地下鉄のザジ


<予告編>
ストーリー:10歳の少女ザジは母親につれられてパリにやってきた。母親はパリで愛人と会うのだ。ザジはガブリエル叔父さんの家にあずけられる。彼女が一番たのしみにしていたのはパリのメトロにのること。ところがメトロはストの真っ最中。乗りそこねたザジはべそをかく。次の日メトロに乗ろうと1人で街にとびだしたザジは身なりのいい紳士、ペドロに声をかけられ、しばらく一緒にすごす。ザジを送って家にやってきたペドロはガブリエル叔父さんの妻にひとめぼれ。しかもペドロは警官だった。叔父さんはザジをつれて友だちのタクシー運転手とパリ観光に。エッフェル塔ではドイツ人観光客の女性たちに囲まれ、謎の未亡人があらわれ、ペドロがあらわれ(妻にはご執心のままで)目的がよくわからない追っかけっこがはじまり、やがてレストランで大騒動に…..

よくわかりませんね。ストーリー。ぼくも書いていて、とちゅうから何かを伝えようという気を失った。おわかりのようにストーリーには別に意味はない。スラップスティックコメディーだ。じゃあ大笑いかというと、すくなくともぼくはそうでもなかった。フランス、60年代、コメディというところでとりあえず思いつくのがジャック・タチの映画くらいしかないんだけど、本作7年後の『プレイタイム』を思い出したところはたしかにある。ザジは主人公だけど、笑いは群像劇スタイルだ。前半は主体的にうごいて主人公らしかったザジも後半はなんだか画面上のアイコンみたいになってくる。『プレイタイム』もそこは似ている。あと表面的なところで、パリのお上りさん外人観光客が出てくるところ(『プレイタイム』ではアメリカ人だった)、大きなレストランでのどたばたがクライマックスに来るところ、車の群れがほのかな笑いになっているところ。

映画は原作小説のストーリーをわりあい忠実になぞっているみたいだ。小説読んでいないけれど、メタ的なところもあるシュールな文学なんだろう。主人公に感情移入して何がおこるかはらはらし、ドラマに没入するような物語じゃないはずだ。だからか映画でも映像的なトリックや遊びをつめこんで、観客が没入する隙をあたえないし、ストーリーに何か意味を持たせて理解させようとも(たぶん)していない。ザジも悪態をつき、食べ物をむさぼり、大騒ぎをけらけらと笑いとばし、とくべつ可愛く撮られているわけでもない。いや、まぁ、可愛いけどね。映画的にひっぱっていくのはむしろ巨漢のガブリエル叔父さん(フィリップ・ノワレ)かもしれない。ぬぼっとした叔父さんはそれでいて非常に小粋なスタイリングで、なぜか女装してキャバレー的なステージで踊るのが仕事らしい。後半は叔父さんにつれてみんなが動き回り、叔父さんを中心にしたロンドみたいになる。フィリップ・ノワレ。本作ではものすごい貫禄だけどたかだか30歳。約40年後に『ニュー シネマ パラダイス』で善兵衛もとい全日本ほかを泣かせた映写技師の彼だ。

後半、独裁者にふんしたペドロが率いる私兵みたいな軍がレストランにやってくる。レストランには異常に多くの男性従業員がいて、内戦がはじまる。出演者全員があつまって大団円的なおおさわぎだ。そうこうするうちに今風のレストランの内装はどんどん壊れて、レンガ積みの壁があらわになりはじめる。ぼくは見ていて、なにか同時代人にしかわからないメタファーなのかな?とずっと首をかしげていた。聞き慣れない音色を聴いたときの犬くらいにはかしげていたとおもう。けっきょく、裏に込められた何かがあったのかはわからない。レンガ積みの壁があらわれて古色蒼然とした空間に全部が変貌するのかと思うとそういうわけでもないのだ。

この映画、好きな人はものすごく好きだ。ヌーベルヴァーグの時代(1960年)の、ルイ・マルの代表作のひとつ、クラシックでありつつアヴァンギャルドな当時のフランス文化にはまった人にはたまらないだろう。原田知世さんがこのタイトルの歌をうたってましたね(大貫妙子詩曲)。1983年だ。こういう感じのパリへのあこがれかた、今はちょっとないんだろうなあ。リセエンヌ…….ですか。