籠の中の乙女(ヨルゴス・ランティモス その2)

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ストーリーアテネ郊外の広大な家。広々とした芝生と深いプールがあり、トロピカルな植物に囲まれて、室内は清潔な白いインテリア。両親と20歳くらいの息子・2人姉妹の5人家族だ。父は古いベンツで工場に仕事に行く。子供はいつも家にいる。学校にも通わないし遊びにも行かない。この家では子供たちは外の世界をまったく知らないのだ...

監督のいわゆる「世界進出」のきっかけだろう。2009年公開、カンヌ映画祭の「ある視点」賞を受賞した。この賞らしい、じつに変わった映画だ。前回の『ロブスター』と似た、ある思考実験ぽい設定があって、その世界にいるひとびとの生態を観察するみたいな映画。撮り方・見せ方も『ロブスター』以上に奇妙で「初期作品」感がすごくある。監督のキャリアを見れば初期じゃないんだけど....

ランティモスの作品は、まず登場人物たちをしばるルールがある。不条理なルールで、でもしたがわないわけにいかない。「なんでそうなの?」という説明はいっさいない。本作の「ルール」は、父と母がつくった家族内ルールだ。子供たちを家の外の世界にいっさい接触させない。外に出させないだけじゃなく、外の世界を想像することさえさせないのだ。

そこをシンボリックに見せるのが、言葉の操作だ。外の世界の言葉をどこからか聞いて来た子供たちに、たとえば「高速道路」は「強い風」のことだと教える。「電話」は「塩」のことだと教える。外の世界につながる単語は、みんな家の中にあるなにかに置き換えてしまう。オーウェルディストピア1984』の家族版という感じだ。言葉がうばわれるとその概念もなくなる。

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この両親はふつうに考えれば狂っていて、子供たちを虐待して自由をうばっている。でも深刻な感じには見えない。家は広々として快適だし、小ぎれいな服を与えられて子供たちはそれなりに楽しげだし、ほしい食材は父が買ってくる。庭はフェンスと門で囲われているけれど、その気になれば全然外にも出られる。でもかれらは出ようとしないのだ。

どうやってしばりつけているかというと、フィクションの力なのだ。父と母は協力して、恐ろしい「外の世界」像をつくりあげ、いろんな概念をたくみに消して、子供たちを外に出る気にさせない。これって、そうとうに世界観を作り込まないと通用しない。お父さんはじつにいやな感じの、さえないくせに家では強権的な親父だけど、世界観をつくるクリエイティビティはなかなかのものでは.....似た映画をおもいだした。『ブリグズビー・ベア』。

 

本作には元ネタがある。『Castle of Purity』という1973年のメキシコ映画だ(見た事ないけど)。この映画は実話を元にしている。1950年代のメキシコシティで、父親が子供たちを「外の世界」に一切触れさせないで、家族で内職し、父親だけがそれを売りにいき、必需品を買って帰る、そんな暮らしを18年間つづけていたそうだ。3人の子供たちは家ですべてをこなす。勉強も仕事も、散髪も。

つまり本作、実話ベースといっても良いわけだ。でもこの話、リアル方向に詰めるんじゃなく象徴劇っぽい。子供たちが勝手にはじめる奇妙な(どこか自死願望があるような)色んなゲーム。親父が子供たちを評価して採点して、成績順にあたえる無価値なカード。家族のレクリエーションタイムの不思議な決めごと。誕生日かなにかの学芸会じみたパフォーマンス。

撮影は1種類のレンズだけで基本こなしているらしい。室内も自然光でやわらかく撮る。撮影時期は夏なんだろう、庭もきらきらしてとても気持ちよさそうだ。カメラは固定して、ウェス・アンダーソンじゃないけど水平・垂直がきちんと出たシンメトリックな画面が印象的だ。撮り方もエモーショナルと真逆だし、音楽の盛上げも使わないから、この奇妙な話はすごく静謐な雰囲気で進む。

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でも本作は血と暴力とSEXであふれている。ここまでの話のイメージと合わないかもしれないけれど、本作はR18だし、日本版は巨大な肌色のボカシが何度も画面をいろどる。そもそも撮り方が、そこを自然に隠すつもりもなく、むしろ正面から露悪的な感じで見せているっぽいのだ。

暴力も、北野映画みたいに平坦なところから急に起こる。子供たちが理由もなく傷つけあったり、ある動物を敵だと思い込んで殺傷したり、父がとつぜん殴りつけたり... 全体は静謐でやわらかいトーンだけど(それは両親がつくろうとしてる家族像のファンタジーだ)、暴力と性的なものが抑えようもなく入り込んでくる、そのコントラストを見せたいんだと思う。

えぐいのは、両親が長男にだけは「SEXをあたえなきゃ」と考えていて、わざわざお金を払って相手を外から呼んでくるのだ。しかもその相手が首になったら、こんどは「内部調達」を考えはじめる....親父の強権的な雰囲気とあわせて当時のギリシャ社会にまだまだその手のジェンダー観念が濃かったのか、おもわず想像してしまう。

 

 物語は、ゆいいつ外からのゲストが長女にわたした映画のビデオが長女の世界をとつぜん広げる。彼女は『ロッキー』のセリフと顔マネをし、プールで『ジョーズ』のセリフをいい、お遊戯会で『フラッシュダンス』ばりの攻撃的なダンスで踊り狂い、クライマックスに繋がっていく。子供が家庭料理よりインスタントに夢中になるみたいに、よくできたフィクションの浸透力が自家製フィクションの世界をおかすのだ。

この種の映画は、『ブリグズビー・ベア』がそうだったみたいに、閉鎖的な世界の中で生きて来た子供が外の現実世界(ぼくたちが本物だと思ってる世界だ)に出て来て、さてどうなる?という第二幕がありがちだ。本作は....そこもふくめて奇妙な映画だった。

■写真は予告編から引用

 

 

 

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