悪の法則

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ストーリー:リッチな弁護士(マイケル・ファスベンダー)はバーオーナーのライナー(ハピエル・バルデム)と組んでドラッグの取引に出資する。プロであるディーラー(ブラッド・ピット)は一度手を出したら引っ込みがつかないよ、と警告するが、金を出すだけで、仕事は組織がすませてくれるはずだった。でもトラブルが起こる。大量のドラッグを積んだトラックが誰かに奪われたのだ。事態はディーラーの予言通りになる。組織は弁護士もその仕事仲間も、恋人も、淡々と追い込みにかかる。

2013年。リドリー・スコット監督、コーマック・マッカーシー脚本。メキシコの麻薬カルテルは、カルデロン大統領が武力解決をめざしたいわゆる麻薬戦争をしのいで、もはや2000年と比べ物にならないくらい武装も充実、犯罪のコングロマリット化しているという。この映画では巨大化したカルテルはほとんど見えない存在になった。ドラッグディーラーのウエストリーの話からは、村の古老がかたるもののけのように、ばくぜんとした輪郭と恐ろしさだけがつたわる。画面に出てくるのはほとんどが末端の雇われだけで、仕事の1ピースをこなすと小汚い札束を受けとって鼻歌混じりで帰っていく。それは何かを積んだトラックを走らせるだけのこともあるし、誰かの首をちょん切ることもある。後始末は別の末端の誰かがてぎわよくすませる。

一つトラブルが起こると、出資者たちはすとんと落っこちるみたいに殺される側にいれられてしまう。追っ手は敵ですらない。ただ避けようもなく着実にやってくる運命だ。その運命を決めている誰かには、追われる主人公たちも、物語を見ているぼくたちもまったく近づけない。まるで神の声だ。ぼくたちにとってのグローバル企業や官僚組織と同じ、人間の顔が見えないシステムなのだ。『ゴッドファーザー』的な、ボスの人間性でなにかが動く世界じゃない。ブラックホールみたいな欲望の市場があって、そこにビジネスチャンスがあるからたまたま今はこの組織が参入しているというだけで、そういう意味ではアノニマスだ。
巨悪の最上部を空白に描き、スケール感をそこなわないようにするのはむかしからある手ではある。黒澤明の『悪い奴ほどよく眠る』がそうだ。それもやっぱり同じように、利権をむさぼる政治家なんて個別性というより制度上かならず生まれてきてしまう、ある意味アノニマスな存在だしね。
必死で事態を打開しようとする弁護士はつてを頼って、組織の有力者らしい男と電話でコンタクトをとる。ラテンアメリカ文学にでてきそうな智者を思わせる老人は、妙に哲学的な言い回しで「もう遅いよ」とつげる。それが最後のところなにを意味するのかは、やや想像の余地を残している。

・・・・という感じで行ききればよかったのに、と思うんだけど。いやそうではあるのだ。組織はね。でもこの災厄をしかけたのは一人のどこか怪物的な個人なのだ。物語はそいつの冷酷さや周到さの方に収斂していってしまう。だれも対抗できないはずのシステムとまっこうからわたりあって、ニューメキシコでもロンドンでも訓練された犯罪者たちを動かし、そいつ自身はそんなに危険を感じている風でもない。
なかば超越的な存在としてカルテルを描いているのに、たいした説明もなしに対抗できる個人を立ち上げてしまうと、けっきょくふつうの枠組みになってしまう。ある意味ランボーじゃんそれ。おなじ原作者コーミック・マッカーシーの『ノーカントリー』とおなじ理想化された悪のヒーローだ。
ぜんたいにスタイリッシュな乾いた描写で、殺人シーンも映像ショックで引きつけようみたいな品のないことはない。いやラストはさすがにエグいかな・・・
マイケル・ファスベンダーはいい気な ちょい悪気取りがぴったりでいい感じにまったく共感をよばない。雰囲気担当はビジネスパートナーのハピエル・バルデムやブラッド・ピットのほうで、どっちもややコスプレ気味のキャラクターがいい。それにしてもハピエルのあのぶっとびおじさんイメージは誰が考えたんだいったい。