アメリカンスリーブオーバー


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ストーリー:「スリープオーバー」はアメリカの子供たちのお泊まり会のこと。友だち1人のこともあれば、大勢のこともある。だれかの家でするのが決まり。ある夏の日、ちいさな町でスリープオーバーがひらかれて、女子高生たちが集まった。男子たちはつるんで夜遊びだ。別の子はもっと大人っぽい大学生たちのパーティーに行く。ある子のお兄ちゃんは、高校時代に好きだった双子を思い出して車を走らせる。少年少女たちの長い夜が始まった。

監督デヴィッド・ロバート・ミッチェル、2010年の長編デビュー作だ。予算は約50,000ドル。ロケは監督の出身地Clawsonで行われている。高層どころか2階建てより平屋が多いような、やたら空と道と芝生がひろい、夏でも涼しそうな田舎町だ。物語の舞台は厳密に現代じゃない。ノスタルジックな描写はないけれど、スマフォもSNSもない。リアル空間のコミュニケーションだけだ。

登場人物は、背景的な人をのぞけば少年少女だけ。せいぜい年上の大学生くらい。この手の学園もの群像劇はアマチュアを集めて撮ることもわりとある。ドキュメンタリーの『アメリカン ティーン』はもちろん、全員ふつうの高校生(のわりにすごくドラマっぽかった)、『エレファント』はたしか地元でワークショップをして出演者を集めた。本作の高校生たち、主役級は俳優活動をつづけているみたいで、たしかにそれなりに小ぎれいだけど、わりとふつうの少年少女に見える。整いすぎていないのだ。

本作はとてもさらっとした感触の1本だ。起こる出来事も「日常のスケッチ」に収まるくらいだし、登場人物たちも(ここはあとで言うけれど)、飛び抜けて濃いキャラクターじゃなく、みなさん行儀よく、つまり観客から見てそこそこ自分に置き換えられれやすい。ひりひりするようなシーンもあまりない(たとえば『桐島、 部活やめるってよ』は露骨なシーンはなくてもすごくひりひりした!)。描写も抑制が効いている。

若者たちの一夜を描く群像劇、『アメリカン グラフィティー』『台風クラブ』がすぐ思い浮かぶ。『ブレックファスト クラブ』もそうだ。このあたりはドラマとしての味付けをしてる。 ノスタルジーで染めたり、密室状態でテンションをあげたり、対立構造を作ったり。本作はそれと比べると「離散的」なのだ。

登場人物たちは、それほど濃厚にからまない。こっちの人物が別のエピソードに脇役で現れて...的な群像劇らしいシーンもある。でもロバート・アルトマンの『ショートカッツ』『ナッシュビル』、あと例えば『マグノリア』や『クラッシュ』みたいな、密接な絡みの面白みは狙ってない。アルトマンの2作や『エレファント』みたいに、ばらばらだった登場人物たちがある1点(しばしばカタストロフィックな)で収斂する物語でもない。エピソードはそれぞれに続いていって、それぞれに決着する。

物語はオーソドックスな、少年少女の特別な一夜のお話だ。それぞれがちょっとした冒険をして、心にさざ波が立って、少しだけ成長する。そして翌朝には日常に帰るのだ。冒険は、基本的に少年少女の一大テーマ「性」だ。そりゃもちろんそうでしょうとも。ある少年はスーパーで見かけた美少女に夢中になり、一晩中探し求めるし、ある少女は大人の男性に近づいてみるし、双子を思い出したボーイはたまらず車を転がして会いに行くし、 別の子は彼氏が浮気したのに気がついて腹いせに別の男を誘う。
群像劇で、ばらばらの登場人物たちの共通テーマが「性」ってわりとある。『ショートカッツ』もそんなところあるし、オーストラリアの学校もの群像劇『明日、君がいない』もそうだ。いろんな立場でもとりあえず持ってるテーマだから描きやすいところもあるんだろう。さりげなく言っとくと、本作のそのへんの描き方もまたこの上なくさらっとしている。みなさんそこもわりとお行儀がいいのだ。この抑制はなんだろう?

基本的にそんな感じなんだけど、全体に、この監督は「若い男の欲望に突き動かされた暴走」に向ける視線がやさしい気がする。さっき言ったみたいに誰も無茶はしない。だけど双子に会いにいくボーイや女の子を探し求める少年の欲望がちょっと行き過ぎても、女の子たちは冷たく拒絶しない。当惑しても、柔らかくその場は受け止める。まあ若い時ってそうだったかも知れないね.....(遠い目)。監督は撮影時36歳。十分大人の年齢だけど、少年時代を突き放してないんだよね。
監督はこの物語を理想化した青春のお話なんだと言っている。だからmyth=神話(原題は “The myth of American sleepover”)なのだ。社会的な問題や深刻な対立は持ち込まない。やさしい視線でこまやかに心の機微を描く。
ちなみに。お泊まり女子会の女の子たちが「コックリさん」してたんだけど、あれって何、アメリカで定着してたの?