監督失格


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ストーリー:AV女優、林由美香の主演作でデビューした平野勝之監督は,1996年の夏に2人で自転車に乗って北海道を目指すたびに出る。旅の記録は映画になって残り、2人の距離が離れてからも、なんとなくな友人関係はつづく。2005年、久しぶりに彼女を主演に映像を撮ることになって自宅をたずねた監督は、死んでいる彼女を見つける。数年後、そんな年月が一本の映画になった。
平野監督は『由美香』を撮る旅で、彼女に「監督失格だね」とつきはなされている。二人の感情が最高にたかぶって自分が泣いたときにカメラを回していなかったから、そこを撮れないなんて失格だよ、といわれてしまうのだ。もう一度、ぶちきれて彼女の顔をはたき、けっきょく泣いて謝ったときも撮れない。
ぼくはこの映画を見るまで平野監督を知らなかった。だから他の作品も見たことない。でも作品の説明を読めば、行くところはそうとうに行き切る人なのはよく分かる。変な意味で自分を大事にするタイプじゃないんだろう。でも泣いている自分は撮らない。
どうなんだろうね。「おれにはそんな価値ないよ」ていうのが監督の立ち位置かもしれない。由美香は彼にとっての絶対的なヒロインだから、彼女のちょっとした表情も、ふとした仕草も、映像に残しておきたいだろう。でもそこにおれの泣き顔なんて一緒に入れてどうなるんだよ.....っていうね。画面のなかのかれはヒロインの相手としてだけ、ヒロインをある状況に引っ張り込むためだけにそこにいる。AVの"男”は、そういうものだよねたしかに。そこで男の"おれ”がでちゃだめなのだ。

死んでいる由美香が発見されるシーンでは、監督はリポーター役になる。アシスタントが撮っている感じで、監督は状況を説明したり、あせった声で電話をかけたりする。実録系でよくあるタイプのリポーターだ。そして鍵をもったお母さんと部屋に入ると、「ぐうぜんに床においた」ふうの回しっぱなしのカメラは、娘の死を知ったお母さんの何ともいえない感情表現を記録しつづける。しばらくして昔の恋人、ハメ撮り監督のカンパニー松尾が由美香が死んだのを知らされて現場にやってくる。松尾はぐしゃぐしゃに泣いた自分を映像にのこしている。
平野監督の生の感情はけっきょく映されない。かわりにテロップで簡単に説明される。事件の後の何年間はさらっと省略されて、映画は後日談ふうのお母さんとのインタビューになる。あらためて予告編を見ると、そこにあった映像もだいぶカットされている。監督が感情をあらわにしているシーンもふくめてね。だからラストで監督が感情を吐き出すと「ああ、やっと吐き出せたんだ.....」というふうにも見える。
でもなあ、この映画では監督自身がもっと映るべきだったんじゃないのかな。映ってる時間という意味じゃなく。だってこの映画、どうしようもなくパーソナルな「監督の」映画だからね。そこにあるのは「監督の」由美香への愛だ。みんなのミューズ由美香じゃなくて。AVをつうじてでも彼女に恋していた人たちはかれの視線を共有できるかもしれない。でもぼくはそこまで入り込めなかった。この映画のなかで彼は映画を撮り、撮ろうとしている。けれどここではカメラ=監督の個人的な視線、というふうに見える。映画を撮る=なにかをつくりだす、的な感じというよりね。
けっきょくは、映画のタイトルが『監督』であるとおり、主人公は監督自身でしかないのだ。どう見ても主人公はかれだ。だから彼女といないときの監督がほとんど語られていないのはなにかが足りない。どうしても、な何かはあるんでしょう。でも悪い言い方すると、由美香への思いのきれいめなところだけ集めてるみたいにも見える。
監督がやっと吐き出した感情表現、それも自転車カメラの流れる風景の後ろでかれの声だけが聞こえている。