偶然と想像

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ストーリー:第一話。仲の良いつぐみ(玄理)から、最近会った男性(中島歩)との出会いの話を聞かされた芽衣子(古川琴音)は、急に思い立ってある場所に行く。そこにいたのは・・・ 第二話。奈緒(森郁月)はある目的で、自分が通う大学の教授であり作家である瀬川(渋川清彦)の研究室を訪ねる。ファンであることを告げる奈緒に瀬川は・・・ 第三話。久しぶりに仙台に帰った夏子(占部房子)は、偶然にあや(河井青葉)とすれ違う。20年ぶりの再会に、あやは夏子を家に誘い、昔話を始めるのだが・・・

「ドライブ・マイ・カーの」と、とりあえず付けないわけにいかない。濱口竜介監督の短編オムニバスだ。ある意味大作の『ドライブ・・・』と比べるとさらりと見られる。全7作の短編集の構想で、とりあえずの3作だ。僕的には十分楽しい映画だった。でもふと思い返すと、どんな人が楽しめるのかなあ。なんだか想像しづらくなってきた。

コロナ禍もあって、ここ2年映画の興行収入は少し落ちているけれど、洋画の公開延期や配信公開が多いのもあって、日本映画のシェアはすごく高くなっている。去年の興行収入上位がこれだ。僕はこの中の2本しか見てない。っていうか、なんの映画かわからないのがけっこうある。劇場で見たのは1位の『シン・エヴァ』1本だ。たぶん上位作品を楽しむ人には本作あまりぴんとこない。

『ドライブ・マイ・カー』もそうだけど、普通に日本国内でロケをし、主に日本人の役者が演技している割に、日本ローカルな香りが少し薄い感じがする。あえて日本らしいアイコニックな風景はまず撮らないし(『ドライブ・・』では伝統集落的な景色はあったけれど)、セリフ回しもそうだし、脚本・演技自体、音楽でいうJポップ的節回しやコブシ感は排除されている。村上春樹の受容され方と少し似たところがあるかもしれない。

3作は連作とかじゃなく、それぞれちがう登場人物のちがうエピソード。1作はSF的な設定さえ入っている。と言っても絵の感じも空気感も後味も共通のものだ。主な登場人物は2人か3人。関係性も共通していて、1人が少し逸脱した行動をする側で、もう1人の平穏をざわつかせる。ある種の愛がそこにある。プロローグがあって(逸脱した行動をとる動機)、メインの2人のちょっと緊張感がある会話劇があって(だれかの平穏がざわついて)、シメのエピソードがあって(登場人物に何かの変化が訪れて)、という構成も共通だ。

濱口監督独特の撮影方法はここでも使われていて、演技の前にセリフをひたすら読み、役者が体に入れてから撮影する。それでも、というかむしろその効果なのか、役者たちの発語はどこか人工的な雰囲気があって、見ている僕は「芝居を見ているな」と常に意識させられる。その中で『ドライブ・・・』と同じように、物語の中で登場人物がある種の演技をしながら話しているシーンがところどころにあるのだ。

設定がどれも少し現実から遊離しているうえにそういう演技なので、人生の一片を見ているというより、実人生にもにあるエモーションを抽象化したなにか、というふうにも見える。その辺はよくできた短編小説で時々感じるのと似ているかもしれない。

 

下の4つ、本作が銀熊賞を受賞したベルリン国際映画祭公式のクリップだ。物語はこれじゃ見えないと思うけれど、なんとなく感じがわかるんじゃないか。

第一話 魔法(よりもっと不確か)

第二話 扉は開けたままで

第三話 もう一度

第一話は『街の上で』でもいい感じだった古川琴音が「怖い子供」的存在感になって中島歩を受け身にさせるのが面白い。第二話は、大学教授渋川清彦が面白すぎる。こちらも男性である教授が受け身のところから始まって・・・この話はちょっとしたセクシー小噺的なニュアンスがあって僕には一番面白かった。第三話の占部房子は、前にすごくよく似た女優さんがいたよね・・・思い出せないけど、小林薫と夫婦役をやっていたような。微妙な危うさを醸し出すことができるとことも似ているのだ。

撮影は1台でやっているそうで、その割にカットが切れてもセリフの流れがそのままに続いていく。編集が巧みなんだろうか。録音のテクニックなんだろうか。見ていてリズムが良くて気持ちいい。

 

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2021年公開作 見返し2本

■プロミシング・ヤング・ウーマン

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ストーリー:キャシー(キャリー・マリガン)は医大を中退、いまはコーヒーショップでやる気もなく働く。30前後なのに両親と実家住まいだ。夜になるとメイクもファッションを変えてクラブに1人で行き、酔っ払ったふりをして声をかけてくる男を引っ掛ける。そして・・・でも彼女には理由があった。大学時代、親友に起こった悲劇がすべてのはじまりだったのだ.... 

完全に一つの宣言としての映画で、映画としての口当たりの良さと妥協のないメッセージとの共存ぶりがすごい。女性観客にたいしては、物語にあったみたいなことを「自分が悪いからしょうがないなんて思う必要ない」と、男性観客にたいしては「いままで笑い話や手柄話にしていた女性相手のそれ、誰も許していないから」と正面から言ってくる。

イントロの映像が凄すぎる。踊る男たちの腰のあたりだけをひたすら写す。女性のセクシーな見せ方でよくあるやつだ。でも男たちは男性ストリッパーみたいなタイプじゃない。緩んだ腹と鈍重な尻をださいチノパンで包んだおっさんたちの腰なのだ。「お前ら女のそれ見てヒューとか言ってるんだろ、でも自分見てみろよ、醜悪でしかない」...という毒。

これが第1作になる監督エメラルド・フェネルは「ダークコメディのトーンで、復讐劇だしスリラーでもあるし」と言っている。大きくは大学時代の親友の悲劇をずっと引きずる主人公が復讐に動きだす話だ。そこに今の彼女をめぐる両親との関係や、ちょっとしたロマンスが入る。

そこだけ聞くと色々ありな風だけど、物語は一直線で、2時間弱、ほとんど無駄がない。そして後半の意外すぎる展開とラストの切れ味が絶句ものだ。カメラはずっと主人公を追い続けて、主演キャリー・マリガンから目をそらさない。彼女は復讐にむけて次々にプランを実行する。今までにないタイプの主人公だから観客にも予測がつかない。出来事は派手でなくても、緊張感がずっと続くのだ。

主演にキャリー・マリガンというところがこの映画らしさだ。最近、女性がクズ男を叩きのめすエンタメ作品は多い。『アトミック・ブロンド』『スーサイド・スクアッド』シリーズ、シャーリーズ・セロンや本作でもプロデューサーを務めているマーゴット・ロビーだったら、回し蹴りでクズ男をなぎ倒して爽快にケリをつけるだろう。

でも彼女たちじゃダメなのだ。監督も「ふつうの女性が復讐するなら・・・という物語」と言ってる。超人的に強い女性の復讐劇はスカッとするだろうけれど、大抵の観客からはあまりにも遠い。本作の主人公キャシーも相当に(メンタル的には)強い。鉄の意志と高い知能と圧倒的な行動力でずんずん踏み込んでいく。でも超人じゃない。

キャリー・マリガンはマーゴットやシャーリーズみたいに超然としたアイコニックな美しさじゃなく「ふつうの人」感がある女優だ。もろさや弱さもどこか滲み出るところがあって『ドライブ』の悲しいお母さんや『シェイム』の辛い記憶を背負った妹や、そんな役はよくはまる。本作の主人公も悲しいくらいふつうの人らしい弱さを抱えている。

それに、キャシーの行動はエクストリームに見えるけれど、描き方は意外なくらい優しい。彼女は立派でファンシーな実家でずっと暮らし、投げやりになっている割にファンシーな趣味だし、一見エグい色々な復讐にもじつは救いを残している。というのも、悪役のはずの男性たちが全員弱いのだ。暴力的なマッチョには出番はない。普通の男たち。そこもメッセージだ。

映像はウェス・アンダーソンじゃないけど、正面からのシンメトリーなカットが多くて、会話もその切り返しだったり。端正で色彩も美しい。ブリトニー・スピアーズパリス・ヒルトンの曲が意味ありげにシーンにかぶさり、ラストはカントリーシンガー、ジュース・ニュートンが朗々と歌い上げる1981年のヒットングに包まれて一気にいく。

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■ファーザー

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ストーリー:ロンドンの広々としたフラットに1人で住む老人アンソニーアンソニー・パーキンス)は娘アン(オリビア・コールマン)が紹介するヘルパーが気に入らずいつも追い出してしまう。パリに転居予定で毎日通えなくなるアンは新しいヘルパーを連れてくる。アンソニー認知症を発症していた。だんだんと記憶が怪しくなり、断片的になってくる彼は....

だいぶ前に見てたから、印象がぼんやりしてしまっているけれど、とにかく本作は、老いた親と老い始めた子の物語、というプロットから想像されるような、湿っぽく物悲しいヒューマンドラマとは全然違う。作り手は「認知症が進む患者に見える世界を映画で再現」しようとした。

公式ページではその辺りはあまり前面に出さずに、アンソニー・パーキンスの演技の素晴らしさを打ち出している。確かに、比較的意識がはっきりしていてその分高圧的で、老人特有の暴力性の気配も滲んでいる序盤から、ある時は知らない世界にいるような気持ちでおろおろしたり、拠り所を失って弱々しくなったり、そして徐々に子供返りしていき...というふうにシーンごとに微妙なトーンを描き分ける。

認知症の患者から見える世界」がどんなものかは、公開後そうとう経っているとはいえあまり言わないでおこう。とにかくこの描法によって、観客が見るものはヒューマンドラマのつもりがそこらのサスペンスを寄せ付けないようなスリリングなものになる。映画を見ていて僕たちが無意識に了解する「リアル」を揺るがすタイプの映画だ。

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シスターフッド3/3  ラストナイト・イン・ソーホー

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ストーリー:60’sカルチャーが大好きなエロイーズ(トーマシン・マッケンジー)は念願のアートスクールに合格し、田舎町からファッションデザイナーの夢を抱いてロンドンに来た。ソーホーの古いアパートに引っ越した最初の夜、気がつくと彼女は60年代のソーホーにいた。歌手を夢見る同世代の女の子、サンディ(アニャ・テイラー=ジョイ)に出会う。それは夢だったのだが、段々とエロイーズの意識はサンディに同化し始める。歌手のはずが夜の商売に落とし込まれるサンディの悲痛な日々がエロイーズにも影響しはじめて.....

エドガー・ライトの最新作。シスターフッドを描いたシリーズにくくってしまったけど、本作はちょっと違うでしょう、という人もいそうだ。たしかに前2作とは違って、本作は時代をまたいだスリラーだし、超自然的なあれこれが起こるホラーだし、60年代デザインや街並みを見せる時代ものだ。そのなかで2人のヒロインがおなじ何かとたたかう...的なストーリーだ。

シスターフッドという視点で見ると、『燃える女の肖像』は女性同士の関係を少し抽象的に美しく描くことに集中して、男性をいっさい排した。『ブロークバックマウンテン』の前半を思わせる。『あのこは貴族』は男権的社会=東京に押しつぶされそうになりながら手を取り合って生きる女性を描く。主人公たちをつなぐ存在として結婚相手であり遊び友達である男性が1人いる。本作の場合はもっと加害的な存在としてロンドンのダークサイドを象徴する無数の男性がいて、ヒロイン2人は取り囲まれている。

監督エドガー・ライトはどっちかというと男同士の「幸せな関係」を描いてきた監督だし、前作の『ベイビー・ドライバー』には分かりやすいヒロインがいたけれど、主人公を受容するだけの、つごうがいい存在だった。本作では女性が主人公になり、逆にまともな男性がいなくなってしまった。

60年代のサンディーの周りには彼女を性的に搾取しようとする夜の街の住人だけがいて、現代のエロイーズの前にはいやらしいタクシー運転手や冷たい警官、怪しげな老人しかいない。唯一彼女によりそう同級生男子がいる。でも彼は「男だって悪いヤツだけじゃないんスよ」という言い訳じみた存在に見える。

さて本作はサイコスリラーでもある。ヒロインの精神が異常なのか、ほんとうに異常なことが起こっているのか、周りの人にも観客にもはっきりわからない『ローズマリーの赤ちゃん』タイプや、精神異常の妄想に近い同じポランスキーの『反発』や『テナント』。本作ではヒロインは霊視能力的なものがある設定だから、他人には見えないヤバいものが見えてしまい、恐怖にかられるヒロイン像だ。

最小限ネタバレすると、あるところからアノニマスな英国紳士風の霊が大量にあらわれる。それが何かは本編で見てほしいが、ゾンビめいた存在感だ。これ見ていると、なんとなく監督の「社会の中央にいる男性」的なるものへの嫌悪が根底にあるような気がしてしょうがない。

30代前半で撮った『ショーン・オブ・ザ・デッド』ではゾンビ化した紳士が妙な動きをしていたが、あれは有象無象の中だった。『ホットファズ』は田舎町の既得権益層の老人が実は...という物語で、日本にもある世代間格差への反発なのか、嫌悪感のようなものを感じた。そんな監督自身もいまや50前で、ポジション的にも力がある側だ。それでも女性搾取業界のお得意さんとして醜悪に描かれるのはスーツを着た銀行員風の中高年だ。粗暴で下品な階層とかじゃなくね。

霊がスクエア紳士なのはともかくとして、後半になって出現率があがり、おまけにわりと毎回音もふくめたショッキング演出なのでその部分は少々うんざりしてしまった。終盤に向けての盛り上がりは、ある種のジャンルものへのオマージュで、だから話の着地として理解しやすいけれど、もう少しスマートな締めでもいい気はした。『ベイビー・ドライバー』でもクライマックスでくどいカーチェイスと車同士の力比べみたいなシーンになってげんなりしたのを思い出した。

そうはいってもじっさいのソーホーでロケした60年代の作り込みや、サンディーと鏡像であるエロイーズの表現とか、全体に映像はすごく満足度が高い。撮影監督は『オールドボーイ』『渇き』『お嬢さん』の撮影監督、チャン・ジョンフン。たしかに3作どれもハッとするようなちょっとトリッキーなショットがある。

サンディー役アニャ・テイラー=ジョイは『クイーンズ・ギャンビット』もそうだったけれど、顔が強いので、大袈裟なメイクやヘアスタイルが逆にすごく様になる。アニメ的収まりともいえる。動きはピッタリと決まり、改めて見ると身体もしっかりしていて、過去の日本映画でいえば溝口作品の京マチ子みたいな堂々とした主役感がある。

見た人ならわかる、サンディーとエロイーズがダンスしながら入れ替わるシーンの撮影風景は下の映像の5:25から見られる。

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ちなみにエロイーズが通うファッションスクールは名門University of Arts Londonのカレッジらしい。じっさいにソーホーのすぐ近くだ。

夜のソーホー、残念だけど行ったことがないから雰囲気はよく分からない。下に2021年に撮影した映像がある。「こんな感じなんだ・・・」という以前に、誰もマスクもせず、大量に集まって盛り上がっているのがすごいね。60年代ロンドンの物語で描かれた業種らしい女性は今の映像でも映っている。

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シスターフッド2/3 あのこは貴族

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ストーリー:松濤に住む医師の一族のお嬢様、華子(門脇麦)は27歳。結婚相手を探していた彼女の前に現れたのは彼女より上の階級の御曹司、幸一郎(高良健吾)だった。美紀(水原希子)は富山から上京して大学に入学したが資金難で中退、それでも東京で働いている。美紀は幸一郎と腐れ縁の「都合のいい女」だった。そんな2人が偶然に出会って....

2021年の重要作品の1つ、なんとなく年内に押さえておきたい気がして見た。『クレイジーリッチアジアンズ』を見たとき、リッチなアジア人がシンガポールじゃなく、中国でもなく日本だったら...想像した。家は渋く、誇示するみたいな金の使い方はせず、絶対キャッチーな映画にならないだろう。本作はまさにそんな日本の名門家族を描いた。

アメリカの風刺的な社会エッセイで『Class (階級)』という本があった。階級がない筈のアメリカに「いや普通にあるでしょ、階級」という内容で、上流・中流・労働者階級それぞれを辛辣に描写する。一番派手に、幸せそうに見えるのは上流や上層中流で、最上流は一般社会からは見えない。本作でも自分たちを「映画や小説には出てこない」と語るセリフがある。最上流ではないけれど、そういう人々だ。

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本作のテーマは上流の華子と中流の美紀、2人の出会いのシーンで分かりやすすぎるくらいはっきり語られる。2人を引き合わせた華子の友人逸子(石橋静河)のセリフだ。「日本って女同士を分断する価値観がまかり通っているけど、女同士で叩きあったり自尊心をすり減らす必要ない」 逸子は小学校からの学友でバイオリニストとして自立している、華子のロールモデルみたいな人だ。2人を引合せ、コンセプトを説明する逸子はちょっと物語上の機能的な存在でもある。

本作はすごく淡々と穏やかに進む。ストーリーはシンプルで予想外の出来事もない。小津の映画みたいだ。テンションを上げず、作品中で誰かが声を尖らせることも滅多にない。原作ではヒール指数が高く、ある意味懲らしめられる幸一郎も、高良健吾の善玉感もあってずっとシンパシーが感じられる存在になっている。女性同士だけじゃなくあらゆる分断を強調しないのだ。だから見ていて居心地がいいとも言えるし、人によっては単調に見えるかもしれない。その分、映像の細かいトーンのコントロールや、劇伴でつくるエモーションや、役者の微妙な演技にすごく引き込まれる。

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まず門脇麦。彼女のキャラは年齢より幼い。物語の中で幼い彼女は色々なものを見て学んでいく。場面場面で見る1つ1つに意味があるのだ。動きもセリフも抑制されている中で、見る演技、目の演技でじつに多くのものを語る。いつも抑えめの彼女が、懐いている義理の兄の前でだけくだけた口調でお行儀悪くなるのもすごく可愛く見える。

それから水原希子。『ノルウェイの森』『奥田民生になりたいボーイと・・・』の頃のオブジェ的美女から味を感じさせる存在になっている。ルックス的に強いキャラに見えるけれど、口調もふるまいもすごく柔らかく演じて、控えめお嬢様の華子といても違和感ない。2人は近づくわけでも強く共感するわけでもない。少し理解しあう程度なのだ。そこもファンタジックすぎなくていい。

孤独や無力感や葛藤に押しつぶされそうになる2人を支えるのはそれぞれの友達だ。華子には逸子がいるし、美紀には高校から同じ大学に入った理英(山下リオ)がいて手を引いてくれる。ここも明確なメッセージになっている。山下リオは『あまちゃん』時の長身美女の面影はありつつも、おっかさんめいた包容力を発散しはじめていて、美紀の安心感を観客も共有する。美紀と理英の描写はこれ以上ないくらい「友情」というものの美しさをストレートに描いている。

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本作の冒頭、「2016年元旦」とテロップが出る。時期が明確なのだ。そこから3年くらいの物語の中で、東京都心の風景がなんども映される。ただの背景じゃなく、彼女たちのいる世界として。その東京はつねに工事中だ。監督は「オリンピックに向けて変わっていく東京を映さないわけには行かなかった」と言っている。オリンピックは監督のことばで言えば、「貴族」の側の(つまり支配階級の)おそらく男性原理が強く東京に望んだものだ。

映される東京は、松濤や飲み屋の路地以外、誰でも知っている都心ばかり。皇居前、丸の内、銀座、白金、南青山、表参道、紀尾井町豊洲。それに風景として有明や晴海のオリンピック施設の建設現場だ。そこには『街の上で』で映されたみたいな細やかでさりげない東京はない。東京でなんとかサバイブしている美紀にとっては一貫してよそよそしい場所だろう。東京ローカルの華子にとっても。自分からは見えない「外部」によってひたすら作り変えられていく場所なのだ。思い出のよすがは記憶の中にしかない。東京生まれの人間はたぶん、全員がそう感じている。

■写真は予告編からの引用

 

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シスターフッド 1/3  燃ゆる女の肖像

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ストーリー:18世紀、フランス。画家マリアンヌはブルターニュの孤島の邸宅に、次女エロイーズの肖像画を描くため招かれる。結婚の申し出があったミラノの貴族に送るのだ。気に入られれば成婚だが本人は描かれることを拒否している。母親の指令で身分を隠したマリアンヌはエロイーズと行動を共にして彼女の姿を覚えて肖像画を完成させるのだが....

主人公の画家マリアンヌ。彼女が描く絵は、父親の名前でサロンに出品される。この時代、女性画家じゃ相手にされないからだ。『百日紅』を思い出した。葛飾北斎と娘のお栄だ。お栄は腕のいい絵師だったけれど同じように父親の代筆が多かった。 もう1人の主人公エロイーズは貴族の娘。お姉さんは結婚を強制されて、絶望して崖から身を投げた。彼女にも誰かも知らない相手から求婚がくる。

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本作はそんな2人が巡り合って、愛し合って、作品を作り上げるまでの2週間くらいを描く。絵が完成してしまえば、2人とも外界の現実に絡め取られる。そのひとときを、監督はこれ以上ないくらい繊細に、ノイズを取り去って、満ち足りた瞬間として描く。

屋敷には女主人である母親と娘のエロイーズ、使用人のソフィー、それにマリアンヌの4人しかいない。母親が出かけると同年代の3人の世界になる。島の住民たちも出てくるのは女性だけだ。お話をあえて抽象化して、彼女たちの関係に集中したのだ。『桜の園』を思い出すね。

映像はときどき実写と思えないくらい絵画に寄せている。海辺の風景はクールベやフリードリヒの絵を思い出すし、屋敷のシーン、外光に照らされるソフィーの姿はフェルメールの女性像、夜、ろうそくや暖炉の火に照らされて顔が浮かび上がる絵はレンブラントの夜の風景みたい。美術史に詳しい人ならもっとぴったりくる絵が思い浮かぶだろう。海辺の草原で女性3人が歩くシーンとか、火の周りで島民の女性たちが歌うシーンとか、完全に絵画として構図を作っている。

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https://cdn.mediatheque.epmoo.fr/link/aah189jpz17a340.jpgwww.musee-orsay.fr.     クールベの風景画。

そんな映像にするために、撮影ではあえて立体感を抑え目にしたり、暗い部分が潰れないように階調を残したり、たぶん海の色を少し鮮やかに調整したり、とにかく丁寧に作り込んだ絵だ。3人の女性はマリアンヌが赤、エロイーズが青、ソフィーが黄、と分かりやすくカラーも配分されている。たいがいの「映像が美しい」映画とは別種の、ほかにない美しさだ。

ただ、マリアンヌが描く肝心の絵が下手だという突っ込みを時々見かける。本作、現代の画家が映像の中でその絵を描いている。手元は彼女だ。画家は重要なキャストでもあるのだ。2枚描かれる1枚は物語的にも失敗作だから明らかに冴えない。もう1枚は成功作だ。でも確かに技巧的じゃない。18世紀フランスの肖像画、って多分こんな雰囲気だった。

映画内の絵は、古典的な絵の教育を受けた画家にしては、わりと大掴みのタッチで光と色を追求するタイプだ。この時代の絵は写真の機能も果たしているわけで、それこそ本作では見合い写真がわりなんだから、繊細な写実で描いてもおかしくない。

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でも現代のペインターだしね。現代美術でペインティングをする人は、よっぽどコンセプトがないと、古典主義的な繊細なグラデーションの写実は描かないだろう。インスタグラムに作家のアカウントがある。いわゆる写実の人じゃない。絵としての再現度より制作の息づかいが捉えられるところを重視したのかもしれない。

音楽は抑え目だ。効果音はその場で録音したんだろうか、後からつけた効果音みたいにクリアーすぎず、空間の残響がある。音楽のリズムに映像が乗っかるんじゃなく、俳優の動きやシーンの移り変わりのリズムが音楽になるように撮ったんだと監督は言っている。音楽の1つは当時歌われていたはずのない無伴奏の女性コーラス。

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本作はギリシア神話オルフェウスのエピソードが大事なモチーフの1つになっている。オルフェウスは超絶的な歌唱力がある歌い手。妻が死に冥府に落ちると、彼はその歌唱力を武器に妻を現世に連れ戻す許しを勝ち取る。でも現世まであと一歩のところで掟を破って妻を振り返ったせいで彼女は冥府に引き戻されてしまうのだ。

このエピソードは劇中で語られるし、「振り返り」は呼応する形で2回出てくる。最初、エロイーズはマリアンヌの足音を感じると振り返りもせずに館から外に出る。慌ててマリアンヌは追いかける。それが出会いだ。最後は逆になる。マリアンヌが館を出る時、エロイーズは「振り返って!」と叫ぶのだ。「最後に私を見て!」でもあるし、神話どおりなら「私をきっちりと振り切って(思い出に焼き付けて)!」でもある。実にいい古典の使い方だ。

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4人の女優はどれも魅力的。主演の2人はどちらも背が高く、意思の強そうな顔立ちだ。「NANA」じゃないけれどこういうドラマだとどちらかをふわふわした柔らかいキャラクターにしてコントラストをつけがちだ。でも違う。この辺りは監督の思いだろう。エロイーズ役アデル・エネルは監督が彼女想定でキャラクター造形しているし、マリアンヌ役のノエミ・メルランもアデルに対峙できる強さのある役者を選んでいる。

ただエロイーズの役は、意思は強くて聡明だけど、圧倒的に世間を知らず、男性経験もない純粋な女性だ。お話上は10代でもいいくらいだ。アデルはずっと成熟して見える。マリアンヌよりも。ストーリーからするとちょっと合ってない気がした。でもそういんじゃないんだろうな。あくまで、対等な2人を描こうとしたんだろう。

ロケ地はナントに近い半島だ。舞台になったお城はパリの近くに17世紀の城。意外なくらいに室内が明るい。大きな窓も付いているし、改装したんだろうね。本作で名所化し、空き家だったのが公開されることになったみたいだ。

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■写真は予告編からの引用

 

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