馬鹿が戦車(タンク)でやって来る


<予告編>
ストーリー:第二次大戦からしばらくたった農村。元大地主と市会議員がおおきな顔をしている。戦後の農地解放で自作農になったサブ(ハナ肇)たち一家は極貧で、母は耳が遠いし、弟平六(犬塚弘)は脳内メルヘン状態で自分が鳥だと思っている。戦争帰りのサブもがさつなだけで世渡り下手。そんなだから他の村人にも馬鹿にされている。地主の娘(岩下志麻)だけはサブに親切だ。でも一家の納屋にはなぜか戦車が隠してあった.....
1964年公開。山田洋次の松竹「馬鹿」三部作の一つだ。どういう三部作だという気もするけれど、その頃の旬のスターハナ肇主演のコメディで、寅さんシリーズの原型ともいわれている。ハナがリーダーだったクレージーキャッツ主演の「無責任」シリーズ(東宝)は、洒脱な植木等をまんなかにおいて、東京のサラリーマンが主役だったり、ラスベガスに行ったりで、ジャズバンドであるクレージーらしい都会派のコメディだ。それにくらべて「馬鹿」シリーズは、離島だとか農村だとかの非都会の風景をしみじみ描く。もちろんカラーを違えたんだろうし、山田監督の地方風土へのまなざしでもあるんだろう。「地方にも目を向けろ!」という社会的思想なのか、寅さんの諸国めぐりに濃厚にあるみたいな地誌学的関心なのかはわからない。

で、この作品。実をいうとコメディじゃない。いや、いちおうコメディの演出はしてる。ちょっとしたドタバタとか、シリアスにならないように音楽ふくめておどけて見せている。でも物語全体は笑える展開じゃない。というよりびっくりするくらい原型的な説話の構造そのままなのだ。村人たちにあざ笑われていた周縁的な存在が最後にいわば怪物化して復讐する話だ。民話じゃないし、事件の構造はちがうけれど、たとえば戦前の「津山事件」が頭をよぎらないでもない。『八つ墓村』の元になった事件だ。
怪物化ってなんの話?…..ですよね。この映画、クライマックスで(とはいってもけっこう長い)馬鹿=ハナ肇が戦車に乗ってやってくる。戦車でいわば復讐するのだ。車もトラクターもない、木造住宅だけの村から考えれば、戦車一台は十分怪物的破壊力だろう。監督は、とくにおびえる村人たちの描写を、怪獣映画の演出で見せている。『ゴジラ』第一作が1957年、『ゴジラモスラ』が1964年。怪獣映画全盛期だ。ラストを見れば、いかに戦車の扱いが怪獣映画モチーフかよくわかる。このへんあきらかにネタバレなんだけど、まぁいいよね。だってタイトルもポスターも戦車に乗ったハナ肇を大々的にフィーチャーしてるんだから。前半で主人公に共感した観客のフラストレーションをためにためておいて、戦車でどーんと登場させる「いよッ待ってました!」タイプの映画ともいえる。

マージナルな存在であるサブの一家。弟の平六は知的障害者で、かぎりなくイノセントに描かれる。そのへんをうろうろして、馬鹿にされていても、俗世からは超然として、しかも天をいく鳥に同一化してる。民話にこういう「聖なる愚か者」キャラがときどきいる。でも平六はトリックスター的存在じゃない。どっちかというと「鳥」という部分もふくめてサブたち現世と彼岸をつないでいるような、天使的というかスピリチュアルな存在なのだ。
とまあこんな感じで、あまりに説話の型通りなところがあって、そのぶんキャラクターははっきりいって類型的だ。悪役は悪役なだけだし、ヒロインはひたすら善玉なだけ、村人も、もっといえば主役のサブも一面的にしか描かれていない。つまりお話としては練れている感じはしないのだ。ただその風景と出演者たちの顔に味がありすぎる部分で、映画に滋味が生じているといわざるをえないね。あと、ラストはこれも民話にときどきある開放感に近いのだ。地理的な意外さで、ちょっと「おっ」という開放感にもちこんでいる。地理的な意外さ(ずっと山道を歩いているつもりが急に市街地が見えた、的な)を使うのは映画にしては珍しいかもね。話はちがうけどシャマランの『ヴィレッジ』を思い出した。

最後に主役である戦車について。予告編を見てもらうとわかるけれど………..意外とちいさい。怪物なんて書いたけど、けっこう小さくてしかもやけにクイックなうごきを見せるから、しょうしょう怪物感がうすいという残念さがあるのだ。もうちょっと重量感があればなあ。戦車は「愛国87号」という架空のモデル。映画用に当時の雪上車を買って改造していて、たぶん4mもないだろう。軽自動車じゃん、といいたくもなるけど、日本の軽戦車って意外とそんなものだったのだ。
元になった雪上車
それにしても、ここでもここでも言っているけど、1960年代前半だと、関東近郊(ロケ地は埼玉県比企郡鳩山町)で舗装道路もあまりない、ほとんど近世からつながっているような景色が撮れたんだねぇ。農村風景の断絶はつまり日本列島改造論以降にあったんだと思う。つくづく。