サウルの息子

<公式>

ストーリー:アウシュビッツ収容所、1944年。列車で連行されるとすぐに殺されてしまうユダヤ人の中で、例外的に何ヶ月も働いている男女がいた。かれらはゾンダーコマンドと呼ばれ、ナチの集団殺人の実作業を担当させられていたのだ。ハンガリー人サウルはその1人。ある日ガス室で絶命しなかった少年を発見する。サウルはその子を自分の息子だといい、ユダヤの律法にのっとって埋葬しようと、作業の合間をぬってかけまわる。いっぽうゾンダーコマンドたちはひそかに武器を集め、武装蜂起しようと動いていた....

事実関係のディティールは無数の書籍やドキュメンタリーにまかせよう。とにかくこういう場所がありこういうことがあった。監督は観客に「こういうことがあったんだ」と体験したかのような記憶を植えつけたかったんだろう。ナチの行為について直接かれらが口にすることばは映画の中にない(むしろユダヤ人同士の悪態があった)。ホロコーストをめぐる価値判断は、あえて反動的であろうとしないかぎり、異論というものが存在しない(ここでも書いた)。だから言葉のメッセージはけっきょく「いいかた」の違いでしかなくなる。けれど、もし狙いどおり「体験」として観客に染み付いたら、その記憶は価値判断とはべつの次元でずっと残るだろう。

ストーリーの中心に、息子の葬儀に必要だというラビをもとめて動き回るサウルがいる。ほんとうの息子か観客にはわからない。というか、「どうも違うんじゃないか」と思わせる。息子への思いが「きちんとした埋葬」以外で観客にみせられることはない。サウルは規則をやぶり、仲間の忠告も聞かず、蜂起の準備をする同胞たちにろくに協力もせずに最後まであがくのだ。仲間のひとりは「死者1人のために生きているものを犠牲にするのか」とつめよる。あぁそこも、わざと主人公をおろかしく、ややうざいくらいに頑迷にも見えるように描いてるんだろうな。「どんな環境でも人間らしい尊厳ある心を大事にしてる」ある種の聖人に描いてしまうと、やっぱり変な救いが物語に生じてしまうのだ。たとえかれの行動の結果が同じでもね。


サウルのふるまいはもちろん物語の幹のひとつだ。でも「埋葬」は映画でいうマクガフィンだなぁとも思う。しまいにはサウルは毛布でくるんだ子どもの亡がらをかついで戦闘の中を駆け回るのだ。本来の死者の重みは抽象化されて「毛布にくるまれた目的」になる。映画に描かれた1日、サウルは目的のために毎日のルーティンから逸脱して収容所のいたるところにいき、いつもの仲間以外の実にさまざまな同胞たちにあう。もちろんドイツ軍にも。不思議なくらいだれもが重要人物でもないサウルに声をかけ、「ついてこい」と呼ぶのだ。

ひたすらかれに密着するカメラは、自然と収容所の中を紹介するみたいに風景を写し取る。運び込まれたユダヤ人たちが「部品」(映画の中の言葉だ)としてシステマティックに処理されていくプロセスがいつの間にか順を追って見せられるし、ゾンダーコマンドとして生きて暮らすユダヤ人たちがどんな制度で服従し、あるいは服従せずにちゃんと自分たちのエゴのために行動してるのかもよくわかる。サウルの思いと行動は、説明的にせずに収容所を手際よく見せるためのモチーフとして機能している。

見せ方、それに映画の目的もつくりも『野火』と似ている。観客には俯瞰で全体を理解するチャンスはなくて、当事者のようにかぎられた視界と情報から周囲を理解しようとし続けなくてはならないのだ。最初、みているぼくたちは周囲のことが分からない混乱状態にいる。連行されて貨車から放りだされた人の視点に近いのだ。けれど視点はあるところでかれらじゃなくなる。その後かれらの心情が描かれることもない。ぼくたちはサウルたちと同じように、かれらを客体としてしか見ることはできなくなるのだ。ユダヤ教の戒律にしたがって、死後24時間以内に土葬しなければならない、という「息子」をのぞいてね。