薔薇の葬列


<予告編>
ストーリー:1969年。新宿のゲイバーの人気ホステス、エディ(ピーター)はオーナー(土屋嘉男)の愛人。ベテランオカマのママはオーナーの“本妻”だったけれど、恋も仕事のポジションもあやうくなって気がきじゃない。でも自由に見えるエディには消せない過去があった....

メイクとヘアスタイル。ぼくたちはほんとうに簡単にそれで納得する。モテメイクもモテヘアもそれがなんでモテの記号になるのかはわからないけれど「かわいい女の子の構成要素」としては見る。簡単なのだ。だから女装男子でも、ウィッグとメイクとファッション、いわばデコレーションの仕上がりがよければ(そして「本体」がそれをじゃましなければ!)、見る側はなかば進んで錯覚して楽しもうとする。ロールした髪やひらひらの服みたいな「女子」的記号が、じつは女性的身体を絶対の前提としてるわけじゃなく、それ自体でほとんど自立して機能する、そのいっぽう見る側の規範意識があくまで「女子」という記号を必要とする、というけっこうゆがんだ面白さがある(ま、ほかにもあるだろうけど)。たまにそれに意識的な女性が、わたしは女子コスプレしてる、というよね。

さて、この映画でデビューしたピーター(池畑慎之介)もメイクとウィッグとかわいい服で気持ちよく安室奈美恵風の目が離れたヒロインになる。回想シーンで学生服&ノーメイクの少年慎之介が映るけれど、そこにいるのは、失礼だけど美少年とはだいぶ距離があるフィッシュフェイスの細いボーイだ。
それでもデビューまえから噂になるくらい、街場で目立っていた妖しい少年だから独特な美しさはあったんだろう。家出して東京にやってきて、六本木のクラブ(当時のゴーゴーバー)で毎晩踊ってて関係者の目にとまったというんだからね。メイク担当たちの手でしあがった彼は、とにかく線が細いのもあって完成度の高いビジュアルだ。女の子っぽいというよりは中性的な「きれいな人」だ。ソフトながら当時17歳のラブシーンもある。監督は露出オーバーで画面を白くとばして無垢なかんじの綺麗さに見せている。

1960年代のゲイボーイ。江戸時代の陰間茶屋から、風俗としてその世界はあったんだろうけど。ゲイバーの中でも、昔かたぎのオカマと、ヒッピーっぽい今風のオカマの軽い対立みたいなものもでてくる。ヒッピーオカマが街を歩くと、ゲリラ撮影風で撮られた新宿駅の「ふつうの人たち」との距離にさすがに時代を感じずにはいられない。やっぱりみんな圧倒的に地味なんだね。金髪でアヴァンギャルドなファッションの娘なんていまじゃだれでも友だちの友だちの親族くらいまでたどれば1人くらいはいそうだけど、当時は考えられないくらいやっぱりカブキ者だったんだろう。

映画も当時のアヴァンギャルドだ。唐突なカット、一瞬のイメージショットのインサート、音楽に合わせた早回し、ソラリゼーション、主観ショット、劇中に説明なくインサートされる出演者インタビュー。お話はアレンジしたオイディプスの物語だ。読むとわかってしまうけれど、終盤のエピソードは忠実で、神話そのままのラストのビジュアルはなかなかすごい。
エディが愛人になるバーオーナー役の土屋嘉男は『七人の侍』でおなじみ。すごく楽しい人だったみたいで、後年は特撮モノの宇宙人役とかをノリノリでこなし、おかげで海外に行ってもファンに声をかけられるくらいだったという。