ニーチェの馬


<公式>
すごく「もの」としての質感を感じるような映画だった。
なんていうんでしょうね、画面の中のできごとや人たちと見ているぼくたちの間に「映画」という確固としたものがどすっとある、べつにメタ的な見せ方をしてるわけじゃないんだけど、「映画」というものを見ているんだと、いつも意識されるというんだろうか。違うタイプもたくさんある。出来事や人に集中させて、それがイメージとして編集されてここにあるという事を出来るだけ忘れさせようとする映画。一般的なエンターテイメントはわりとそうだろう。うまく言えないけれど、作品として作り込まれた映画でも、こんなタイプはたぶんあるはずだ。
でもこの映画は、一つの完結した「もの」の手応えみたいなのがある。フィルム撮りモノクロ画面の質感の強烈な一貫性もそうだろう。ものすごくミニマルな映画で、全編を通して映されている絵にそれほど変化がないこともあって、映されている対象はむしろ画面の質感に従属している印象だ。筆致がなまなましい絵を見ているときの感じに近いのかもしれないな。
ストーリー:どこかの国の人気のない荒野の一軒家。年老いた父と彼が仕事で使う馬車を引く馬、それに娘が住んでいる。娘は日々の家事を毎日おなじようにおなじ順序でこなす。でもある日、馬が動くことをやめた。毎日がコピーのように続くだけに見えた日常がだんだんと崩れていく。

この物語は世界の終末をえがいている。トリアーの『メランコリア』とおなじように個人の目を通した世界の終わりだ。その視界は、リッチな現代人たちの物語である『メランコリア』とくらべてさらに小さい。ピンホールのような極小の視点から見る世界の終わりだ。だからどう世界が終わっていくのかなんて観客にもまったくわからない。我々が巨大なできごとを体験する時と結局はおなじだ。3.11を思い出す。メディアがどう発達しようと、実体験のレベルでは、過去のひとたちとまったくおなじようにぼくたちはあまりにも限定された一断面しか認識することができない。それを思うと、この小さな視点は、鳥瞰的に(ある意味ニュース映像的に)描かれたドラマよりも場合によってリアルな肌合いをもたらすだろう。
ここでは、世界の終わりはとことん抽象化され、ほとんど観念的なものでしかない。それは「予兆」によってだけ感知される。もしくは終末の到来をかたるひとびとの声によって。でも物語の6日間が世界の最後の日々であることは、この物語ではうたがいようもない前提としてあるのだ。スペクタクルはいらない。世界が終わろうと終わるまいと、そもそも彼らの人生は一日ずつ終わりに向かっているんだし、つつましく日常をおくるだれにとっても同じことなのだ。少しずつ終わる。
主人公は貧しい父と娘だ。父は馬車による運送を仕事にしているから、かすかに外の世界との交流がある。でも家で父の帰りを待つ娘にとっては、外部とは見渡すかぎりの荒野にすぎない。社会的弱者にとって世界はより小さくて有限なものなのだ。そういうふうに描かれている。

ブダペストの郊外で秋から冬に撮影されたこの映画では、自然環境は「世界の厳しさ」のあらわれのひとつでしかない。強烈な風がふきつづけて井戸水を汲みにいく娘の髪をあらゆる方向にかきみだす。余談だけど、「風」というのはじっさい自然現象のきびしさそのものという気がする。登山する人なら風のつらさはそれこそ骨身にしみているだろう。植物の話をすると、強風がふきつづけるところでは、だいたいどんな木でもまず本来の大きさには育たない。風は熱をうばうし、木をゆらして根が伸びるのを阻害するし、なにより命のもとである水分をうばっていくから、木は葉を減らして、葉自体もちいさくして縮小均衡をたもとうとする。それでもきびしいと枝先を枯らして木はだんだんと小さくなっていく。海辺の丘に生えている木は小さく小さく育っているのが多いし、都会で悲惨な姿をしている木の半分は、たぶん建物とかの関係で周囲よりきつく風があたっている……とにかくこの物語では、強烈な風の音がこびりついた耳鳴りみたいにずっとなりつづけている。そんな厳しく、隔絶された世界に生きる父と娘。そしてあるときその風がふっとやむ。
ブダペストの郊外の谷間でロケされたというこの場所、家も馬屋も昔ながらの材料(木の柱や梁と、石積みの壁)で映画のために建てられた。平たいちいさな石をびっしりと積上げた「小端積み」の積み方だ。世界中の集落でこの壁をもった家は見かける。高い技術も機械もいらない、強烈な風から彼らをとりあえず守ってくれる、無骨でずっしりとした壁だ。中はがらんとして暗い。この暗さがまた画面の質感になっていて、闇のなかになにかがぼんやりとうつり、目を凝らしてみていると、すこしずつ輪郭がわかってきて、娘だったんだとわかったりする。2人ともレンブラントかなにかの貧しき名もなき人々の肖像画そのものの感じだ。

監督は、ささやかに生きている人々の日々のルーティンをきちんと描いてみせたいんだという。厳格に繰り返される毎日の家事。朝起きると娘は少しはなれた井戸まで水を汲みにいかなくてはならない。食事はいつもゆでたじゃがいも二つだけだ。そこにあるのは苦行としての日常、というかほとんど苦行としての人生だろう。厳格なルーティンだからこそ、何かが変わる「予兆」がすこしのずれとしてはっきりと見えてくるのだ。バックで繰り返される音楽もミニマルなサウンドがつづく。
タイトル『ニーチェの馬』の意味は最初に説明される。原題は『トリノの馬』。ニーチェトリノに滞在していたときに、ある御者が荷役の馬をはげしく鞭打っているのを見てその首に抱きついてはげしく泣き出し、そのまま発狂したという逸話がある。映画の紹介によっては「その御者と馬のその後を描く」みたいに言っているのもある。ぼくの見落としかもしれないけれどそれは「?」という感じだ。風景から男の人相からトリノ郊外の人々の雰囲気じゃないし(そう見せようとしているようにも思えないし)、世界中にいるそんな御者と老馬のひとつなんじゃないだろうか。