RUSHーラッシュ


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ストーリー:1976年F1シリーズ。下のクラスにいたころからライバルだったイギリス人ジェームズ・ハントオーストリアニキ・ラウダは、浮き沈みはあったものの、マクラーレンフェラーリという有力チームのドライバーになっていた。享楽的でドライブそのものにたけたハントと、理詰めでマシンセッティング能力も高いラウダ、序盤はフェラーリの性能もあってラウダが圧倒的にリードする。シーズン中盤からマシンが煮詰まってハントがポイントを盛り返すなかで、難コース、ドイツのニュルンベルクのレースをむかえる。豪雨で危険な状態のレース、ラウダは致命的なクラッシュを起こす……..
これは……..王道娯楽映画といわざるをえない。DVDですらこの満足感。いやまあ映画館で見るべき映画だけどね。ほんと絵に描いたようなスポーツライバルものだ。F1でライバルというと僕なんかは少し後のプロスト/セナのぎしぎしした関係のほうがよく覚えているけど、こっちはもう少しのどかな雰囲気でいい時代のスポーツものの香りが残っている。
1976年のF1。最初のほう主人公ニキ・ラウダのモノローグで「毎年25人のF1ドライバーのうち2人が死ぬ」といっていたクレイジーな世界だ。いまではマシンの衝突安全性はしんじられないくらいあがった。ドライバーたちは変わっただろうか。他のいろんなスポーツみたいに、いまはストイックでプロ意識が高い選手たちの世界になってるのかもしれない。むかし、1970年代あたりのF1の雰囲気がどんなだったか、まえにちらっと読んでへえと思った。モナコグランプリだ。一般のモータースポーツファンが各国からあつまる。長いバカンスを利用して、愛車でヨーロッパ各地からとことこやってきて、安いホテルやキャンプでレース当日を待つのだ。海辺の高級マンションからリッチピープルたちがそれを見下ろす。毎年ヨーロッパ中の上流階級の遊び人たちがモナコに集まるためのいいお祭りなのだ。ドライバーたちは彼らから見ればおかかえの騎士みたいなものだ。世間しらずの若者だけど命をかけて派手なショーを見せる特殊能力がある。人気ドライバーはレースウィーク中そんなお金持ちたちに毎晩パーティーに呼ばれて忙しい……..騎士を味見してみたい冒険好きな淑女もいたんだろう。

当時のF1マシンもなんというかちょうどいい。プラモデル界の盟主タミヤはこのころ1/12の超精密なF1のモデルを結構出していて、1976−77年型のフェラーリもラインナップにあった。60年代のいわゆる葉巻型のみんな似た形から、1977年のロータス以降のグラウンド・エフェクトカー(空力を最大限に利用するスタイル)に全メーカーが追随するまでの、ちょうど色んなスタイルが入り乱れているころだ。ひとつにはこのころ、1960年代から80年代末まで現役だったフォードコスワースDVFというV8エンジンがF1エンジンのデフォルトになっていて、ほとんどワンメイク状態(フェラーリだけが自社開発の水平対向12)だったから、エンジン開発費までは出せないコンストラクターもいろいろ工夫して参戦できたのだ。この映画でジェームズ・ハントが最初乗っていたヘスケスみたいなチームだ。ティレルの6輪車もこの時期だからだよね。
で、この2人。じっさいの2人はもっと仲良しだったらしい。一時期はルームシェアまでしていたというんだから。そのあたりはもう少しガチなライバルの雰囲気にしてドラマチックに演出している。キャラクターも、豪快でやんちゃでもてすぎる、そのぶん浮き沈みがおおきいハントと、地味目だけど精密に先を見すえて一歩ずつ進むラウダとわかりやすい対比にして、無名で野心だけある「あのころ」から思い返す鉄板の展開で見せる。それぞれ美女とであって結婚する、そのちがいもシンプルな対比だ。映画のなかのハントは、病院にいけばナースと、飛行機にのればCAと、職務を忘れさせていきなり始めているわけだが、リアルのハントはたぶんセックス依存症で、生涯に5000人、日本グランプリで来日したときは滞在中ずっと東京ヒルトン(改築されるまえのキャピトル東急。むかしは外国人客が一番このんだ)の部屋にCAやらだれやらがいたというんだから、まさにゴージャス魔王だ。

脚本家はラウダと知り合ってこの話を書こうと思い立ち、とりあえずオリジナルで書いて持ち込んだら企画がGoになって、監督ロン・ハワードが呼ばれて…..という感じですすんだらしい。おなじ脚本と監督の『フロスト・ニクソン』はぼくにはちょっと、だったけど。監督はだからF1のことはよく知らなかった。実車を走らせるために各国のコレクターから車を借りたり、往年のスタードライバーを呼んでドライブシーンを仕切ってもらう。『アンチクライスト』や『127時間』を撮った撮影監督が撮る。ちなみにここで映画の名レースシーンが紹介されてる。全体とディティールとドライバーの表情と彼の主観映像の切り替え、このあたりは定石になってるんだろう。この映画ではカメラが小型化したのをいかして、車体の意外な部分に仕込んでパーツの動き込みで見せたりもしている。音楽はドラマチックで壮大なBGMならこの人、という作曲家がいつもどおりに聞かせて、トータルで人間ドラマでありつつちょっと神話感もただよわせるあんばいがいい。
クライマックスはじつは意外にクライマックスじゃない。このあたりは実話ならではのオチで、映画ではそこに「愛」のニュアンスをからめて飲みこみやすくしている。ラウダは映画で描かれている自分たちに「そのものじゃないか….」と満足したそうだ。映画の完成試写はF1ドライバーはじめチームオーナーや関係者をあつめておこなわれた。監督はそうとうプレッシャーがかかったけれど終わるとスタンディングオベーションがおこったそうだ。祝福された映画だよね、って感じがするよ。