ブリグズビー・ベア


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ストーリー:沙漠の一軒家にすむ青年ジェームス(カイル・ムーニー)の日課は毎週TV番組『ブリグズビー・ベア』を見て、その世界を研究すること。ネット仲間との番組ネタのチャットも楽しい。でもそんな日常は急に終わる。かれは幼い時この家の夫婦にさらわれ、隔離した世界で育てられていたのだ。実の両親は再会に感動しつつも、異世界で育ったジェームスに戸惑いも隠せない。妹は嫌悪感まるだしだ。『ブリグズビー・ベア』がない外の世界に連れ出されて、まわりのすべてに馴染めないジェームスは、パーティーで出会った高校生、スペンサーの協力で番組の完結編を撮りはじめる…...

映画の中で描かれる映画や映像。それはいつでも物語の過去を映し出す。スクリーンの中でいきいきと動く人たちは、うつろう時間の中で固定された「生」を生きている。
映画は基本的に時間経過が圧縮される表現だ。登場人物たちの時間はどんどん過ぎ去る。その中で見せられる「固定された生」は、よりノスタルジックに映るだろう。物語の中で10年たっても、スクリーンの中の彼や彼女はまえと同じ美しさのままなのだ。『パリ・テキサス』でじつに効果的につかわれた家族の8ミリフィルムの場面。記憶を失った男は、再会した家族の家で昔の自分と自分が愛した女とで海に遊びに行ったシーンを見る。その瞬間思いがよみがえるのだ。

本作の主人公はTVシリーズにどっぷりとはまっている。シリーズは25年くらい前にはじまり、写っていた美少女は、いまではちょっと疲れたお母さんになっている。子供用だったシリーズは、主人公の成長に合わせるように複雑になり、やがて壮大な叙事詩になる。「宇宙的」としか言いようがないスピリチュアルかつ自由(でいてどこかで見たような)な想像力にあふれた世界だ。隔離されて育った主人公のそばにはそのTVシリーズしかなかった。20年以上TVシリーズは寄り添いつづけた。けれどかれは外の世界に「救出」される。外の世界にはTVシリーズはない。画面の中にあった世界は時を止め、完全な過去になってしまった。

で。ここから物語は「映画をつくることの映画」になる。アマチュアが仲間を集め、自分のイメージだけを頼りに世界をつくっていく。『僕のミライに逆回転』はほとんど古典といっていい愛すべきそんな作品。本作も参照してるんじゃないかな。『桐島、部活やめるってよ』の高校の映画部、『地獄でなぜ悪い』のヤクザと自主映画野郎、それから『ブギーナイツ』でポルノ俳優たちが趣味で作るアクションムービーの独特の味わい。これも本作に映り込んでいる。

世界としてわかる。番組『ブリグズビーベア』の、スピリチュアルかつキッチュな、ようするにトンデモ映像ぶりも狙いとしてはよくわかる。さっきあげた愛すべき作品も、映画の中で作られる映画の間抜けぶりがやっぱり肝なのだ。アイディアをひねり出し(これまで見てきた映画のなにかなんだよね)、セットも衣装もないから、そのへんのものをアレンジして撮影して、CG初心者が幼稚なエフェクトを加えて.....その楽しさをたっぷりと見せる。

ジェームスをさらって育てた両親の文化的な位置も、よくわかる人ならもっと面白いかもしれない。ある時代のヒッピー思想と宇宙観の融合。ホドロフスキーとかにも感じる資質だ。彼らの家は砂漠に大部分埋まっていて地上部はフラードームというガラスのドームだ。思想家・エンジニア、バックミンスター・フラーが発明した構造で、今のセルフビルドハウスのキットでも使われたりする。育ての両親、いかにもフラー信奉者っぽいのだ。

そんなわけで愛すべきいい話なんだけど、いまいちカタルシスがなかったなというのが正直な感想だ。物語としてはけっこう陰影があるはずなのだ。だってそうでしょう。さらった赤ちゃんとお母さんとして暮らす『八日目の蝉』みたいな切なさだってほんとはある。圧倒的な異物の主人公をなんとか受け入れて、自分たちの世界によびもどそうとする生みの両親の葛藤はそれなりに描いている。でも育ての両親の側はほとんど描かれていない。お母さんなんか序盤で消えてしまうのだ。そっちがあると立体的な情感になった気がするんだけどなあ。オリジナル『ブリグズビー・ベア』製作の話も少し知りたいじゃないか。
主人公の異物っぷりからすると、はじめての他人との交流でいきなり同志が見つかって、映画製作に向かって走り出すのもやけにスムーズだ。物語は「全員いい人」モノで、両親、ツンデレな妹、妹の同級生の映画マニア、人のいい刑事、それに犯罪者だった育ての両親もみんなイノセントでナイーブな主人公を愛しささえる。

そのあたりのいろいろがもう少し入ると、エモーションも泣かせ成分も増したと思うんだけど、どうなんだろうね。作り手たちはエモーショナルな要素は比較的薄味にとどめた。『はじまりのうた』みたいな、なにかを失った人がものを作ることによって立ち上がっていく、その喜びにフォーカスしたといえるのかもしれない。