全く追求されない。とにかくフィルはループにはまり込み、詳しくは描かれないけれど、少なくとも十年分は続いている。そんな世界の中でのフィルの気持ちの持ちようと、ヒロインへの思いがお話のメインだ。

フィルは最初のパニックから立ち直ると、毎日リセットされるのに目をつけてやりたい放題し始める。ヒロインへの想いが高まってうまくやろうと無限のリテイクを繰り返す。しかしやがて絶望が訪れて死んでループを終わりにしようとしてもダメで、いよいよ本格的に抑うつ状態になる。そして....

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繰り返しを印象付けるために何度も目覚めのシーンが繰り返される。後半に来ると毎回朝からはじめないで、同じシーンの微妙に変わったバージョンがいくつも続く。見てると不思議な感覚になる。タイムループを描いているんだけど、それ以前にこれって映画の作られ方そのものじゃない?

俳優たちは同じカメラセッティングで同じセリフを同じ表情で繰り返し、ある部分だけちょっと変えてリテイクする。普通の映画撮影でやってることだ。デヴィッド・フィンチャーみたいに100回繰り返す現場だってある。繰り返しのシーンは付録映像によくある「未使用テイク」集に見えてくる。逆に同じテイクを使い回して、同じことが繰り返されていることも、あるいは同じような日々が続いていることも表現できる。

一発撮りのドキュメンタリックな作品でもない限り、ベストのテイクを求めて何度もやり直し、編集によって自由に時間を操作し、物語に仕立て上げる映画の制作は、どこかループする日常や多元宇宙に似ているのだ。だからけっこう相性がいいのかも知れない。

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主演のビル・マーレイの役はトム・ハンクスも候補に上がっていたそうだ。でも「ちょっと良い感じすぎる」からやめになった。分からないでもない。ビルの序盤の嫌な感じ、やる気のない感じはいい人化した後半よりぴったりくる。ヒロインはアンディ・マクダウェル。誠実そのものの雰囲気が主人公の成長のモチベーションになる役によく合う。

舞台になったのはPunxsutawney(パンクサトウニー)という読みにくい名前のペンシルバニア州の町。先住民の言葉が地名の元らしい。本作の原題『Groundhog day』というお祭りで有名だ。土着のマーモット(巨大なリス科動物)に春の訪れを占わせるのだ。

映画にもこのグラウンドホッグ(マーモット)は出てくる。リス科と行っても可愛いタイプじゃない。撮影中ビル・マーレイは手をひどく噛まれて病院行きになったという。ちなみにロケは別の街、イリノイ州ウッドストックという街で撮っている。映画は町おこし的なことになったらしく、映画にちなんだスポットが残っていたりするらしい。 

本作は最初に書いたみたいに、基本はタイムループというギミックのあるロマンティックコメディだ。 ただ見終わった感触で言うとディケンズの古典『クリスマス・キャロル』を思い出さずに入られない。キャロルでは3人の幽霊に連れられて過去・現在・未来を見尽くした主人公の代わりに、本作の主人公はある1日をサンプルに人生のあらゆる可能性を見て、ようやくいいひとになろうとする。多分同じこと感じる人多いだろう。

■写真は予告編からの引用

 

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ファンタスティックMr.FOX

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ストーリー:キツネのFOX夫妻は結婚前ニワトリ泥棒のパートナーだった。今では息子もでき、新聞記者を仕事にしている。でも地下の穴から樹上の家に引っ越したMr.FOXの野生の血が目覚め、泥棒稼業を再開してしまう。被害にあった3人、養鶏のビーン七面鳥のハギス、林檎酒作りのバンスは報復にMr.FOXを銃で狙い、巣穴をパワーショベルで掘り起こす。追い詰められたMr.FOXは反撃に出る....

ウェス・アンダーソン作品で見損ねていた1作。子供でも見られる作品としてストップモーションアニメで作られた。ウェス作品、そもそもアニメ的だ、と思う人は多いはずだ。監督のビジョンがすごくはっきりしていて、実写でも撮影はその再現みたいなイメージがある。カメラや人があまり動いていないグラフィックなシーンも多いし。

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ウェスは本作の前『ライフ・アクアティック』でストップモーションの監督『コララインとボタンの魔女』のヘンリー・セリックと仕事をしている。本作では脚本、声優の録音を先に済ませて、そこから絵コンテ、アニメーションチームで撮影という順序だったそうだ。ひょっとするとストップモーションはそういう手順が一般的なのかな。

さて本作は監督の子供の頃の愛読書らしい、ロアルド・ダールの絵本が原作だ。見てみると大筋は原作どおりだし、細かいチャプターに別れる構成も本と同じだ。ただ映画用に変えてある部分もあって、そこがいかにもウェスらしいのだ。

まず、主人公の動物たちだ。Mr.FOXやアライグマは、原作でも服を着て擬人化したキャラクター。映画ではさらに進めて、服は人間たちよりお洒落だし、無線で通信できるし、クレジットカードも持ってるし、子供たちは学校で化学の実験をしている。おまけにサイドカー(キツネサイズ)で激走だ。監督好みのガジェットや乗り物やファッション、インテリア....その手の要素が動物たちにも全面的にあたえられる。

それもあって、動物と人間の衝突も少しトーンが違う。原作では、言葉を話す知能の高い動物が体一つで人間に一泡吹かせる。人間は銃器や建設機械まで持ち出して過剰に反撃する。人間の環境破壊が動物を追い出す話で、ジブリの『平成狸合戦ぽんぽこ』に近い線だ。少し広げれば物質文明が進んでいない先住民と物質文明側のあつれきにも見える。

映画では、動物側も十分に物質文明の段階に達している。素朴な描写にしているもののちょっとした武器さえ使うのだ。上の例えで言えば資本家とハッカーの争いみたいだ。『借り暮らしのアリエッティ』的な体の小さい人たちの物語に近いとも言える。そんなわけで原作の少しエコっぽい空気は映画からはほぼ消え去っている。

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改変のもう一つ。これも実にウェスらしい。原作ではMr.FOXは泥棒稼業から引退していない。妻や子供達に「お父さん、今夜はチキンね!」といわれて「よしきた!」みたいにニワトリを盗みに行く。それがキツネの日常なのだ。映画版ではニワトリ泥棒はちょっと違う意味がある。子供ができて妻に「無茶はやめて」と言われ新聞記者になったMrは典型的な去勢された中年男で、それに抵抗するかのように「野生の血がオレを動かす、男でいるためには冒険が必要なんだ」とばかりに妻の目を盗んでわざわざ危険な泥棒に行くのだ。

ある程度の年になって何かを取り戻したくなり無茶する父(時には母)と振り回される子供達、というモチーフはウェス作品でおなじみだ。ただしMrはもともと頼れる父なのでいつもの振り回すだけのダメ父じゃなく、ウェス作品の中でも際立って格好いい。衣装にも凝りにこってスタイリッシュなスーツを着せ、声優ジョージ・クルーニーに渋くセクシーに喋らせる。

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アニメーションは毎秒12コマ(映画の半分)で動かし、スタジオライカみたいなCG的な滑らかな動きじゃなく、パペットアニメらしさをむしろ全面に出している。動物たちの動きも物理法則にしばられない漫画的なところが多い。キャラクターデザインは、テクスチャーや顔の構造は動物そのままで、FOX一家には人間的な微妙な表情を与えている。『犬が島』だと犬は言葉を喋る以外は犬としての表情、動きだけしていた。

この辺りの微妙なチューンの違いが面白いんだよね。本作は動物は動物でありつつ(人間社会とは別のところで暮らしている)、人間並みの文明を持っていて、なんなら言語のやり取りもする。けっこう微妙なラインなんだけど、ファンタジーとして不自然感がない。むしろドールハウス的な小さな生き物の暮らしが見ていて楽しい。『犬が島』は人間と犬の関係がメインだし、物語を進めるのは人間だから犬はより実際の犬に近いポジションにしてある。

原作つき、『イカとクジラ』のノア・バームバックが脚本を書いた本作はすごく分かりやすいカタルシスがあって絵的にもまとまっていて万人向けだ。音楽も実にいい。それと比べるとあらためてストーリーも世界観もセリフ使いも『犬が島』は冒険しているなあと思う。

■写真は予告編からの引用

 

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