欲望のあいまいな対象


<予告編 >
ルイス・ブニュエルの遺作、1977年公開。古典のつもりで見始めたけど、ふつうに面白かった。初老のお金持ちの男が美しい18歳(自称)の娘に惚れて、金にあかせて愛人にしようとする。女は物や金は遠慮なく受けとるけれど、あれやこれやと理由をつけてぜったいに最後の一線を越えさせないし、気に入らないとふっと彼の前から消えてしまう。それでも彼はひたすら女を追い続けて、パリからセビリアまで移住する……
男はそんな自分と女のあれこれを、「では、お話しましょう」とばかりに、列車のコンパートメントで同席した紳士淑女のみなさんに語って聞かせる。初対面の人たちに自分のこっぱずかしいエピソードを赤裸々に告白しているともいえるわけだ。
これ「デカメロン」を思わせる展開だ。ペストの流行から避難した男女が、「聞いた話ですが」といいながら、エロい話をつぎつぎにくりだすあれ。列車はスペインなのに、相客たちはなぜか全員パリの住人で「ほほぅ、では聞きましょうかな」と、少女連れの奥様ふくめて話を楽しむ態勢になっている。

ストーリーも昔ふうにいえば艶笑小噺だ。男はひたすらにこっけいで、家政婦として来た娘に一目惚れして、彼女が生きがいになってしまう。いきなりトップスピードに入って、悩んだり自分を振り返ったりするでもなくつっばしるだけという、かなりキャラ的な人物なのだ。家族はいないし、富豪だし、仕事もしていない、話は寓話といっていいくらい単純だ。彼がどんなに愚かでも困る人は誰もいない。彼のそばにいるのは高級判事のいとこと老執事だけで、二人とも少々あきれつつも、彼のパッションには「まぁ、そうならしかたがない」くらいのスタンスだ。話はひたすら楽天的になる。ヨーロッパ映画で「いい年の男が少女に夢中になる」話ってときどき見かける。もちろん男は愚かでこっけいに描かれざるをえない。そりゃそうだな。エリック・ロメールの『クレールの膝』もたしかそんな話だった。
デカメロン的だなと思うのは、そんな楽天性がありつつ社会に不吉な死の匂いは確実に漂っているあたりだ。ペストのかわりはテロリズムだ。社会は爆弾テロの脅威にさらされていて、彼らの行く先でもとつぜん爆発が起こる。映画が公開された1977年頃は、9.11後の一時期をのぞくと、今よりテロの恐怖がひとびとの頭上にのしかかっていた時期なんじゃないだろうか。史上最も有名なテロリスト、カルロスが活躍していた頃で、フランスではFNC(コルシカ民族解放戦線)も活発だった。スペインではもちろんETA(バスク祖国と自由)だ。1973年には独裁者フランコの後継者ともみられていた首相を爆殺している。
キャラといえばヒロインのキャラも記号的だ。彼女の内面はこの物語では必要とされていない。「男を狂わすはほど魅力的で、男が手に入れることができない対象」であり続けるのが彼女の役目で、だから女の態度はまったく変化しない。あの手この手で彼の気を引きつづけていつも土壇場でひっくり返す。男が彼女をモノにするための値段は着々とあがり、ついには家一軒分に到達する。しかも彼以外の男には無料でそれが提供されているのだ。この関係が変わることは多分ないだろうと観客にもわかっている。女は男の前から消えて彼の思いだけをヒートアップさせて、そのあとほとんど単なるぐうぜんの形でまた彼の前にあらわれる。
女の記号性、抽象性がわかりやすく表現されているのが、この映画でもっとも知られている点、キャスティングだ。これ・・・まぁネタバレでもないんだけど、あえて言わないでおこう。知らずに見た人に僕みたいに最後のほうで「あれぇーっ?」となる間抜けな体験をして欲しいからね。普通に集中して見てればすぐわかることなんだけど、あれは面白い。「役」というものの力というか認識に対する支配力を感じるよね〜 いやわたしがぼんやりしているだけですが。

ところでさいきん、なぜかフィリップ・トルシエがフランスと日本の性の違いを語っていた。いまごろになって、しかもこのテーマで彼...という味わいはともかく「ヨーロッパ人は見知らぬ異性でも性的存在としてみとめあうところから始まって、人格への愛とふれあう感覚のなかにエロ=SEXがある。日本人はタブーが強いいっぽう、性の対象のオブジェ化だけ進んで、エロ本がそこらじゅうにあったりラブホの即物的SEXの世界になっている…」と、期待どおりの保守的かつ上から目線分析を見せてくれていた。
これもまた日本での記号化された「トルシエ」というキャラの変わらぬ振る舞いだがそれはおいといて、日本人についてはまあそういうとこもあるとして、「ヨーロッパ人」(このざっくりしたくくりもどうかと思うが)はホントに性的対象のオブジェ化はないんかね。トルシエがそんなに深く考えていったとは思えない(だいたい、オチが「日本人の残業時間が長過ぎる」だからね!)けれど、相手の人格は二の次になるフェティッシュな視線ってふつうにある気がするなあ。『クレールの膝』もそんな感じじゃなかったっけ。『欲望のあいまいな対象』のキャスティングで表現されてるのは、男にとっては欲望を達成するということが目的化していって、対象である女の人格=個別性があまり重要じゃなくなっているということだろう。
ヒロインは二人いる。有名になったのはゲルマン系っぽいキャロル・ブーケのほうだけど、僕はスペイン人のアンヘラ・モリーナがオブジェ的にお気に入りだ。二人とも、オブジェ的にきっちりヌードを見せてくれる。契約上のなにかがあるのか、見せる限界ラインの違いはあるけどね。そこも人体の記号化があるわけだ。尻の割れ目にもオブジェ化はある。