脳内ニューヨーク



<予告編>
ストーリー:舞台劇の脚本・演出家の生涯。

奇妙な大河ドラマ。ものすごくミニマルな1人の男の生活を描くのかと思わせる出だしから「あれっ?」という勢いで時間が加速し始める。マルケスの小説を思い出すような時間の進みっぷり、といいたいところだが、さすがに何代にもわたって続く物語じゃなく、演劇の脚本家ケイデン(PSホフマン)の一代記だ。

前半はケイデンのもの悲しい日々の描写だ。アーチストの妻とはぎくしゃくし(そして海外個展を口実に妻と娘は出て行ってしまい)、かれは心気症なのかじっさいどこか悪いのか、いつも体調不良のようす。そんな地味なスケッチ風の物語がつづくのかと思うと(たとえば『イカとクジラ』みたいな)、なんだかおかしなことになってくる。
気がつくと観客が思っていた以上に時間がたっているのだ。幼女だった娘はいつのまにか思春期をむかえている。語り口はここひと月くらいのエピソードを見せるときのものなので、ドラマの話法を見なれている観客は混乱させられる。時間がどんどん経過する描写は、それはそれであるでしょう?たとえば季節変化を入れるとかね。ここではその錯覚も利用して「なんだこれは?」という気分におとしいれるのだ。

このあたりで話は本題にはいる。ケイデンは演劇界の賞を受賞し、大金が入るのだ。かれは賞金をもとに巨大な舞台の構想を動かしはじめる。古い倉庫の中に実物大のNYの街並みセットを作り、中でパラレルワールドのようなもう一つの現実界を(舞台として)つくるのだ。セットは着々と組みあがり、キャストがきまり、リハーサルがはじまる。
ここからはおなじみの「虚構と現実の相互侵食」だ。ケイデンにおこったエピソードはリアルタイムで劇に取り込まれる。舞台の中にはケイデン自身がいて、彼役の俳優が彼の女友達役の女優と、彼自身の前をうろうろする。ケイデンは演出だからそんな役者を見ている。巨大な倉庫のなかにNYの街並がつくられる。セットとわかる街並や、たぶん実際の街の風景を倉庫の中にはめた映像や、いろいろと混ぜ合わされて、観客が今見ているシーンがどのレベルなのかぱっとはわからないようになっている。つまり、この物語の中では〈現実〉は現実感がうすくなるように描写され、〈虚構〉は現実と差がちいさく見えるように描写されて、結果としてその差がほとんどないみたいな物語になっているのだ。終幕にむけて、時間はもうぶんぶんと飛ぶように進み、ケイデンの髪は着々と薄くなり、再会した娘はおどろくほどに老け込んだ女へと変わり、人生の大事なはずのエピソードもあっという間に通過する。やがて登場人物たちがぽつぽつと死にはじめる。そして、舞台の公演はまだはじまらない。

全体小説ということばがありますね。ここでケイデンが構想しているのは、全体小説的な舞台でもあったんだろう。映画のなかで、ほとんど実在といっていいような一つの街をセットのなかにつくることは、日本映画だって黄金期はいくらでもやっていた(その縮小版オマージュが『ザ・マジックアワー』だった)。なんといっても思い出すのはジャック・タチだ。大作『プレイタイム』で何ヘクタールもありそうなパリの都市景観を作り上げたタチは、街でうごめく役者たちそれぞれに動きをつけてCGのように動かし、大量の車を群舞のように動かし、なんともいえない祝祭的な映像を残し、本人は莫大な負債を負った。虚構は現実の人生に影を落とすのだ。見る前に思っていたようなひねった小品じゃなく、妙に重量感があるどっしりした話だったのであった。