湖のほとりで


公式
アンドレア・モライヨーリの初監督作品でありつつ、 イタリアでは史上最高クラスの評価を受けてるらしい(受賞歴も観客動員数も)。原作はノルウェーの国民的作家(らしい)カリン・フォッスムのベストセラー(らしい)ミステリー。ストーリーは・・・ある静かな村で殺人事件がおこり、初老の刑事(トニ・セルヴィッロ)が担当になる。刑事は捜査のため、さまざまな村人にきびしく質問を浴びせる。職務質問のはずが、肝心の事件よりも村人たちが抱えるいろいろな悩みがうかびあがる。刑事は強引な捜査でひとりの青年を誤認逮捕しながらも、真相にちかづいていく・・・というもの。シンプルだ。真相のネタバレはさすがの当ブログでも自重するけど、ミステリーといっても結末がわかったら全く見る価値がなくなるようなタイプの映画じゃない。どちらかというと事件をダシにした悩めるひとびとの群像劇といったほうが近い。
原作はノルウェー人作家だからフィヨルド地方が舞台だけど、映画は北イタリアの町に設定が変わる。オーストリアスロベニア国境に近い。イタリア地方都市かぁ・・・赤っぽい土のゆるやかな丘に豊かな畑がひろびろと広がって、町の中心にはちゃんと広場があって、伝統的な石造りの教会やタウンホールが町のシンボル。陽気なおやぢが自慢のサラミをワインのお供にすすめる・・・みたいなベタなイメージがすっぽりと収まりがいいんだけど、この村は全然違う。陽光はさんさんと降り注がないし、みんなどこか陰鬱で言葉少なだし、町はなんだか色味がうすくて特徴がない。そうはいってもこの町は美しい。緑はしっとりとして濃いし、湖はよけいなホテルもリゾートマンションもなくこれまた美しい。そしてモチーフになる娘(アレッシア・ピオヴァン)もまた美しい。
映画の原題は La Ragazza del Lago,「湖畔の娘」というような意味だ。(原作は「見知らぬ男の視線」。どの男のことだろう?)娘はストーリー上、ほんとうに最初にしか出番がない。数秒のろくにセリフもないシーンだ。次に彼女が出てくる時は全裸の死体となっている。慎重にいやらしくならないようにポージングされた、美しい死体。しかしその後も存在しない彼女をめぐって人々の人生が観客の目にさらされる。彼女は鏡のような存在だ。こういう「不在の人」をめぐって人々が描かれる物語はひとつのスタイルだ。最近ここで書いた映画のなかにもよく考えたらけっこうある。『歩いても歩いても』『レイチェルの結婚』はそれぞれ家族の一人の不在が真空の核みたいになって、家族がみんなそれに向き合っているような映画だった。『ロング・グッドバイ』はいなくなった親友の足跡を追って、だんだんと物語が見えてくるスタイルで、同じミステリーということもあってこの映画に近い。ここで大事なのは探偵や刑事がインタビュアーとなって、人々の物語をひっぱりだす役を果たすということだ。だから彼がどんな人かが善し悪しを決める。『ロング・グッドバイ』のフィリップ・マーロウに比べると、この物語の刑事はもうすこし人々の外側にいる。不在の娘は単なる事件の被害者だし、話を聞く相手も捜査の対象でそれ以上にはならない。そこがひょっとするとこの映画の薄味さの理由の一つかもしれない。彼は物語をドライブする役割は与えられていなくて,インタビュアーに徹するのだ。その代わり、彼には彼自身の物語があたえられる。妻と娘の物語だ。彼は妻を失おうとしている。妻は元気だし、にこにこと楽しそうだ。それでも確実に彼と娘は妻(母)を失いつつあるのだ。
この物語は、その構造自体がそうであるように喪失の物語で、誰もが何かを失った空虚な気持ちをかかえている。失われた存在のように見える娘もまた、彼女自身がおおきな喪失感をもっていたことがわかる。その娘にかかわる人々はもちろん、直接関わっていないはずのひとびとも公平に何かを失う。あまりにも喪失感が強いせいか、映画が始まってからだれも何かを起こそうとはせず、刑事は、ただ、すで起こってしまった事件の真相を明らかにする。まるで考古学者かなにかみたいだ。何が起こるんだろうというダイナミズムは、物語からは失われている。