her/世界でひとつの彼女


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第86回のアカデミーで、作品賞は取り損ねたけれど脚本賞受賞。スパイク・ジョーンズの『かいじゅうたちのいるところ』につづく劇場公開作だ。監督は作品のトーンをある種さだめたのか、おはなしも世界もちがうけれど、どこかさびしげな雰囲気や音使いや繊細そのものの画面はよく似ている。スマフォやPCを統合したクラウド型のOS=AIと恋する孤独な男の物語だ。
「おれたち3年まえにこの世界体験してるし」といってる人たちがいた。なにかプラス的な、リアルタイム恋愛シミュレーションゲームでね。うん、やってないからなんともいえない。ゲーム画面もよくわからないし、おとうさん的には、農場経営よりはビビッドなんだろうレベルの認識だ。でも、たぶんそこそこ高画質の美少女キャラがいるんだよね。どうだろう、プレイヤーにとって恋する相手の「実体」は、やっぱりその美少女っていうことにならないか?それとも画面の美少女たちは、ツイッターのアイコンレベルの、せいぜいアバター的なマークにすぎないのかな。


『her』で心をつなげるのはひたすらに「言葉」だ。主人公セオドアが恋するAI、サマンサは会話だけでかれにすべてをつたえる。もちろんそこには声がある。声のトーンや間が文字だけじゃない感情をつたえるだろう。監督は、それ以上の思考実験はたぶんあえて封印している。いろんなインタビューをみても「テクノロジーを描きたいんじゃない」「未来という設定がだいじなわけじゃない」と毎回いっている。かれにとっての実験は「そこに肉体がない」という一点でじゅうぶんなんだろう。AIなら語り以外でユーザーをよろこばせる技はいくらでもあるはずだ。セオドアがいるバーチャルの世界をもっと美しくハッピーなものに変えたっていいわけだ。でもそこにはけっして踏み込まないのだ。せいぜい洗練されたコンシェルジュサービスをするくらいだ。AIは観客にも飲込みやすい、統合された「人格」としてふるまう。
彼女のよりましはこれまたクラシックな外形のスマフォがあるだけ。人間の人造度にグラデーションをつけて画面で表現しようとした『ゴッド・ディーヴァ(Immortal)』みたいに肉体性の問題を複雑にしようというところもない。もちろん恋愛に肉対性が必要だとはいっている。セオドアの最大の喪失である妻とのわかれ。妻との思い出はふりそそぐ自然光のなかであまり語らずに触れ合ったりで表現されるのだ。サマンサも一度は肉体のふれあいを演出しようとする。それからセオドアが紹介されてデートする美女もいた。かれはちょっと性急に濃いめのキスをして引かれてしまうのだ。つまりこの物語では肉体性をもとめるつながりはどれもうまくいってない。それよりはセオドアが仕事にしている手紙の代筆に象徴してるみたいに、有効なことばを相手に伝えることが関係そのものになるのだ。こころのこもった手紙がじっさいは代筆で、彼のこころを震わせる声がアルゴリズムで生成された言葉と人工音声であるところはパラレルで、「ほんものじゃなくちゃ、本当じゃないよ」という思考停止的な回帰主義からすこし踏み出している。
だけど後半ではそのあたりはきわめてあいまいになっていく。単体のOSだと思っていたのが、Amazonみたいなパーソナライズされたインターフェイスにすぎなかった、的ニュアンスになっていくのだ。まるで素朴な幼馴染みの女の子が実は超能力者で、おおぜいのひとびとに崇められほとんど神性をおびていく…...みたいに描かれる。

主演のホアキン・フェニックスは『ザ・マスター』と同一人物だと思えないほどだ。カメレオン系俳優だよね(トム・クルーズとかとは対称的に)。ものうげな、おとなしめの人でありつつかすかに変態性も匂わせていい。彼らが住んでいる設定の未来のLAは、現在のLAと上海ロケの組合せ。主人公が住んでいるアパートメントは高層階、通勤列車も宙に浮いたようなところを走り、地面が見えない。どことなく非現実感がただよい続ける。