ドライブ・マイ・カー

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ストーリー:俳優・舞台演出家の家福(西島秀俊)は脚本家の妻、音(霧島れいか)を突然失い、車の赤いサーブだけが残った。2年後、家福は広島に向かう。俳優を募集し、チェーホフの戯曲『ワー二ャ叔父さん』を上演するのだ。そこに妻と親しかった高槻(岡田将生)も参加する。主催者につけられた寡黙な運転手みさき(三浦透子)にサーブのハンドルをまかせ、2人は少しずつお互いの過去を語りあっていく....

かなり沁みた。というか残った。見ている時の感動や興奮より、後から効いてくるタイプの映画だ。香水のトップノートみたいな表層のストーリーやメッセージ、ビジュアル以外の、ミドル、ラストノート的な下の層が断然に豊かで、驚かされるレベルなのだ。カンヌの脚本賞もそれを生成させた映画の構造に対してなんだろうと思う。

原作は村上春樹の2013年の短編で『女のいない男たち』というオムニバスの1作だ。主人公家福が妻を失って、愛車のサーブを運転手みさきに託す、そして俳優、高槻と対話する....というプロットに、映画では他の2つの短編のエピソードを足している。広島のエピソードは映画オリジナルだ。

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原作を読み返して思うのは、本作は、監督が原作の枠組を使って、繰り返し自分が描いてきたテーマや手法やモチーフを詰め込んだ、ある種ここまでの集大成的な「濱口作品」だということ。同時に、3時間まで膨らませて、そこになかったテーマまで載せた物語の入れ物になりうる原作の容器としてのでかさだ。

原作はスケッチ的なふっと終わる短編で、女性の描き方など今の視線でみるといらなくないか?と感じる描写もあったりして、そんなに感銘は受けない。でも物語の土台としての強さがあるのかもしれない。エピソードは映画で少しずつ強化されている。温度低めの原作を少しずつドラマチックに、エモーショナルにしているのだ。家福と妻のエピソードも喪失も、みさきの過去も、高槻も、それから車も。

車、サーブ900は原作通りだけど、たぶんより古く、色は印象が強い赤になった。映画では30年前の完全に旧車だ。最新のSUVの間のサーブを正面から撮ったシーンでは旧車ならではの小ささで、絵本『小さいおうち』みたいだ。サーブは映画では長旅の仲間にもなって、それ自体アイコン的、主人公的な存在になった。

お話は喪失と悔いとそこからの....の物語だ。エモーションを強化された物語に、そんな経験がある人は(大人なら何かある)響くものがあるだろう。これが上で書いてるトップノートだ。

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ミドルノートは監督が探求し続けてきた、例えば「カメラに映る演技と真実」「言葉によって引き起こされる意味」という映画作りそのものあり方みたいなものだ。見た人ならすぐ分かるだろう。物語の中ではじつに色んなレベルで言葉が語られる。

・物語内での「素」の喋り(または生活の中でのちょっとした演技)

・物語内でセリフとして他者に聞かせる言葉

・自分が生み出す物語を聞かせる喋り

・物語内でセリフを朗読している音声

「素」の喋りは基本的にトップノート(表面のストーリー)を観客に伝える。下の3つは映画でプラスしたもので、物語内で練習し演じられる戯曲『ワー二ャ叔父さん』のセリフや、脚本家の妻が紡ぎ出した奇妙な物語だ。それぞれ理由があって演技として発せられるのだが、セリフや物語の持つ意味が自立して何かを語り出して、ストーリーを受け取る観客に影響し始める。

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濱口監督はインタビューで「ラストの着地がしっかり決まっているから物語のスタートは色んな振れ幅でも観客は納得できる」という意味のことを言っている。もちろん映画はストーリーが持つエモーションをちゃんと伝える作りだ。でもぼくにはどことなくそれらと監督が距離があるように見えた。それは偉大な作家の作品を原作にしたときに避けられない重みのせいかもしれない。

ストーリーの大事な部分は、原作の文章に忠実なセリフで語られる。見ていて「大事なことをセリフで語りすぎじゃないの?」と時々感じた。まるで観客に「今、俳優がセリフを読んで演技し、あなたに伝えています」と思い出させようとしてるみたいなのだ。

同じことを村上作品の映画化『ノルウェイの森』でも感じた。主人公を演ずる松山ケンイチとヒロインの1人水原希子の、やっぱり原作に忠実なセリフのシーンだ。村上作品の会話はそもそも日常語とは少し違う。やっぱり作家のレトリックの一部なのだ。だから実際に喋らせると必ず不自然になる。もう1つの村上作品『トニー滝谷』では、監督は原作のテキストを全てナレーションとして朗読させた。それを担当したのは今回の主演、西島秀俊だ。

主人公である演出家、家福にとって、言葉を受けとることがとても大事なものとして映画は描く。亡き妻とも、ある意味では身体のつながりよりも大事なものとして抱き続けてきた。言葉を紡ぐ職業の妻は、自分がいなくなっても言葉を残し、家福は受け取ることができる。でも言葉は彼を呪縛するものでもあったのだ。だからとても大事なあるシーンは、主人公が言葉の呪縛を解いてもらっているように見える。

ラストノートは、物語を肉体化する役者たちの姿、実景をゆたかに写し込んだロケーション(車の走行シーンは特にそうだ)が「物語を作り出すドキュメンタリー」のように生々しく感じられる部分だ。本作は撮影後の作り込みはあまり前面に出てこない。それよりいかに印象的なシーンを最適な場所のカメラで記録するか、がなかなかにリッチだ。色んなところで絶賛されている岡田将生の長いセリフのシーンは、伝えようとしているものより、伝えようとしている役者の演技が「出来事」として映しとられているみたいだった。

■写真は予告編から引用

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