メッセージ


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ストーリー:愛する娘と湖畔の静かな家ですごす言語学者ルイーズ(エイミー・アダムス)。ある日、大学の研究室に軍人、ウェーバー少佐(フォレスト・ウィテカー)が訪ねてくる。世界の12カ所に突然出現した宇宙船とそこにいる知的生物とのコミュニケーションを支援してくれというのだ。空中に浮遊する巨大な宇宙船には対話のための部屋があった。水槽のようなおおきな窓ごしにルイーズや物理学者のイアン(ジェレミー・レナー)たちは対話を開始する。音声言語だけじゃなく文字言語ももっている知的生物。アメリカ以外にも中国・ロシア・日本・パキスタンスーダンなどにもやってきた宇宙船に、各国の研究者は共同で対話をこころみていた。でも一方ではなにかがあれば宇宙船を一斉に攻撃する準備も着々と進んでいた…...

物語の中心的なアイディアと語りの構成は原作そのまま、監督ドゥニ・ヴィルヌーブの忠実な映画化だ。話は娘との思い出からはじまる。そして宇宙からの来訪者との対話を通じて主人公の意識が変わっていく。
でも感触はけっこう違う。原作はじつに思索的な小説だ。コアになるアイディアと哲学的な命題を主人公ルイーズにたくしてそれだけを無駄なく書いた、ほとんどミニマルな短編だ。ほんとうなら全地球が上へ下への大騒ぎになるはずが、その描写も一切ない。感情に訴えてくるとすれば、母親が子ども(この場合は娘)を産み、育っていく彼女との時間に感じることを繊細に描いている部分だ。映画はやはりエンターテイメントとして、エモーションをかき立てなくてはいけないだろう。宇宙船の到来は地球規模の危機になるし、各国政府の駆け引きはあるし、爆発はあるし、主人公の暴走的活躍もちゃんとある。

とくに大きいのは地球外生命体〈ヘプタポッド〉(7本脚)の存在だ。原作のヘプタポッドはコミュニケーションに協力的で物理学的な対話までこなす。他の研究者とも、映画よりだいぶ踏みこんだ対話もしているふうだ。でもぼくは読んでいてヘプタポッドに思いをはせることはあんまりなかった。かれらは人間が情報を引き出して解読するたんなる対象で、なんなら古代文明の書物とあんまり変わらないのだ。ぼくらから見るとその意志とか主体性はほとんど見えない。
映画ではもう少し感情移入の対象になる。外形はそうでもない。原作どおり7本脚で〈人〉的なものを思い起こさせる要素は最低限にしてある。目はわからないし、サイズは巨大だし、服も着ていないから〈知的生物〉感はない。スターシップトゥルーパーズ的な、嫌悪感をかきたてる別の生物に似せてるわけでもない。おまけに霧の中にいつもいてなんだか現実感がない。でも、見ているぼくたちは主人公の「かれらと対話が、理解しあうことができるの?」というところから、だんだんと話が通じる相手になっていくところも描かれるし、ヘプタポッドにはちゃんとした意志も意図もある。だからファースト・コンタクトもの映画らしい、出会いと理解のいい話が感じ取れるようになっているのだ。

もう一つ、話のコアは主人公の意識の変容をうながすかれらの言語だ。「かれらの言葉は表意文字だ、漢字みたいなね」的なコメントもときどき見るけれど、原作ではそれともはっきり違うといっている。「語順」というのがないのだ。漢字だって、たしかに一文字に情報が凝縮されているけれど、それがシーケンシャルに統合されることで情報が伝わるでしょう。かれらの言語は、ぼくの理解でいえば漢字の単語を並べてその関係性を矢印か何かで図示したダイアグラムみたいなものだ。
原作ではそれは直行するマトリックスっぽいイメージで語られるけれど、映画ではドリップペインティングか書道みたいな飛沫の多い円で示された
しかも宇宙生物が空中に脚から煙を飛ばすとそれがやがて形になるのだ。彼らの字をどう見せるか、ほかにも正解はあるかもしれないけれど、この丸はすごくシンボリックに見えるし、違う文化のものに見えるし、どことなく洗練してみえるし、たしかに成功している。一般人であるぼくたちにはとても秩序だった形態には見えないけれど、細かく文節すると読み取れるのも納得できるあたりのバランスもね。
お話のスリル要素、「世界の危機」「暴走する軍事国家」「撤退のタイムリミットと抵抗する主人公」あたりはまぁ入れざるをえないんだろうね。途中ででてくる時限爆弾はともかく。それでもエンターテイメント映画としては異例なくらいアクション要素は少ないし、抑えめの描写だ。プロデューサー側は「宇宙船の内部も見せてくれ」といったそうだけど監督はそれも止めたという。そのかわりにさっき書いたみたいな地球外生命体の意志はなんなんだ?というなぞの要素を入れてひっぱりにする。


このお話は時間と因果関係についての考察でもある。ぼくたちが感じるみたいに時間は不可逆で、後におこる出来事は前におこった出来事の結果でしかないのか、そうじゃない世界もじつはあるんじゃないか…..? 原作はそこの説明にわりと力点を置く。映画では説明は簡略にしているかわりに、想像力をもう少しふくらませて、一種のタイム・パラドクス的要素(って言っていいのかな)を付け足して、終盤を盛り上げていく。そして因果のくびきから離れたと感じた時に、ひとはどう生きるのか?というメッセージもつたえる。
映画は音楽とならんで、強力にシーケンシャルな表現メディアだ。ふつうに見ると観客は映画の時間は物語の中の時間と同じようい進むと思うし、後でおこる出来事は前にあったことの結果だと感じがちだ。その無意識の見方をひっくり返すトリッキーな構成の映画といえば『メメント』があった。話が逆に進む『アレックス』も、それから時間構成がちょっとしたオチになる『エターナルサンシャイン』もあった。共通してるのは主人公たちの〈記憶〉が話のキーになるんだよね。本作もまさにそうだ。あたらしい言語の習得によって意識が変容した主人公にとっては、記憶の意味が変わる。一番のおどろきも感動もそこにある。
主演エイミー・アダムスは美しく見せすぎず、そこもじつに抑えめ。パートナーの物理学者役、ジェレミー・レナーも終始温和だ。原作でイメージされる2人より映画の2人が少し年上なのも、このストーリーの味わいをぐっと深めている。ぼくはなぜかテレンス・マリックの哀切な『ツリーオブライフ』を思い出していた。
*画像はUS版予告編からのキャプチャ